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シン・日曜美術館『ジブリの耳をすませば』~転~「自由画検定委員 中篇:雪渡り⑬」


前回はこちら


2019年 7月 フランス
アルザス地方 コルマール



RESTAURANT JAPONAIS NAGOYA
日本料理レストラン ナゴヤ




氷の上(ひのかみ)山は、オリーブ山…

そして「氷の上」は「火の神」であり、一家に分裂をもたらす神…


では、もう一度『雪渡り』第二部の冒頭を見てみましょう。

いったい何が描かれているのか…


雪渡り その二(狐小学校の幻燈会)

 青白い大きな十五夜のお月様がしずかに氷の上山ひのかみやまから登りました。
 雪はチカチカ青く光り、そして今日も寒水石かんすいせきのようにかたこおりました。
 四郎は狐の紺三郎との約束を思い出して妹のかん子にそっと云いました。
「今夜狐の幻燈会なんだね。行こうか。」
 するとかん子は、
「行きましょう。行きましょう。狐こんこん狐の子、こんこん狐の紺三郎。」とはねあがって高く叫んでしまいました。
 すると二番目の兄さんの二郎が
「お前たちは狐のとこへ遊びに行くのかい。僕も行きたいな。」と云いました。
 四郎は困ってしまって肩をすくめて云いました。
大兄おおにいさん。だって、狐の幻燈会は十一歳までですよ、入場券に書いてあるんだもの。」
 二郎が云いました。
「どれ、ちょっとお見せ、ははあ、学校生徒の父兄にあらずして十二歳以上の来賓らいひんは入場をお断わり申しそろ、狐なんて仲々うまくやってるね。僕はいけないんだね。



まず言及されるのは、満月の夜、山、石…

それから、狐小学校の幻燈会のことを気にしている、二番目の兄さん二郎…


四郎とかん子が狐小学校の幻燈会へ行くことに口を挟んだのは、一郎でもなく三郎でもなく「次男の二郎」だった…

「次男の二郎」とは、賢治とトシの宗旨替えに強く反対していた「父 政次郎」が投影されているキャラクターだ…



ここまで材料が揃えば、もう簡単でしょう。


つまり、この冒頭部分も、やはり…


ルカーっと叫んでますね、ルカーっと。



つまり、賢治が読んでいた日本正教会翻訳『我主イイススハリストスの新約』の、ルカに因る福音書…

この部分だな…


ルカ 第二二章

三九 すなはちでて、例の如く、橄欖エレオンざんけり、その 門徒もんとも彼にしたがへり。
四〇 そのところに至りて、彼等にへり、祈禱きたうして誘惑いざなひるをまぬかれよ。
四一 みづから石の投げらるる程に彼等を離れ、膝をかがめて、たうりて
四二 曰へり、父よ、ああ なんぢ さかづきをしてわれを過ぎしめんことをがへんじたらんには。しかれども我のむね らずして、爾の旨 成るべし。
四三 天使は天より現れて、彼をかためたり。


「子」は「父」に向かって「あなたの旨と私の旨は両立しない」と言っている…


この日は、ユダヤ暦 第一の月の十五夜、満月の夜…

氷の上山は橄欖山(オリーブ山)で、寒水石はイエスが自ら投げた石…

つまり、離れた場所で誘惑に負けないよう祈禱しながら待つように言われた「門徒」とは、熱心な浄土真宗の念仏衆「門徒」であった父 政次郎…



狐小学校の幻燈会で「十二」が忌み嫌われ「十一」にこだわるのは、裏切り者のユダの名前が出る時に「十二の一なる」と枕詞のようなものが付くからでしたね。

最後の晩餐を描いた宗教画の多くは、テーブルのイエスがいる方に12使徒の11人が並び、反対側に1人だけユダが描かれます。


ルカ 第二二章

ときにサタナは十二のひとりなるイウダ、しょうしてイスカリオトとふ者にれり。


『ULTIMA CENA(LAST SUPPER)』
Domenico Ghirlandaio(ドメニコ・ギルランダイオ)


そして『雪渡り』その二「狐小学校の幻燈会」はこう続く。


仕方ないや。お前たち行くんならおもちを持って行っておやりよ。そら、この鏡餅かがみもちがいいだろう。」
 四郎とかん子はそこで小さな雪沓ゆきぐつをはいてお餅をかついで外に出ました。
 兄弟の一郎二郎三郎は戸口に並んで立って、
「行っておいで。大人の狐にあったら急いで目をつぶるんだよ。そら僕らはやしてやろうか。堅雪かんこ、み雪しんこ、狐の子ぁ嫁ぃほしいほしい。」と叫びました。 




