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猫のように暮らしてみたい その5

人は誰でも自分をこれが「私」だという認識を持っている。

だがその私とは何だろう。それは本当の私だろうか。

人はこの世に生まれて様々な影響を受けて育っていく。

親、兄弟姉妹、友達、同世代、大人たち、人間以外にもテレビやネット、YouTube、スマホなど多種多様な情報が知らぬ間に
「私」の世界観を造りあげていく。

例えば他人に〇〇さんって優しいねと言われれば、
なるほど私は優しい人なんだとインプットされる。

同様に強いね、涙もろいね、よく笑うよね、諸々インプットされていく。

同時に自分の思い描く理想の自分になるべく努力を惜しまない。

好きなアイドルやキャラクターのファッションを真似たり
しぐさやポーズや好みまで取り込んで
膨大なスーパーコンピューターが出来上がる。

そしてそれが「私」だと認識して疑わない。


そんな風だから「私」は生きている限り常に情報がアップデートされ続け、自分が作り上げた形になろうともがいている極めて不安定な代物なのだ。

「私」は心であり気持ちである。

だがそれは、他の影響を受けやすくまた内側からも壊れやすく
脆くて正体不明で実体がない蜃気楼やホログラムみたいな何かだ。

確かに在るのは分かるが、存在しないのだ。




猫には自我があると思う。

その行動には迷いがなく常に今の状況を的確に判断して動いているようだ。

のんびりした寝姿がイメージされることが多いが、
両前足をきちっと揃えて座して真っすぐこちらを見つめる瞳には
知性すら感じる。

すべてを見通し理解しているのではないかと強く感じてしまう。

猫好きはその瞳に魅了され、
苦手な人は魔力でも持ったようなその瞳に怯え近づく事すら出来ない。


そんな猫たちの思考はとてもシンプルで、
毎日の決まったルーティンをこなす以外は
ほとんど気ままに日々過ごしている。

名前を呼ばれると振り返ったり、
ニャーと返事をしたりする事を考えると名前を呼ぶ声が
自分に向けられていることを理解しているという証拠だ。

猫はとても自立している。

他の猫と自分は別の個体だと分かっているし、
他の猫と自分を見比べたりはしない。

野良猫も家猫も自分のおかれた現状、環境、
その事実だけを受け入れありのままに生きているのだ。


家猫を羨ましがったり野良猫を可哀そうだと憐れんだりすることはない。

今日ご飯が食べられなかったからと言って絶望したり、
明日の雨を心配して悩んだりしない。

常に主体は自分であり今現在をまるごと受け入れている。


この在り様が人間にとってはとても難儀な事なのだ。

                          つづく。。。

今日も読んでくださった方にありがごうございました。



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