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【世界遺産・短編小説】「八幡女のニセ札騒動」後編


「それが、この眺望スペース、ってことですか?」
 慎吾が周囲を見渡しながらきいた。北九州高速五号線の高架脇に、官営八幡製鐵所旧本事務所の眺望スペースが設けられている。屋根のあるベンチに、慎吾とあたしは並んで腰かけていた。せみの音が四方からきこえて耳が痛いほどだ。それをかき消すように、トラックが高速を走り抜ける振動が響く。
 あのときと変わらず、旧本事務所の赤レンガが光を受けて輝いていた。
「そういえば、社会の授業で習いました。世界遺産なんですよね。ヨーロッパではじまったサンギョーカクメーってのが、ヨーロッパの外ではじめて根づいたってことで、世界の歴史に残るような、スゴい建物なんでしょ」
「難しいことは知らん。昔からこのへんは、鉄づくりの町ってだけだわ。今はま、鹿児島本線とか、スぺワとか、色々あるけん」
「スペワって何ですか?」
「お前、スペワを知らんのか。スペースワールドよ。ほら、あっちの」と身体をひねって指をさす。「東田第一高炉の白いのを越えたところにある。釣りバカ日誌のロケ地にもなったんよ」

「ああ、あそこか」慎吾がうなずいた。「じいちゃんがよく話してました。でも今はその遊園地はなくなって、アウトレットモールになってますよ」
「へえ……」
 最近の若者は「タイタン」などという絶叫マシーンに夢中になっていて、よく分からないもんだと思っていたら、その絶叫マシーンすらなくなっているとは。年をとるはずだ。あたしは長生きしすぎたのかもしれない。
「どうしてあたしの住んでるところが分かったん?」
「じいちゃんの同僚にききました。じいちゃんは、おさとさんのこと、ずっと見張っていたみたいです。いつ刑務所に入ったか、刑務所から出たか、そのあと何をしているか。全部調べてたんですって」
「そうやったんね」と言いながら苦笑した。「何度刑務所から出ても、また丹沢刑事があたしを捕まえる。おかしいと思っとったんよ。他の刑事さんは全然相手にならないのに、丹沢刑事だけは執念深くあたしを追ってきた。それが通算で何十年にもわたるわけ。さすがにうんざりしたし、あんまりしつこいからなあ。丹沢刑事が退職するときに、あたしも、スリをやめることにしたわ。それからは堅気でやっとる。千円札の束のことがあったのは、それよりも何十年も前、丹沢刑事と初めて会ったころやけん。そうだわ、あたし結局、あの千円札の束を丹沢刑事にあげたんやった」
「でも、それがニセ札だった?」
「ああ、そうだ。そうやった。だんだん思い出してきたわ――」

 掏った十万円をもらってしまって、居心地の悪さを感じながら暮らしていた。
 三重県からきた青年が不気味に思えて、あのときもらった千円札には手をつけていなかった。一週間くらい経ったころ、駅のプラットフォームで「カモ」を物色していたら、新聞紙が転がっているのを見つけた。拾い上げて一面を見ると、
『三重県で偽札発見 チ37号事件か』
 と書いてある。
 三重という単語に目が反応した。
 プラットフォームの隅に立って、急く気持ちを抑えながら新聞を読んだ。
 その二年くらい前から、精巧に偽造された千円札が出回る事件が全国で起きていた。紙の厚さや手触りが微妙に本物と違うものの、大変良くできたニセ札で、日本のニセ札史上、最高傑作とうたわれることもあった。
 そのニセ札が三重県の駄菓子屋でつかわれたらしい。三十歳前後に見える青年が千円札を出して二十円のガムを買った。
 もしかしてあの千円札の束は――と思い至り、急いで家に帰った。
 一枚ずつ取りだして光に当ててすかして見たり、虫眼鏡で点検してみたりしたが、よく分からない。だけど千円札だけ百枚も持っているのはさすがに変に思えた。
 あの青年はニセ札製造グループの一員なのか。
 大量のニセ札とともに北九州にやってきたところ、ニセ札の束を掏られた。しかも不幸なことに、そのスリが目の前で刑事に捕まった。
 面倒なことになったと思っただろう。賭けで勝った金だからくれてやると告げて、早々にその場を立ち去った。もちろん賭博も犯罪だが、当時はそれほど目くじらを立てられていなかった。新しい市の名前で賭けて儲けたというのは、とおりのよい嘘だった。
 だが――札をまじまじと見ると、つかいこまれた跡がある。
 水を吸ってふやけた部分があるものや、三つ折りのしわがとれないものもある。賭けで色んな人から受け取った本物の札のように見えた。だけどもしかすると、プロのニセ札師は、一枚一枚、使用感を出すような加工をしているのかもしれない。
 判断がつかないまま、千円札の束を懐に入れると、丹沢刑事の自宅に向かった。
 有名な人だったから、家はみんなが知っていた。といっても当時のスリたちはそのプライドにかけて、お礼参りなんてしなかった。だからあたしが訪ねていくと、丹沢刑事もその奥さんも、ちょっと驚いた顔をしていた。
 客間にとおされ、丹沢刑事と二人きりになったところで、千円札の束をさしだした。
「これ、たぶん、ニセ札です。あたしはいりませんから、どうぞお好きになさってください」
 と言って一礼し、早々に立ち去ろうとした。
「お前がつくったのか?」丹沢刑事は目を丸くしてきいた。
 あのスリの現場で、あたしはちらと封筒の中をあらためたけど、丹沢刑事は見ていない。だから丹沢刑事は、これがあのとき掏ったものだと分かっていないらしかった。
 でも、言い訳するのも嫌だった。
 あたしは「さあ」と答えると、さっさとおいとました。
 丹沢刑事が千円札を署に持っていき、ニセ札だということがはっきりして、捜査があたしのところに及ぶなら、それでよかった。
 あたしのような日陰者は、一度疑われたらおしまいだ。いくら三重からきた男から掏ったのだと主張しても、その男が捕まらないかぎり、あたしの供述は無視されるだろう。ニセ札グループの一員として逮捕されて、刑務所に入れられてしまうのは間違いない。
 それでよかった。本心では、あのときもう疲れていたんだと思う。捕まって、楽になりたかった。

