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大学卒業

大学の卒業証書授与式に行った。ただ証明の紙切れをぶらさげて帰るだけの作業だと思うと面倒であった。ギリギリで起きてすぐ家を出た。電車内でネクタイの巻き方を調べながらぎくしゃくした手つきで完成させた。最近の僕は良くも悪くも周りの目を気にしなくなる時がある。対面の女性が明らかにこっちを見ていたが、当然何を思っていたのかは分からなかった。

全部の生活において自分が他人に"どう"見られているのかイマイチ分からない。だから「そう思ってたんだ」と損をしないように僕の中でその人々の最悪な内心を作る。

「電車で巻いてるとかだらしないし、スーツに着せられてる感あってだっさ」

これでいい。僕は外見内面全てにおいて皆からゴキブリのような醜さを感じられている。だから頭を下げて、背を丸めて歩く。常に謝りながら生きている。


1分くらい遅れて自分の学科の式の教室に入った。適当な場所に座り、教授の話が終わり証書を受け取る。前の席は大学での唯一の友人であり、証書入れと名前シールだけが置いてあった。「来ないのかな」と思っていたら10分ほど遅れてきた。約1年ぶりに顔を合わせた。髭を生やしていた。

僕は去年のゼミで彼と共同の発表があったのだが、その資料が作れずにバグったように薬だけを食べて体を切り、結局心療内科に通うきっかけになってしまった。その時の教授と友人Aにはメール・LINE越しで謝罪をした。それきり彼とは連絡もとっていないし大学内でも会わないため、申し訳なさと後味の悪さをずっと微小に抱えていた。

式が終わった途端「タバコ吸いに行こう」と彼が言ってくれた。「ちょっとまってて」と返した。卒論の担当教授に再三感謝を伝える必要が僕にはあった。締切ギリギリに全力でサポートをしてもらい、結果的に提出日は過ぎたのだがなんとか受け取って貰えた。50代後半くらいに見える女性の先生だったが、始終天使のように優しかった。

「元気みたいでよかった、笑顔が似合うようになって。卒業しても図書館とか来てね」

僕が実は一番欲している、人間の暖かさがそこにはあった。やはり僕は「関わる人間」の運がとんでもなく良いと思う。偽善だろうが損得勘定を持ってようが「この人間に優しくしよう」と意識した時点でそれがもう優しさである。僕は本来罵られ唾を吐きかけられるべく運命を持った"害"だから。

「今日来ないんじゃないかと思ってた」

大学屋上の喫煙所でAが言う。

「いやーなんとかなった。本当にありがたい」

「良かった良かった」

それから彼が提案してくれて写真を撮って貰った。それから彼が提案してくれて一緒に喫茶店に行くことになった。僕はAと、Aだけに限らないが、呆れるほど受動的であった。どう思われているか分からない以上、妥協策としていつでも相手が「じゃあ」と別れるタイミングを取れるように提案をまずしない。そういう不安を至って抱かない小学からの友達二人にも未だにその毛があるので、もう"ただそういう性格"なのかもしれない。だとしたらどうしようもないな。

彼とその古風な喫茶店に来るのは2回目だった。2年だかの時、当時も彼に誘われ行った。僕らは銘柄が同じのタバコをテーブルに置き、スーツが臭わぬよう証書入れの袋に入れた。彼は微糖のコーヒー、僕はココア、互いにチーズケーキを頼んだ。今思えばここですら僕の精神的な幼さが現れている。他人から見たら友人Aの方が先輩に見えたりしてるんじゃないだろうか。彼は社会性がしっかりある。

それから創作の話ばっかりの数時間だった。彼は一目置くくらいに文学に触れていて、知識が溢れる溢れる。短歌から近現代、現代、外国の文学にさえ幅広く、深く文学を味わっていた。僕は浅い知識としてあるだけで実際読んだに至ったものは少なく、彼の話に「何それ、知らない」が多発した。
彼は最早教授のようだった。僕は未知の情報を嬉々として聞く。

「小説、最近できたんだけどさ。短編なんだけど。読んでくんない?」

勇気を出してきたなと思った。僕も稚拙ながら書いているから分かる。実際に目の前にいる人に読まれるというのは色々なむず痒さがある。後に「読んでもらう人は選ぶんだけどさ」と語っていたので、選んでもらった僕は中々の得した気分になった。

