【世界遺産・短編小説】「すべては水に流して」後編
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岩崎三郎さんは極めて優れた技術者だった。年齢は私より三つ年上でポンプ室設備を誰よりも知り尽くしていた。ポンプ室は一九一〇年に完成、送水システムの設計監理は日本近代水道の父と呼ばれる中島鋭治、東京帝国大学教授先生だ。測量や工事の担当は亀井重磨。そして建物の設計は舟橋喜一。奈良帝国博物館や迎賓館の工事にも携わったすごい人さ。
完成当初、ポンプ室に導入されたボイラーは明治時代に国内シェアの大半を占めていたバブコック&ウィルコックス社製だ。そして肝心なエンジンポンプはデビー社製の水道施設向け三段膨張エンジンポンプが設置された。当時の装置の動力源は蒸気だ。だから石炭も大量に消費された。今は撤去されているが高さ五十メートル以上の煙突も立っていた。
ほら、案内板に当時の蒸気ポンプや煙突の写真があるだろう。ボイラーもエンジンもポンプも大がかりでいかにも国策事業というイメージだろう。
それが一九五〇年代あたりから電動ポンプが導入されるようになった。私が配属されたころにはすっかり電動ポンプに置き換えられていたな。写真を見てもらえば分かると思うが、蒸気式に比べるとかなりコンパクトになった。時代の進化を感じさせるだろう。
お嬢さんのおじいさんはそれら装置のすべてを知り尽くしていたんだ。私も三郎さんの元で設備の操作や保守管理を徹底的に叩き込まれた。といっても優しい人でな、決して怒鳴ったりせんかった。理解できるまでじっくりと根気よくつき合ってくれた。
私も技術を習得しようと三郎さんに金魚の糞のようについて回ったもんさ。一緒に飯を食ったり銭湯に行ったりもした。二人とも独身だったから自由気ままな生活だ。
ところが三郎さんが昼休みになると姿を消すんだよ。明らかに金魚の糞である私をまこうとしていたね。最初は彼を見失っていたよ。気になったので行き先を突き止めようと尾行した。すると彼は遠賀川の土手を降りて行くんだよ。そしてじっと川の流れを眺めてた。
私も草むらに隠れて覗いていたんだが、突然、川の中に入って行ったんだ。
何をしているのかとなおも眺めていると、川の中からなにかを拾っていたんだな。私はそっと近づいて三郎さんの手元に目を凝らしてみた。
おそらく上流から流れてきたんだろう。彼は瓶を握っていたんだ。瓶の蓋は閉められていて、三郎さんはそれを開くと中から紙切れを取りだした。私のところからでは読めなかったが、なにやら文字が書いてあるようだった。
彼は真剣な眼差しでその文面に目を通すと胸ポケットに収めた。
それからほぼ毎日、三郎さんは川に流れ着いてくる瓶を回収に行くんだ。
紙切れになにが書いてあるのか気になるだろ。
私は気になることがあると夜も眠れなくなる性分なんだ。
そこで昼休み前に職場を抜けて、三郎さんより先に瓶を回収することにした。後に上司にひどく怒られることになるが、そんなことはどうでもよかった。とにかく紙切れになにが書かれているのかを知りたかったんだ。
我ながら無駄に好奇心が旺盛だ。これは今も昔も変わらん。
それはともかく、見事に回収に成功した。すぐに見つけられたのは幸運としか言いようがない。三郎さんはもう少し時間をかけていたはずだ。あと数分遅ければ三郎さんと土手で鉢合わせしていただろう。とにかく私は紙切れの入った瓶を手に入れた。
はやる気持ちを抑えて蓋を外すと中に入った紙切れを取り出したよ。
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「なんて書いてあったんですか?」
拓也も夏美も身を乗り出して博史に尋ねた。
「詩のようだった。それも達筆でな」
「詩って、ポエムですか」
博史はコクリと首肯した。
「自由になりたい。叶うことならこの瓶のように遠賀川の水に流されて都会に行ってみたい。映画を観たりダンスを踊れたら楽しいだろうなあ……みたいなことが書かれていた」
「一九五〇年代ならそれなりに交通手段もあっただろうから、都会に出ることはそんなに難しいことではないのに。なにか出られない事情でもあったんですかね」
拓也の疑問に博史は首を捻る。
「他にはなにか書いてありましたか」
今度は夏美が質問をする。
「そういえば名前が書いてあった。男の名前だったことしか思い出せん」
「男ですか……そういえば瓶ってどんな瓶だったか覚えてますか」
彼女はさらに質問を重ねる。
