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【目印を見つけるノート】645. てらいなく応援しています、福山城🏯

今日明日は自分にとって特別です。

福山城を築いた初代福山藩主、水野勝成の放浪の日々について小説にしたおはなしはもうクドイほど書いていますが、今年も書きます。

なぜなら、今年が築城400年ですから。300年のときはおばあちゃんですら赤ちゃんでしたし、500年になったらもう私はいません。
100年に1回なのです😊

今日明日(8日と9日)は福山で築城400年記念として、歴史研究家の小和田哲男先生をはじめ城郭ライターの萩原さちこさん、広島大学の三浦正幸先生などが登場されて、福山城にまつわるお話をたくさん聞けそうなイベントがあるのです。
詳細はこちらのインスタで。

「ああ、行けたらいいのにな」と思っていましたが、夏に行く予定を立てているので諦めていました。
ですが、ですが、
このイベントはYouTubeで見られることになったようです。
◆イベント名
福山城400年博スタートイベント×出張!お城EXPO(福山城400年博開会式を含む)
◆YouTubeチャンネル名
『福山城築城400年チャンネル』
◆URL
1/8(土)
https://youtu.be/K1Gm5DGiaKM
1/9(日)
https://youtu.be/EcqfgH6pjIE

今は感染症が拡大していることもあって、イベントの規模も縮小となりました。沖縄、広島や山口、東京のニュースを見て、本当に一刻も早く収束してほしいと思うばかりです。

福山城はね、お城としては本当に後の方にできたのです。後にできた分、いろいろな工夫を凝らして、秀吉の伏見城の遺構もえいさほいさと持ってきて建てられました。

幕府に築城を掛け合うシーンを書きました。
(我田引水の引用です😆)

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 西国の要衝に就く譜代大名のものとして十分に威容を誇る城と城下町を築くべし。隣り合う広島城、岡山城に劣る規模のものであってはならない。瀬戸内海の防衛も担うのだから、すぐさま海上に出られる立地でなければならない。費用を抑えるために破却する城の材を転用する、あるいは移築する。城下町は江戸を模したものとして町割りをすすめる。そのためには従来の城を使うのではまったくもって不十分である……云々。

 その大風呂敷を皮切りに、勝成が家臣に念入りに調べさせ練りに練った計画は微細に渡り精確なものだった。もちろん、幕府に堂々と披露された。一同当初は仰天した。新規築城が禁止されているのを水野日向(勝成のこと)が知らないはずがない。それでも、自信満々に新規築城どころか、新しい町まで作るというのだから。
 重ねて、大和郡山藩の石高でそれだけの大事業をまかないきれるわけがない。
 幕閣では侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論となった。
 外様大名に睨みを効かせる存在が必要であることに間違いはない。実際、福島正則の改易に疑問を持つ大名もいたからである。西国の地理に明るく、いつでも出陣できるだけの戦闘力を備えている水野日向を置くことは誰も異論がない。しかし……。

 最終的には将軍が決断した。

 結果、幕府は勝成の希望を受け入れ新規築城を認めることとした。こうなると、勝成はしたたかであった。さすが、権現家康に借金を帳消しにさせただけのことはある。踏み倒したと言うほうが正しいのかもしれない。その上さらに粘って、幕府から金を借りることまで成功させたのである。

 秀忠(二代将軍)は顔を真ん中に集めるほど渋い顔をして、勝成に告げた。
「おぬしは何と金のかかる盾じゃ。これだけのことを幕府にさせたからには、今後は他藩の倍々働いてもらうからな。覚悟しておけ」
「まったく重畳至極(ちょうじょうしごく)。もちろんしかとあいつとめまする」
 平伏してのち、上げた顔はニカッと笑っていた。

『天下無双の居候 六左衛門疾る 水野勝成報恩記』(尾方佐羽)より引用。一部補足

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我田引水で失礼しました😅
初代藩主はこれぐらいの気概を当然持ち合わせていたと思います。
そして、現代の城下町の皆さんがこれだけお祝いをしてくれるのを、本当に心から喜んでいると思うのです。
ですので、乗りかかった鉄甲船🚢、私も心から応援します。

さて、
スタートアップに心を込めてこの曲を贈ります。
Rod Stewart『Sailing』

何のてらいもなく言います。
ぶち好きなんよー😆
どこまでも応援しています。

それでは、お読みくださってありがとうございます。

尾方佐羽

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