15.6ページくらいの内容だった。ここでひけらかすのは気が引けるので深くは掘り下げないが、江戸川乱歩の「二癈人」のような話、文体であった。こねくり回したような複雑さが文構成に無く、するすると読めるタイプだ。それでも起承転結の転が中々に狂っていてバランスが取れている。その上伏線回収的なまとまりがあってスッキリする綺麗さがある。通にしか分からないような小説家の話題も少しあり、ある意味どんな人でも楽しめるような、本当にちゃんとした完成度をしていた。

僕はおもしろくって途中途中にニヤニヤしていた。

「これ凄いよ。これくらいの完成度の話をポンポン作れるなら本当に賞が取れると思う」

読み終えた後「ここの部分とかさ」を何回もして素直な感想を伝えた。本当に面白かったんだと思う。目の前に作者がいる読書の楽しさは凄い。

「嬉しいな。いつかもっと長いのを書いて○○か△△か◾︎◾︎の賞に応募しようと思ってるんだよね」

内心驚愕していた。"最近書き始めた"という前置きにしては良く出来すぎている。正直嫉妬をした。僕はこんなに構成を整えて、「作品らしい作品」を作ることは出来ない。

「負けた」

心の中で呟いた。「そらくんのも読みて〜」と言われたがこのサイトに書き残したタイトル一覧だけ見せて「いや……『そらくんってこんなヤバい奴なんだ……』って思われそうだから」と断った。まあそれも本心ではあるが、アレを見せられた後に見せる自信が湧かなかったのが大きい。

彼は2年付き合っている彼女がいる。外見はかなり良い。気遣い、リードも完璧にこなせる。それでもって文学の知識は豊富、創作の方面でもスキルがある。3年時の秋には就職先も決まっていた。そして僕と趣味や思想がとても合う。

「上位互換」

僕が明確に彼より優れている所などひとつも無かった。僕らには基本的には共通しにくい共通点が複数あって、余計に互換性を感じる。その時僕は子どものように楽しんでいたが、帰ってから改めて思い出すと、みすぼらしさが浮き彫りになっていた。注文を取るのも、会計をするのも彼だった。


僕は珍しく上機嫌で、帰ってきて母親に卒業についてより先に、この出来事の話をメインにした。

「その人以外友達はできなかったけど、それでも深い話ができる相手だから、数十人浅い友達が居るよりもこれで良かったなって思った」

「そっか、よかったねぇ」

母親はなんだか嬉しそうだった。僕は母親に感情を余り出さないのだが、この時は無意識に喜びが表に出ていたのかもしれない。そんな珍しいことになるくらい、あの時間は楽しかったし濃かった。熱が入りすぎていたのか、帰宅してから頭痛が数時間続いた。

「いつかクリエイターになりてえな」

上がる煙の方に顔を向けてそう言っていた彼に僕は同感以外の何も無かった。

僕達は結局"普通"の仕事を選び社会人になるのだが、それが妥協であることは言うまでもない。「喫茶店をやりたい」とも言っていたか。「分かる。後本屋もやりたい」と返したら「あぁ〜いいね本屋!」と。

「最近アニメとか見なくなっちゃったなぁ」

彼がなんかの話の流れで漏らす。

「俺も。ゲームもスマホの以外全然やらなくなっちゃって。大人になるってこういうことかな?」

「はは。そういうことか。大人になれたのかな」

「悲しいね」

「いつか小説すら全く読まなくなっちゃうのかなぁ」

静かな沈黙が続いた。

「いや、今読んでる(貴方みたいな)人は読み続けると思うよ」

こう言った僕に彼がなんて返したかは忘れてしまった。きっと彼も「自分の生活から文学が消えた未来」
を一瞬想像してしまったんじゃないかと僕は推測する。

別の話で僕は「未だに厨二病なんだよな」と自虐気味に言う彼に

「厨二病でいいんだよ。いや、創作するなら厨二病じゃないといけないんだよ」

と軽く笑いながら言ったが、これは自分の中ではかなり重みのある信念だった。
僕達はこれから働き、否応でも「社会」に馴染んでいき、常識人の価値観を無意識に植え付けられる。そうなって「文学」という幻想に価値や魅力を問い始めた瞬間、死に等しい終わりが迎えられる。そんなのは嫌だ。彼も嫌だろう。せめて、せめて厨二病、子どものフリくらいはできる状態で居なければいけない。