「鏡餅」とは「堅い餅」…

つまりユダヤ暦 第一の月 十五日「除酵祭(過越)」に食べる、イースト菌を取り除いた「種入れぬパン」のこと…


ルカ 第二二

一五 彼等かれらへり、われ くるしみくるさきに、逾越節筵パスハなんぢと|偕ともしょくせんことをはなはだのぞめり。
一六 けだし われ 爾等にぐ、我 また これを食せずして、そのかみくにるに至らん。


ちなみに「鏡餅」を切り分けて食べることを「鏡開き」といいます。

地域によって差はありますが、元々は一月十五日の小正月に行われていた儀式…


種入れぬパンを食べる除酵祭(過越)と同じ日じゃないですか!


なぜ「鏡餅を切り分けて食べる」ことを「鏡開き」と言うんだ?

切り分けるんだから「鏡切り」だろ?


「鏡餅」とは「肉体」なのですよ。


肉体? なぜ炭水化物の餅が肉なんだ?


鏡餅の「鏡」とは、神の姿を映す鏡のこと…

そして真っ白な「餅」とは、神が宿る依り代(よりしろ)…

つまり「鏡餅」とは「神の肉体」なのです…


か、神の肉体だと?


「鏡餅」は「神の肉体」…

だから鏡餅の風習を始めた武家社会では、正月十五日に鏡餅を切り分ける際、「切り」という言葉を避けて「開き」と呼びました…

武士にとって「キリ」は己の肉体を切り裂く「ハラキリ」を想起させる響きですから、鏡餅に刃物を使うこともタブー視されていたのです…


まさに正月十五日の過越節会で食されたイエスの聖体…

「わたしの肉を食べなさい」だ…


『This is my body(これは私の肉)』
Juan de Juanes(フアン・デ・フアネス)


「テーブルのピザ、プラス・モー・チキン、ビールで一気に流し込み」とは、よく言ったものです。

まさか「ピザ(薄く焼いたパン)」と「チキン(トリ肉)」が同じものだとは、誰も思いもしないでしょう。

小沢健二は宮沢賢治に負けないくらい言葉遊びが上手。



『今夜はブギー・バック』の「テーブルのピザ、プラス・モー・チキン」は『君の膵臓をたべたい』の「膵臓」と同じトリックだったのか…

膵臓を意味するギリシャ語「pancreas」は「パン(pan)の肉(creas)」という意味…



みんなこのネタが大好きなんです。

イエスの「私の肉を食べなさい」が。



小沢健二の、キツネを追ってゆくんだよ?

何ですかこれは?


おもしろいですよね。

白狐だけに。


バウバウ!バウバウ!


いちいちバウバウうるせーなカール!

おまえは松村邦洋がモノマネする高田文夫か!



バウバウ!


では『雪渡り』に話を戻しましょう。

鏡餅をしょって家を出た四郎とかん子は狐小学校に到着します。

 

 お月様は空に高く登り森は青白いけむりに包まれています。二人はもうその森の入口に来ました。
 すると胸にどんぐりのきしょうをつけた白い小さな狐の子が立って居て云いました。
「今晩は。お早うございます。入場券はお持ちですか。」
「持っています。」二人はそれを出しました。
「さあ、どうぞあちらへ。」狐の子がもっともらしくからだを曲げて眼をパチパチしながら林の奥を手で教えました。


キツネの挨拶は「こんばんは、おはようございます」…

なぜなら、ユダヤ暦の一日は日没から始まる…

一日の始まりの夜だから「こんばんは、おはようございます」だ。


その通り。

では、この入場係の小狐がドングリの記章をつけていた理由とは?


ドングリは英語で acorn(エイコーン)…

日本におけるキツネの鳴き声「コーン」との駄洒落?


それもあるかもしれませんが、賢治は『ルカに因る福音書』を元ネタにしているのですよ。

「ドングリ」といえば、有名な諺(ことわざ)がありますよね?


ことわざ? 何だろう?


あのー、答えわかっちゃったんですけど(笑)


ホントか、Leonard(レオナール)?


「団栗の背比べ」だよ。

最後の晩餐の席でキリスト小学校の生徒たちは、しょーもないことを張り合っていた。


ルカ 第二二章
二四 また かれうちに、たれおほいなるとたがひあらそふことあり。


22:24 それから、自分たちの中で誰がいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。


あっ!なるほど!