「――そもそもなあ、丹沢刑事に最初に声をかけられたときは、ちっと嬉しかったんよ。こげに悪いことを重ねてるのに、誰も捕まえてくれないなんてねえ」
 蟬の声はいっそう強くなっている。あと数日の命だというのに、どうしてこうも威勢よくいられるのか。あたしには分からなかった。
「でも、じいちゃんは、ニセ札のことを警察に言わなかったわけですよね?」
 慎吾が青いタオルハンカチで額の汗をぬぐいながら言った。
「これはニセ札だろうと分かっていたのに、家に隠しておいた。警察に届けると、誰からもらったのかという話になる。おさとさんの名前があがる。じいちゃんは、おさとさんがつくったわけじゃないって、分かってたんだと思う。おさとさんがやってもいないことで捕まらないよう、ニセ札を隠すことにした」
「まったく、あのおっさん。余計なことを」
 しわだらけの手をじっと見る。何度も盗み、何度も丹沢刑事に捕まった。
 もしかするとあたしは、丹沢刑事に捕まえてほしくて、盗みを繰り返していたのかもしれない。だから丹沢刑事の引退とともに、堅気に戻った。
「この札束、どうしますか?」
 慎吾がおどおどとこちらを見た。
「警察に持っていきなさい。もう時効が成立しているから、意味ないかもしれんけど」
 殊勝な顔でうなずくと、慎吾は「今日はありがとうございました」と頭を下げて、あたしの連絡先をきき、帰っていった。
 残されたあたしは、遠くの赤レンガをぼんやりと見ていた。
 あの建物はあのときと変わらず、ずっとそこにある。当たり前のようで、どうにも不思議だった。自分だけが歳をとったみたい。あのときも一人で、いまも一人。そのときどきに男はいたけど、ずっと一人だった。
 慎吾から電話があったのは、一週間後のことだ。
 警察に札束を持っていったら、「あれは本物の、昔の、千円札だった」という。十万円ぶんとしていまでもつかえる。あとでそっちに持っていくと言うから「いい、いい。あんたがつかえ」と断った。すると母親らしき人が電話口に出た。
「あれは丹沢刑事にさしあげたものですから、そちらでつかってください」と説明を繰り返した。
 しばらく押し問答が続いたが、結局、「あのお金をつかって、みんなで美味しいものを食べにいく」ということになってしまった。
 来週土曜日の午後六時、慎吾がうちまで迎えにくるという。それから連れ立って門司港もじこうに魚を食べに行く。
 誰かと一緒にご飯を食べるなんて何年ぶりだろう。
 落ち着かない気持ちで乾燥した両手をこすり合わせる。そのまま合掌のポーズをとり、目を閉じて頭を下げた。丹沢刑事の照れたような笑い顔がうかぶ。
「つくづく面倒見のいい人やなあ」
 独り言は蝉の声に吸いこまれていった。

〈参考文献〉

『「婦人雑誌」がつくる大正・昭和の女性像 第21巻 社会・時代4』(2015、ゆまに書房) 「稀代の女スリの更生記」里谷さと(『主婦之友』昭和25年6月1日)

「北九州に強くなろうシリーズNo.12 ″回想″五市合併――2000年を迎えて」(1999、西日本シティ銀行)




新川 帆立(しんかわ・ほたて)

1991年生まれ。アメリカ合衆国テキサス州ダラス出身、宮崎県宮崎市育ち。東京大学法学部卒業後、弁護士として勤務。第19回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞し、2021年『元彼の遺言状』でデビュー。他の著作に『倒産続きの彼女』『剣持麗子のワンナイト推理』(以上、宝島社)、『競争の番人』シリーズ(講談社)、『先祖探偵』(角川春樹事務所)、『令和その他のレイワにおける健全な反逆に関する架空六法』(集英社)などがある。最新作は『縁切り上等! 離婚弁護士 松岡紬の事件ファイル』(新潮社)。