「濃い茶色の瓶だったかな。このくらいの大きさで表面にはラベルを剥がしたようなあとがあったね」
博史は両手を使ってサイズを示した。手のひらに収まるサイズのようだ。
「おそらくそれは薬瓶だと思います」
夏美の推理に博史は目を丸くした。
「ああ、たしかに……今思えばそうかもしれない」
彼の中でも記憶は曖昧になっているようだ。六十年近くも前の話なのだから無理もないだろう。
「つまり瓶を流したのは病院関係者?」
拓也の推測に夏美は首を横に振って否定した。
「きっと患者さんだと思う」
夏美の返答に博史が膝を打った。
「なるほど! 病気で体の自由が利かない患者が、自分の願望をしたためた紙切れを薬瓶に収めて川に流したというわけか」
「遠賀川の川沿いに病院があったのかな」
「おそらく病室も川沿いに位置していたのね。窓を開いてベッドの中から遠賀川に投げ込んだ。それも毎日のように。祖父はそれを拾っていたのね」
「でもまさか、その患者さんも自分のポエムが他人に読まれているとは夢にも思わなかったんじゃないの」
「ううん。祖父と患者はそれから数年後に出会っているわ」
「どういうこと?」
目を見開いたのは拓也だけではない。博史もだった。
「ねえ、松本さん。ここより上流の川沿いに『夏』が名前につく病院とか医院ってありましたか?」
「夏……。ああ、ここから一キロのほど上流に夏目医院があった。私も子供の頃、肺炎で一回だけ入院したことがあるよ。個人経営の大きな病院ではなかったが、たしかに窓の外は遠賀川だった記憶がある。もうかなり昔に閉院したけどね。それがどうした?」
「父から聞いたことがあるんです。父の両親、つまり私にとっての祖父と祖母が初めて出会った場所が父の名前の由来になっていると。私の父は夏雄、岩崎夏雄といいます。その父も私の名前に『夏』を入れたんですって」
「ちょっと待て! 君のおじいちゃんとおばあちゃんの出会いの場が夏目医院だったってこと? つまりポエムを書いて瓶を流したのは君のおばあちゃん?」
拓也の見解に夏美はニヤリとする。
「お嬢さんのおばあさんの名前はなんていうんだい?」
間髪を容れず博史が尋ねた。
「晶です。岩崎晶。男性みたいな名前ですよね。祖母はずっと体が弱かったと父が言っていました。父を産んで間もなく病気で亡くなったそうです」
博史はパンと手をはたいた。
「思い出した! 紙切れにはひらがなで『あきら』と記されていたよ。私はてっきり男だとばかり思ってた。そういうことだったのか」
「祖父はなんらかの方法で瓶に入ったポエムの書き手を突き止めた。そして会いに行ったんです。そこが夏目医院の川沿いの病室」
「それによって二人は結ばれた……」
拓也は吐息を漏らした。
「ありがとう。長年の謎がこれでやっと解けたよ。あの紙切れを読んで間もなく僕も病気になってポンプ室を辞めることになった。それ以来、三郎さんのことを数十年に一度くらいには思い出す。そのたびにあの紙切れに書かれた詩はなんだったんだろうと気になってしまうんだ」
今回も数十年に一度が訪れてきたらしい。
「それにしても誰宛に書いたものではないポエムが、二人の運命をつなぐラブレターになるとはね」
夏美が遠賀川を見つめながらしんみりと言った。
「水が流れるといろんなものを運ぶんだ。きっとポンプ室が送るのも水だけじゃない。私たちが思いも寄らない、喜びや悲しみ、愛や情を送るんだと思う」
「なかなか深いことを言いますね」
拓也は博史の背中にそっと手を添えた。
「年の功ってやつだ。ところで君たち、ちょっとだけ声が聞こえていたんだが、痴話げんかをしていたのではないのかね」
「ち、痴話じゃないです! 喧嘩は間違いないですけど」
夏美がブンブンと頭を左右に振った。
このタイミングしかない!
拓也は神妙な表情を取り繕うとあらためて夏美に頭を下げた。
「約束をすっぽかして本当にごめん。もう水に流してくれよ。ポンプ室だけに」
「上手いこと言ったとか思ってんじゃないの!」
夏美はプイとそっぽを向いた。
そんな二人のやりとりを眺めていた博史の笑い声が穏やかに広がった。(了)
※作中に河川に瓶を流す描写がございますが、現在では河川環境を守る取り組みが行われています。
七尾 与史(ななお・よし)
1969(昭和44)年、静岡県浜松市生れ。2009(平成21 )年『このミステリーがすごい!』大賞に応募した「死亡フラグが立ちました!」 が最終選考に残り、2010年7月に隠し玉(編集部推薦)として同作で作家デビュー 。 ほかに「ドS刑事」シリーズ、『偶然屋』など著書多数。