【世界遺産・短編小説】「あと、ひと言だけ」後編
萩の空気――たしかに、そうなのかもしれない。
俺たちが演じようとしているのは、激動の幕末で道なき道を切り拓いた長州志士たちだ。欧米列強の段違いの軍事力を目の当たりにし、あきらめて閉じこもるのではなく、今のままでは強い鉄が作れないのなら作れるようになろうと見様見真似で反射炉を作り、西洋式の船を作れるようになろうと試行錯誤を重ね、強い軍隊を作ろうと改革を推し進めた男たち。彼らは失敗も、それまでの自分たちを壊すことも恐れず、常に挑戦し続けた。
「さ……クランクインまでにはまだ日にちがあるしな」
俺は、幸い、と言いかけた言葉を寸前で飲み込む。
スケジュールが延期されたのは、出演者の一人が交通事故で命を落としたため急遽キャスティングを変更することになったからだった。不幸の結果である以上、幸いという言葉をつかうのはさすがに不謹慎だろう。
鮮やかな緑に挟まれた車一台分の幅の道を抜けると、〈玉木文之進旧宅〉という看板が現れた。松下村塾の創始者で、吉田松陰の叔父でもある玉木文之進の家が見えてきたことで、今回の一番の目的地に近づいてきている高揚感が湧いてくる。
けれど、しばらく歩いてもなかなか松下村塾は見えてこなかった。普通は車で移動する距離だから当然だが、江戸時代の彼らはこのくらいの道などものともしなかったはずだ。
俺たちはセリフのかけ合いをしながら進むことにした。途中、民家から出てきた住人が怪訝な顔を向けてきたが、川島が構わずにセリフを口にするのに励まされて俺もセリフを返す。
学生時代に戻ったかのようだった。俺たちは、いつもこんなふうに台本を読み合わせ、観た芝居について語り合っていた。どうしたらもっと面白い芝居ができるか。それだけで何時間でも議論をし続けられたあの頃――
唐突になにかが込み上げてくるものを感じて、声が詰まった。
川島が、弾かれたようなすばやさで俺を見る。
「どうした」
「いや、懐かしいなと思ってさ」
俺は照れくさくなってうつむいた。
川島は短く息を吐き、「そうだな」と前に向き直る。
松陰神社の鳥居をくぐると、川島は途端に静かになった。
俺も口を閉ざし、石畳の上を無言で並んで歩く。
昔から、川島とはしゃべっていても黙っていても違和感がないのが不思議だった。芝居についてしゃべっていれば延々と会話が続くけれど、突然沈黙になっても気まずくならない。しゃべりたいときだけしゃべればいい気楽さがあり、黙っているときはなにかを考えているときだということが言わなくても伝わる安心感があった。
「あれか?」
俺は左前に見えてきた建物を指さした。木造平屋建の簡素な建物だが、明治日本の産業革命遺産の一つとして世界遺産に登録されているからか、修学旅行生らしきグループや老夫婦が写真を撮っている。
俺は気がはやるのを抑えながら近づき、中を覗き込んだ。壁に歴代塾生のモノクロ写真が飾られた薄暗い和室に、へえ、と声が漏れる。
「こんなに狭いんだな」
当初は八畳一室だったが、塾生が増えたために十畳半の部屋を増築したらしいというのは調べて知っていたが、こうして前に立って目にしてみると、想像以上に狭い。毛羽立った畳の生々しさが、まさにここで久坂玄瑞と高杉晋作は吉田松陰から教えを受け、議論を交わし、志を語り合ったのだという実感を伝えてくる。
「やっぱり現地に来てみると違うだろ?」
川島を向くと、川島は「ああ」とかすれた声を出した。その目は、取り憑かれたように室内を凝視している。
――川島は、本当に挑戦するつもりなのかもしれない。
足元から冷たいものが這い上がってくるのを感じた。
おい、と肩を叩きたくなる。
やめろよ、おまえは実感なんかいらないんだろ。
そう思ったことで、気づいてしまう。自分が、川島が行き詰まる日が来るのをどこかで望んでいたことを。どんな役にも合わせられる川島の演技は、たしかにすごい。けれど、観る者の心を強く揺さぶる爆発力には欠けるところがある。それこそが川島の隙であり、俺の希望でもあったのだと。
俺は、川島に向かって手を伸ばす。
待ってくれ、おまえが新しいやり方まで身につけたら、もう俺には追いつけなくなってしまう――
「おまえんちもこのくらいの狭さだったな」
川島が、声をかすかに震わせた。俺は川島の肩に触れる直前だった手を引き、ごまかすために頭を掻く。
「よくあんなにしゃべることがあったよな」
「俺はまだしゃべり足りないよ」
川島が、俺を真っ直ぐに見た。
俺は、突然、見えない糸に縛りつけられたように動けなくなる。
――なんで、そんな目で見るんだ。
そう言えば、今日は何度もこの目を向けられていた。――今日? 今日はいつ始まったんだったか――どうしてこんなに記憶が曖昧なんだろう――この目はなんだ。なにかに怯えるような、だからこそ見ずにいられないというような、切実すぎる目。
「まじか」
俺は向き合っているのに耐えられなくなって、つい茶化してしまう。
「熱いじゃん」
「浜本」
「なに、おまえ俺のやり方伝授してほしいわけ……」
そう言いかけた瞬間だった。
「なにあれ」
ふいに、耳がひそめられた声を拾った。
こわばった首が、ゆっくりと回って、声の方へ顔が向く。
「あの人、さっきから一人でしゃべってない?」
「やめなって」
高校生らしい女の子たちだった。ちらちらと、帽子とマスクで顔を隠した川島を見ている。
――一人?