そして四郎とかん子は会場の中へ入りました。


 林の中には月の光が青い棒を何本も斜めに投げ込こんだようにして居りました。その中のあき地に二人は来ました。
 見るともう狐の学校生徒が沢山集ってくりの皮をぶっつけ合ったりすもうをとったりことにおかしいのは小さな小さなねずみ位の狐の子が大きな子供の狐の肩車に乗ってお星様を取ろうとしているのです。


まさにミラーボールが光を放射するクラブの中だな。



キツネの生徒たちの様子は、この部分か。


ルカ 第二二章
二五 彼はこれへり、諸王しょわうその諸民しょみんつかさどり、たみの上にけんる者は恩主おんしゅとなへらる。
二六 しかれどもなんぢくあるからず、すなはち 爾等のうちおほいなる者は、ちひさき者のごとく、かしらたる者は、つかはるる者の如くなるべし。


ですね。

とりあえず今はそうしておきましょう。


何ですか? 「とりあえず今は」って?


キツネの生徒たちが投げ合っていた「クリの皮」と、大きな子の上に乗って星を取ろうとしていた小さな子が似ているという「ネズミ」とは何か…


そんなところにも意味があるのですか?


まあ、そのうちわかります。

まずは話を進めましょう。


?????


物語はこう続きます。


 みんなの前の木の枝に白い一枚の敷布しきふがさがっていました。
 不意にうしろで
「今晩は、よくおいででした。先日は失礼いたしました。」という声がしますので四郎とかん子とはびっくりして振り向いて見ると紺三郎です。
 紺三郎なんかまるで立派な燕尾服えんびふくを着て水仙すいせんの花を胸につけてまっ白なはんけちでしきりにそのとがったお口をいているのです。
 四郎は一寸ちょっと辞儀じぎをして云いました。
「この間は失敬。それから今晩はありがとう。このお餅をみなさんであがって下さい。」
 狐の学校生徒はみんなこっちを見ています。


キツネの紺三郎は、先日に会った時のお礼をした…

そして四郎は、次男の二郎(父 政次郎)が土産にと与えた鏡餅を、キツネに渡した…

するとキツネの生徒たちは、こちらを見た…

なるほど。この部分だな。


ルカ 第二二章
二八 なんぢ くわんなんうちいてつねわれともにせり、
二九 われまた 爾等にくにのこあたふ、が父のわれのこあたへしがごとし、
三〇 なんぢが我がくにに於いて、せきしょくいんし、かつ くらゐして、イズライリの十二支派を審判しんぱんせんためなり。


そうですね。

「ツネに我と共にせり」だから「キツネと私は一緒にいた」です。


入場係の小狐はドングリの記章をつけていたけど、紺三郎は「水仙」を胸につけていた…

これは何を意味するんだろう?

また、ことわざ?


水仙に有名なことわざは無い。

しかし、誰でも知っている有名な逸話がある。

俺が推理するに、おそらく紺三郎が胸につけていた水仙は、臆病な「鹿の子」が片思いしていた相手が姿を変えたものだ。


臆病な鹿の子が片思いしていた相手が水仙に姿を変えた?

それって、もしや「エコー」と「ナルシスト」のこと?


その通り。

水仙という花は元々、水面に映る自分の顔ばかり眺めていたナルシストの美少年 Narcissus(ナルキッソス)だった。

このナルキッソスに森の精霊 Echo(エーコー)は片思いするが、なかなかナルキッソスに振り向いてもらない。

そのうちにエーコーは衰弱してしまい、ついに声だけで姿が見えない存在「木霊」になってしまった。

それを哀れんだ神が、ナルキッソスの姿を花に変え、森の水辺に咲かせるようにしたという…


『Echo and Narcissus(エーコーとナルキッソス)』
John William Waterhouse(ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス)


なるほど。

声だけで姿を見せなかった臆病な鹿の子がエーコーで、その片思いの相手が水仙になったというわけか。

だけど『ルカによる福音書』のどこに対応しているんだ?


ここだよ。


ルカ 第二二章
三一 しゅまたへり、シモンよ、シモンよ、よ、サタナなんぢむぎごとふるはんことを求めたり。


は? どこにエーコーが?


