国語で習った三浦哲郎「盆土産」を十数年ぶりに再読して、あの頃見落としていた描写に気づいた話
三浦哲郎「盆土産」について書いてみようと思う。中学校の国語で読んで以来それきりの人たちのために。
(0)ことの発端
中学二年生の家庭教師をやっている大学生と話していたら、いま国語で三浦哲郎の「盆土産」をやっていると聞いた。私が中学生だった時分も習ったので現代小説ながらもいわゆる定番教材となっているのだろう。なにせまだ当時は書いた本人が生きていた。うっかりしていたが中学を出てからもう十年が過ぎているわけである。ちなみに、黒田俊太郎と幾田伸司の共著論文「「盆土産」(三浦哲郎)教材研究のための覚え書き」(『語文と教育』第三二巻、二〇一八)によると、教科書への採用は一九八七年と早く、一九九三年で一旦載らなくなったあと、二〇〇六年からまた復活したということらしい。載せているのは光村図書の中学二年生用の国語教科書。作品自体の初出は『海』一九七九年一〇月号で、初刊は『冬の雁』(文藝春秋社、一九八〇)である。
懐かしい気分になったので図書館に行ったついでに件の教科書から「盆土産」をコピーして十数年ぶりに再読して驚いた。授業で精読したのだから話の筋はもちろん泣かせどころも細部まで覚えているのだが、それでもなお作品の見え方がかつてよりも鮮やかになっている。苦節十年、小説を読むスキルは多少なりとも向上したらしい。一気に読んでみるとよくわかるが当時は気づかなかった短編小説的技巧が散りばめられている。授業で習った覚えがないのは、中学生に教えるのはまだ早いという判断があったのだろう。そういうわけで以下に、「盆土産」を再読して気づいたことを数点メモしてみる。なおもしかしたら現役中学生諸君が試験の直前に慌てて「三浦哲郎 盆土産 国語」とかで検索してこの記事に辿りつくかもしれないが、こんなものを読むよりも先にもっと効果的な試験対策があるはずだからいますぐページを閉じるように。
(1)一家の事情
「盆土産」のあらすじをまずざっと確認しておくが、語り手は東北地方とおぼしい田舎に住む小学生らしき男児。家には中学生になった姉と祖母がいる。このほか東京の工事現場で働いているという父がいて、この父が急遽盆に帰ってこられるようになった。手紙で予告された「えびフライ」なる盆土産がいったいどのようなものか語り手は知らない。頭の中は「えびフライ」で一杯になり、そして夜行列車で帰ってきた父がもってきた「えびフライ」の大きさ、旨さに驚く。父は一泊きりでまた東京に戻らねばならず、好物の生そばを食べる間もなく、祖父と母の墓参だけ一家で済ませる。自分の気持ちをうまく表現できない語り手は、別れのバス停で父にただ「えんびフライ」(語り手は「えびフライ」をこう発音する)としか言えなかった。
以上、できるだけ本文の表現を活かしてまとめてみたが、一点だけ読者の判断が入ってしまっている。それは「田舎」という箇所である。一人称視点の文体なので三浦くらいうまい作家はこういう説明的な言葉を入れない。ただ序盤に「都会の人には造作もないことかもしれないが、こちらにはとんとなじみのない言葉だから」という語りがあり、都会ではないのだから田舎である。加えて上野から近くの町までの夜行列車で七時間掛かり、そこから村まではバスでまた一時間だというから、やはり地方都市である。これくらいなら中学生でもわかる。ただ見落としていたなと思ったのは、父からの手紙が家に届くところの「町の郵便局から赤いスクーターがやってきた」という描写で、これは「町」と「やってきた」がこの家の立地条件を暗示しているのではないだろうか。「町」というのは単に人の住む地域を指しているのではなくて、建物の多い中心的市街地のニュアンス。「やってきた」というのも「きた」と比べると、離れたところからわざわざ、という口吻である。だから主人公一家の家は、田舎である上に郵便局のある市街地からも離れているわけである。
(2)父はなぜ東京に行っているのか
「盆土産」という小説はこの種のほのめかしがたいへんに巧みである。私が作中もっとも舌を巻いたのは、父が東京に出稼ぎ――もちろんテクニシャン三浦哲郎は「出稼ぎ」なんて説明的な言葉は使っていないが――に行くことになった経緯である。もちろん経済的事情なのだが、問題は、なぜ家を離れて、東京で、なのか、である。実はそのあたりを暗示している描写がいくつかあるのだが、作品全体に散らしてあるので、国語の試験よろしく傍線部の前後だけでは解答を書けない。とにかく、出てくる順に描写をピックアップしてみる。
・「東京からの速達だというから、てっきり父親の工事現場で事故でもあったのではないかと思ったのだ」(父の居場所の初出)
・「こんなに大きなえびがいるとは知らなかった。(…)いったいどこの沼で捕れたえびだろうかと尋ねてみると、沼ではなく海で捕れたえびだと父親は言った」(父の土産のえびフライの感想)