俺は、女の子たちと川島を交互に見た。
この子たちは、なにを言っているのだろう。
川島は俺と――
ぐらり、と視界が大きく揺れた。
咄嗟に川島に伸ばした手が、宙を掻く。川島の目が、見開かれていく。
俺は、倒れなかった。一瞬、立っていられないほどの目眩を感じたはずなのに、気づけば体勢が戻っている。
ああ、と俺の口から声が漏れた。女の子たちは、俺を見ない。
身体から力が抜けていくのを感じた。けれど、その感覚も幻想だとわかってしまう。
――どうして気づかなかったのだろう。
断片的にしか思い出せない記憶。俺が考え込むたびに、俺をじっと見つめてきた川島。クランクインが遅れた理由。
交通事故で命を落とした出演者。
「死んだのは俺だったのか」
考えてみれば、葬式に出た記憶がない。飛行機に乗った記憶も、なにかを食べたり飲んだりした記憶も、朝起きた記憶もない。
「浜本」
俺は、自分の身体を見下ろす。輪郭の奥に、地面が透けて見えている。
『なんとなくここにいるとは思えないというか』
さっき、高杉晋作の墓の前で聞いたばかりの川島の言葉が、頭の中で反響した。
墓がいくつもあるから、ここにいるとは限らないという意味なのだろうと思っていた。けれど、川島は知っていたのだ。
魂は墓にいるわけでもないことを――幽霊になった俺が、こうして萩にまで来ていたのだから。
俺は、ふ、と短く息を吐いた。
「すげえな、俺の執念」
「浜本」
「死んでからも役作りしてるとか、見上げた役者魂じゃねえ?」
「浜本」
川島の手が、俺の肩をつかむ形になる。すり抜けないような位置で止められているが、微妙に食い込んでしまっている。
「消えるなよ」
――ああ、俺は消えるのか。
他人事のように思った。不思議と、恐怖や焦りややるせなさはない。
それよりも、川島の目が、鼻が、口が、歪んで震えているのが気になって仕方がなかった。
なんだ、その顔。
「やり方伝授してくれるんだろ」
「それ」
俺は、消えかけている指を川島に向けた。
声がかすれている。意識が遠ざかっていくのがわかる。でも、消える前に言わなければならないことがある。
新しいやり方に挑戦してみろ。失敗を恐れず、今の自分を壊してみろ。そうすれば、きっともっと新しいやり方が生まれる。もっともっと面白い芝居ができるようになる。
――だめだ、言葉が長すぎる。
こんなに言う力はもう残っていない。
言えるとしたら――あと、ひと言だけ。
でも川島なら、たぶん意味をわかってくれる。
俺は最期の力を振りしぼって、川島に言った。
「おまえ、人前で泣くほどの感情あったじゃん」
(了)
芦沢央(あしざわ・よう)
1984年東京都生まれ。千葉大学卒。2012年『罪の余白』で第3回野性時代フロンティア文学賞を受賞してデビュー。18年『火のないところに煙は』で静岡書店大賞、22年『神の悪手』で第34回将棋ペンクラブ大賞文芸部門優秀賞、23年『夜の道標』で第76回日本推理作家協会賞を受賞。他の著作に『許されようとは思いません』『僕の神さま』『汚れた手をそこで拭かない』などがある。