ペトロの本名 Simon(シモン)とは、ヘブライ語で「聴く・耳をすます」という意味。

だから「Echo」だ。



なるほど…

だけど「シモン➜聴く➜エコー➜水仙」は遠回りすぎないか?


ふうむ。それなら「ダンス」だな。

この後にみんなで踊るから「水仙」だ。


ダンスだから水仙? どういう意味?


お前はそんなことも知らないのか?

「ラッパスイセン」だよ。


ラッパー水仙?

そんなラッパー聞いたことないけど…


ラッパーではなくラッパ水仙。

William Wordsworth(ウィリアム・ワーズワース)の詩『The Daffodils(ラッパスイセン)』だ。


I wander'd lonely as a cloud
That floats on high o'er vales and hills,
When all at once I saw a crowd,
A host of golden daffodils,
Beside the lake, beneath the trees
Fluttering and dancing in the breeze.

Continuous as the stars that shine
And twinkle on the milky way,
They stretched in never-ending line
Along the margin of a bay:
Ten thousand saw I at a glance
Tossing their heads in sprightly dance.

The waves beside them danced, but they
Out-did the sparkling waves in glee:
A poet could not be but gay In such a jocund company!
I gazed - and gazed - but little thought
What wealth the show to me had brought.

For oft, when on my couch I lie
In vacant or in pensive mood,
They flash upon that inward eye
Which is the bliss of solitude;
And then my heart with pleasure fills
And dances with the daffodils.

谷また丘のうえ高く漂う雲のごと、
われひとりさ迷い行けば、
折りしも見出でたる一群の
黄金こがね色に輝く水仙の花、
湖のほとり、木立の下に、
微風に翻りつつ、はた、踊りつつ。

天の河あまのがわに輝やきまたたく
星のごとくに打ちつづき、
彼らは入江の岸に沿うて、
はてしなき一列となりてのびぬ。
一目にはいる百千ももちの花は、
たのしげなる踊りに頭をふる。

ほとりなる波は踊れど、
嬉しさは花こそまされ。
かくも快よき仲間の間には、
詩人うたびとの心も自ら浮き立つ。
われ飽かず見入りぬ──されど、
そはわれに富をもたらせしことには気付かざりし。

心うつろに、或いは物思いに沈みて、
われ長椅子に横たわるとき、
独り居ひとりいの喜びなる胸の内に、
水仙の花、しばしば、ひらめく。
わが心は喜びに満ちあふれ、
水仙とともに踊る。



ああ、この詩か…

黄金色の水仙の花を、天の川銀河の星々に喩えて、ダンスしようと歌っている…

なんだか賢治っぽいな…


水仙の花は銀河の星…

賢治はここに目を付けたのかもしれません。


え?


シモンとカモンの駄洒落ですよ。


カモン?



水仙の花は、整った6枚の花びらの形が星のように見えて吉兆とされ、古くから日本の家紋に使われてきました…

この形、見覚えがありますよね?


水仙紋


ろ、六芒星… ダビデの星か!



『ルカによる福音書』には「ダビデ(ダワィド)」の名が多く登場します。

イエス・キリスト降誕の場面や、「ダビデの子とは何か?」を問う場面などに…


ルカ 第二章
よ、しゅの天使 彼等かれらの前に立ち、主の光栄くわうえい彼等をめぐてらせり、彼等 おほいおそれたり。
一〇 天使 彼等にへり、おそるるなかれ、けだし よ、われ 爾等なんぢらおほいなるよろこび萬民ばんみんおよばんとする者を福音ふくいんす、
一一 今日こんにち 爾等なんぢらためにダワィドのまちいて、救主きゅうしゅすなはち主ハリストスうまれたり。


ルカ 第二〇章
四一 イイススかれへり、ひと 如何いかんぞハリストスをダワィドのなりとふ。
四二 ダワィドみづかせいうたの書にふ、しゅ しゅへり、なんぢ が右にして、
四三 なんぢてきなんぢの足のだいすにいたれと。
四四 くダワィドは彼を主ととなふ、如何いかんぞ彼はの子たる。


なるほど…

「シモン➜家紋➜ダビデ」か…


そして「最後の晩餐」が行われた「二階の広間」は…

シオンの丘に建つ「ダビデ廟」の「上の部屋」だとされています…



そうだった…

もう、そうとしか思えねえ…

宮沢賢治、おそるべし…


ふふふ。

では『雪渡り』の続きを見て行きましょう。

いよいよ狐小学校の幻燈会が始まります…



à suivre

つ づ く




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