僕からしたら僕、彼の創作が死んだ未来というのはなんだか心の底から悲しい。今のままがいい。この「子どもとも大人とも言い難い」大学4年3月の今が、僕達みたいな人間にとっては一番美味しい時期なんだ。友人A、僕はともかく、君に関してはれっきとしたセンスがあるのだから、働き始めても書き続けるべきだ。頑張れ。

この手の話を面と向かって人としたのは初めてで、とにかく情熱的で印象強い思い出になった気がする。多分友人Aと会うことはもう無い可能性の方が高いだろうけれど、この関係性は貴重で大事にしたいと思う。

帰りの電車で坂口安吾の「白痴(本自体のタイトルでなく、短編)」を読んだ。何故そこで終わる?という苛立ちを持った。話の締めくくり方が僕と大差ないくらい雑だ。まあ面白かったけど。


Aと喫茶店で話している時、親友Bから電話があった。気を使って大丈夫か聞くAに「こいつはまあ、出なくても全然いい。でもなんも無いのにしてくるのは珍しい」と笑っていたら『相談したいことがあるんだけど。暇なときでいいよ』とメッセージが来た。

親友Bというのは本当にプライドが高い癖に僕くらいの気にしいで脆い、「しょうがないやつ」と思わされる性格をしている。キレ症気味だし声もでかい。気さくで気まぐれで、色んな要素が詰まった人間。

腐れ縁なので僕達にはわりかしちゃんと弱みは見せてくれる。だから絶妙に愛嬌があって嫌とは思わない。「仕事仲間とか僕ら以外の友人にもそうすればいいのに」といつも思う。

帰宅してひと段落着いた夜7時過ぎ、ちょうどその時「7時半くらいに電話かけるね」と来たので「かけていいよ」と促した。僕はこの時さえ自分からかけない。

「あのさぁ、相談があるんですけど」

僕達にさえ弱みはなるたけ見せないようにする彼のことだから、気恥しい感情があるのだと声で分かってクスッとした。「どうしたんだよ」

「仕事の話なんだけど」

彼は浪人して入った大学を入学した直後に辞め、保育系の短期大学に入った経歴がある。つまるところ四年制大学の僕と同じタイミングで社会人になる。Bの父親は保育園の園長なのだが、「うちで始めると甘えちゃうだろうし、他の園の経験を得るべき」という意見から親とは違う園で働くこととなった。
10月頃にあった他の研修を熱が出て休み、それの繰り越しも含め彼は2月からもうずっと研修尽くしだった。気の毒ではある。

「なんか俺の就職先の研修してるんだけど、お茶出しで間違えるだけで園長がブチ切れたり、急に7人辞めることになったりしてるらしくて。もう研修始まってからストレスで彼女との旅行の時とかも仕事のことしか考えられなくて。そのストレスかで39°とか出て昨日は休んだし」

なるほど。彼女と何かあったか仕事かの2択だろうと思っていたがそっちか。
「とりあえず聞いて欲しい」感があったのでしばらく聞き手に徹した。その後僕はまずそれは辞めるべきだと思うこと、決断は早くした方がいいこと、今辞退したら仕事を探すのが難しくなるけど大丈夫だというフォロー、大まかにこの3つをした。

「いやぁ同期の女の子とかにも相談したんだけど、"辞めたいよね〜"みたいな軽い感じで」

「愚痴程度の悩みだと思われてるんだよ。伝わってない」

「んんー俺プライド高いから、なんか、平気そうな感じでしか言えないんだよね。だからお前に聞いて欲しくて」

「ちっちゃなちっちゃなプライド」

いつもするようなこのイジりにさえあんま反応できてなかった。僕らは「お前なら大丈夫、俺達がいる」と本気で背中をさすることがとんでもなく恥ずかしいくらいの腐れ縁だった。

