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坂口安吾をカフェで読んだ


夜勤から帰ってきて昼に寝て、深夜2時頃に起きた。なんだか憂鬱・鬱々しい違和感を感じながら犬の散歩をし、遅めの餌をあげた。その後はただただ色々なゲームをして午後まで過ごした。
夕方に前の休みの日と同じようにタバコが吸えるカフェに行って2時間ほど過ごした。注文も前と同じくカフェモカとトーストを頼んだ。

読んだのは坂口安吾の「私は海を抱きしめていたい」「戦争と一人の女」の合計40ページほどの2作だった。前の休みに読んだ「外套と青空」と同様、安吾は戦時の刺激、それから戦後になり退廃した日本と、歪んだ性愛を主軸とした物だった。『白痴』の前に読んだ『堕落論』の通り、やはり安吾はジェンダーの違いを強く、差別的にも、意識しているのだなぁとつくづく思う。「貞操観念が無い女」と「貞操観念が壊れている男」の構図の短編がほぼである。僕は性愛面の経験の無さからそこにはイマイチ深く受け取ることができないのだが、「私は海を抱きしめていたい」には感銘を受けた。

以下、青空文庫のサイト掲載の当作の引用

 私はいつも神様の国へ行こうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ。ともかく私は始めから地獄の門をめざして出掛ける時でも、神様の国へ行こうということを忘れたことのない甘ったるい人間だった。私は結局地獄というものに戦慄せんりつしたためしはなく、馬鹿のようにたわいもなく落付いていられるくせに、神様の国を忘れることが出来ないという人間だ。私は必ず、今に何かにひどい目にヤッツケられて、叩たたきのめされて、甘ったるいウヌボレのグウの音も出なくなるまで、そしてほんとに足すべらして真逆様まっさかさまに落されてしまう時があると考えていた。
 私はずるいのだ。悪魔の裏側に神様を忘れず、神様の陰で悪魔と住んでいるのだから。今に、悪魔にも神様にも復讐ふくしゅうされると信じていた。けれども、私だって、馬鹿は馬鹿なりに、ここまで何十年か生きてきたのだから、ただは負けない。そのときこそ刀折れ、矢尽きるまで、悪魔と神様を相手に組打ちもするし、蹴けとばしもするし、めったやたらに乱戦乱闘してやろうと悲愴ひそうな覚悟をかためて、生きつづけてきたのだ。ずいぶん甘ったれているけれども、ともかく、いつか、化ばけの皮がはげて、裸にされ、毛をむしられて、突き落される時を忘れたことだけはなかったのだ。
 利巧な人は、それもお前のずるさのせいだと言うだろう。私は悪人です、と言うのは、私は善人ですと、言うことよりもずるい。私もそう思う。でも、何とでも言うがいいや。私は、私自身の考えることも一向に信用してはいないのだから。



 私は然しかし、ちかごろ妙に安心するようになってきた。うっかりすると、私は悪魔にも神様にも蹴とばされず、裸にされず、毛をむしられず、無事安穏にすむのじゃないかと変に思いつく時があるようになった。
 そういう安心を私に与えるのは、一人の女であった。この女はうぬぼれの強い女で頭が悪くて、貞操の観念がないのである。私はこの女の外ほかのどこも好きではない。ただ肉体が好きなだけだ。



いずこへ
白痴
母の上京
外套と青空
私は海をだきしめていたい
戦争と一人の女
青鬼の褌を洗う女

『白痴』にある短編はこれらが全てで最後の作品以外読み終えたのだが、「私は海を抱きしめていたい」のこの冒頭が1番この中で惹かれた。

自ら地獄を求めながらも、天国がチラついて離れない僕と重なった。結局「現実」という物を捨てられず、堕ちても堕ちきれはしないのだ。坂口安吾は小説家の癖に酷く現実的で、ロマンチシズムが嫌いだったらしい。それは多分「自分がそう出来ないから妬ましい」という理由も1つとしてありそうな気が僕はしている。
「いつからか散文的な物、詩を楽しめなくなった」と『堕落論』で書いていた。要は大人になって夢を見れなくなってしまったみたいな物だろうか。今の年寄りが機械・インターネット社会についていけないような感覚で。

僕も中学生の時はライトノベルを書き、又ライトノベルを書いていたが、高校生になるともう受け付けなくなり、そもそも読書することがほとんどなくなっていた。それに伴い高校から大学の後半まで「空想・完全なるフィクション」が書けなくなった。今もか。今日読んだ二作は最初が主人公の男視点、次作がその恋人視点の繋がりがある構築になっている。「戦争と一人の女」は女性の一人称視点で描かれていて、「坂口安吾はこっちもできるのか」と少し驚いた。

たまに自己嫌悪の感覚で坂口安吾の作品に嫌な気持ちが出る。先に引用した部分では主人公は1人の女がいる為に安心しているが、僕の現実の場合そこがぽっかり無くなっている。そこを読んだ時に舌打ちをしたくなった。

坂口安吾は、坂口安吾の作品の主人公は、基本「希望」という物を完全に捨て去り、緩めに腹を括って地獄を楽しもうとしている。そこには絶対「女」が居る。僕の人生は坂口安吾の作品から「女」を抜いた本当の地獄だ。なんだか腹が立つ。まあ彼の作品の性愛は歪んでいて、とてもじゃないが羨ましいとまでは行かないけど「どこもかしこも結局性愛か」とため息を付きたくなってしまう。

現実でも「恋人が、好きな人が、結婚が」芸術でも「愛が、君が、キスが」……あああ脂っこい!ヌルヌルと付き纏って落ちない汚れ!これを落とすキッチンハイターは無いのでしょうか!?

まあそれは置いといて、今日読んだ二作は心に刺さり過ぎたのか、帰りは電車が辛かった。乗る前に頓服薬を服用した。優先席ががら空きで、立っている人も居ないくらい普通席も余裕があったので、1番端っこに座ってただ音楽を聴いていた。時折あるただの憂鬱とはまた違う、人混みを歩いていたらなんだか自分だけその空間で浮いているような、人々の無数の目が「お前は異常だ」と訴えかけているようなあの感覚は相変わらず嫌だ。

帰宅したら姪っ子と兄、兄嫁が居て、姪っ子が帰ってきた僕を見てニコニコしていて少し気分が和らいだ。赤子のつい微笑んでしまうあの可愛げはなんなんだろう。純度の高い無邪気さに透明な美しさがある。僕もああなれたらーー太陽のようだった。

今の僕は月に照らされもしない場所でしゃがんで頭を抱えて、息を切らしながら顔下に出した手に落ちる涙を大きく開いた瞳孔で見つめるだけの人生だ。朝は来ない。仮に来たら僕は月よりも光る焼夷弾の様な太陽に全身を焼かれて苦しみもがき死ぬ。
夜しか無いんだ。朝を待っている。世界を吹き飛ばす風を待っている。全てを攫う海を待っている。僕は、人間は、世界は醜いから、それらの破壊は美しさに繋がる。俗世は再生を美徳とされるが、僕にはどうにもその価値観が持てない。
今日読んだ安吾の二作の登場人物が自分以外の家全てが焼け落ちる事を待ち望んでいるように、戦時の崩壊の中で「生」を感じて楽しんでいるように!

中途半端じゃ意味が無い!全部が燃えろ!全部が壊れろ!全部が吹き飛べ!血と臓物を撒き散らして!それが僕にとって1番の「幸福」だ!
もう限界なんてとうに超えた!求めていた普通も夢も塵になった!その塵を探して見つけたフリをして表向きは生きている道化だ。末期患者の様にもうどうしようも無いが延命し続けている気分だ。

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