・「祖父のことは知らないが、まだ田畑を作っている頃に早死にした母親は(…)」(墓参のシーン)
それぞれ序盤、中盤、終盤の描写である。まず序盤で、どうやら別居しているらしいとほのめかされていた父の居場所が東京の工事現場だとわかる。田舎を離れて危険と隣り合わせの労働をしているというあたりにかつての出稼ぎ労働者の姿が読み取れる。ただし盆というから初秋である。田舎ならば第一次産業に携わる道もあるかもしれない。けれども冬になる前から出稼ぎにいっているのだからいわゆる季節工ではない。
この疑問の解決の糸口が終盤の墓参の一件でさらっと書かれている。母が生きていた頃は田畑を作っていたのだ。それがいまはやめている。やめた理由は当然、母が死んで働き手が足りなくなったのだ。祖父は先に死んでいる。そこへ母が死ぬと、大人は父と祖母だけになる。田畑を維持するのが困難になったであろう過去が想像されるのである。
ここから先は、あるいは無闇な深読みかもしれない。ただ私はある理由から、この読みに確信めいた思いを抱いている。田畑を作るのをやめたからといって、第一次産業は農業だけではない。海に出る手がある。ではなぜ父は漁師にならなかったのだろうか? 村落共同体の利権にかかわる習わしで、村のなじみの男であっても新規参入ができなかった可能性はあるが、真相はそうではないだろう。
近くに海がないのだ。
まことにさりげなく書かれている中盤の描写が、実は鍵となる。語り手は父が土産に持ってきた冷凍のえびを見てその大きさに驚き、「いったいどこの沼で捕れたえびだろうか」と思う。そして父が「これは車えびつうえびだけんど、海ではもっと大きなやつも捕れる。長えひげのあるやつも捕れる」と答えると、「父が珍しくそんな冗談を言うので、思わず首をすくめて笑ってしま」う。「長えひげのある」えびが本当にいるとは思わず、父の冗談だと思ったのだ。えびといえば沼にいる小えびだと思っているこの少年は、海がどんなものか、どういう場所か、どういう生き物がいて、どういう人がどういう生活をしているのか、おそらく、知らない。父の「海では」という言い方もそれに対応している。
祖父のあと母までが死んでしまい、田畑を維持できなくなった。海があれば漁師に転じたり、あるいはやら港やら加工場やらでの働き口もあったかもしれないが、それもない。行く場所といえば東北から最も近い(それだって何時間も掛かる)大都市・東京だった。おそらく家族史には、こういう一頁があったはずだ。そうでなければ、語り手がえびを沼の生き物だと思っているという描写の意味がない。
(3)母の不在はいつから暗示されているか
ところで、先に述べたとおり語り手の母は早世しているが、その事実がはっきりと書かれるのは終盤の墓参のシーンになってからである。しかしおそらく多くの読者は、その前から、母の存在が一向に出てこないことをなんとなく察する。おまけにタイトルが「盆土産」で、忙しいはずの父が無理をして一泊だけ帰ってきたからには、ああたぶん母はもう死んでいるのだ、ということも勘のいい読者なら気づく。
ただし実は、かなり序盤に、母の不在を暗示する描写が出てきている。それは語り手が父のために釣った雑魚の処理に関する描写である。
明日はもう盆の入りで、殺生はいけないから、釣るものは今日のうちに釣っておかなければいけない。釣った魚は、祖母にはらわたを抜いてもらって、囲炉裏の火で串焼きにしてから、陰干しにする。
話としてはまだ、少年らしき語り手が中学生の姉とのやりとりを思い出しながら釣りをしているというだけの段階で、祖母の存在もここではじめてでてくる。そしてここで祖母が出てくることこそが、この家に母がいないことを示しているはずだ。すなわち、中学生の姉にもまだ早いような、雑魚のはらわたを抜くという包丁を使った調理を、母ではなく祖母がしているからには――ということである。
母の不在はおそらくこの描写によってまず印象づけられようとしている。そして以後ずっと、不在の描写すらないまま、墓参の場面ではじめて母についての過去が描かれる。いうまでもなくこれは「盆土産」という短編の根幹をなす意図的な構成であり、きっと三浦哲郎は得意満面だっただろう。三浦哲郎は、そういう作家だった。
このほかにも、三浦が仕込んだ小説的技巧をたくさん発見することができた。語り手が隣の喜作を牽制したのはなぜか? なぜ語り手はビールを川で冷やしているのか? そして、こうした視点を上述の解釈に加えたうえで、物語の全体を見回してくると最後には、この小説はどういう時代のどういう人々を描いているのか? ということも見えてくるはずだ。
中学校の「盆土産」のテストの出来がよかった人も、よくなかった人も、もういちど「盆土産」を読んでみてほしい。あの頃の読書体験だけでは意味に気づけなかったディティールがきっと山ほど見つかる。
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