「まじで申し訳ない。聞いてくれてありがとう、ごめん」

「全然ええよ。俺はずっと暇だし」

「暇なんかい。じゃあ切るわ」

いつもだったらこうなったら彼は早すぎるくらいに切る癖に、数十秒切れた音がしないのでスマホをいじりながら「ん?」となった。そう感じるくらいに僕からは余り電話を切らないし、相手はすぐ切るのだ。

「完全に切る感じで切らないんかい」

「俺が切るのかよ」

この問答から彼が今どれだけ沈んでて、悩んでて、寂しいのかが伝わってきて可愛かった。

「なんかあったら言えよ」

「うん」

電話は終わった。数秒後に「ありがと!」とメッセージが来た。「お礼なんて言わんよ」みたいなノリをいつもする癖に。「こいつ本当に傷心してんな」と分かりやすすぎて、わざとやってるのかとすら思う。

分かりやすい人間は好きだ。嫌な時は本当に嫌な顔をする。良い時は子どもみたいに調子が変わる。素直だし、相手がどうしたらいいかも分かりやすいからとてもいい性格だ。僕がなろうとしてるものでもある。

最近相手の「こういう所が良くて好きだ」みたいな深入りはできるようになってきた。けれども親友Bの様にいつものノリが出来なくなるほど意気消沈しても、僕は「人に相談・告白をしよう」という意識になれない。
できる方である相手の親友B、そしてBとも仲のいい親友Cにも、鬱を持っている話はしてもオーバードーズの話は「1度だけ高校の時にした」とCに漏らしてしまった形で伝えただけだ。1度だけな訳ない。自傷の事も言ってない。

「実は自分はこうで」を相手がしてくれたら「これを話すくらい信用してくれてるんだな」と絶対的な安心感ができるのでその打ち明け事くらいの「実は」は僕も言う。それはできる。ただ実際悩んでいる時や、状況が相手との何気ない時間の際には僕は命懸けで隠そうとする。それで今まで大半隠し通せてしまったのがタチ悪い。

人間は苦しい時「誰かに頼りたい」と1番に思うのだが、僕はそれと同量に「誰にも頼りたくない」と感ずるのだ。この憂鬱、苦痛を1人で片すべき、それができた場合、結果としては最善策だと。しかし自分はそんなに強くないのでたまに壊れるのだ。3年の秋がそうだった。高校2.3年だかの風邪薬を1瓶飲んだ時もそうだった。中学の頃塾を辞めたすぎて泣きながら土下座して「辞めたい」と親に泣きついた時もそうだった。

感情が爆発という形で意図せず表に出てやっと、意思表示ができる?してしまう?のだ。直そうと思う。

ところで、上に書いた通り僕はこんなにも長々と人とのコミュニケーションや、相手と自分の気持ちについて書けるほど無意識に相手と自分を観察している。気まぐれで全然思い出さないこともある。けれど基本的に僕は人と関わる時とにかく観察するように相手を見て、睨みつけるように自分を強く、強く無意識に見ている。

人間観察が好きなのだ。「この人はこういうこと言った、こういう顔をした、こういう口調をしたから、こう思っているのではないか」と考察が勝手に止まらない。自分と違う人間も知りたいし、自分も知りたい。僕は本当は人と関わるのが好きなのだろう。自分軸が細いので他の人の性格や喋り方、価値観というのは参考になるし、情報という刺激を生み出す。

それに伴って人体実験的な事への興味も不謹慎ながら多少持っている。人間の大きな感情反応は面白い。言うなれば激情の劇場。
最低だ。

僕にはこんなの比にならないくらいの、文字にすらしたくない非道的思考がしばしば出てくる。それは包丁を見て「料理・人を刺す」という連想をするように、特に自己意識の含んだ物じゃない、無機質な発想だと思いたい。
そうだ、これは子どもがアリの巣を破壊して遊ぶことに何も感じないような、純粋さ故の思考だと思おう。「子ども心」という物を僕達が羨望の眼差しで見る時、綺麗な面ばかりにフォーカスを当てるが、本当の純粋さとは時に大人でさえ肝が冷える残酷も伏せ持つ。

本当は人を傷つけたくない平和主義者なはずなんだ。きっと、きっとそうだ。そう信じないと、この先僕はただの興味や私欲からとんでもない悪行をしそうで怖い。

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