学校を再定義しよう
学校は何のために存在しているのか?少子化で学生を奪い合う、英語やプログラミングという話題性でお茶を濁す、これらはもう限界ではないか?学校に行かなくても学べる時代。DXで企業が再定義を求められているように学校も再定義が必要だと思う。
夏休みも終わりに近づき、いじめや何らかの事情で学校に行きたくない子供たちが不安や悩みで命を絶つことまで考える季節になってきた。
不登校は悪なのか?
学校は行かなければならないものか?
学校にはなぜ行くのか?
そもそも学校は何のために存在しているのか?
改めて問い直してみても良いと思う。
「不登校は悪≒学校は行かなければならないもの」と思っている人が多い理由は次の2つだろう。
①学校に行くのが当たり前、学校は行って当然という旧来型の思考、固定観念
②「学校に行かなければ将来生きていけないのではないか?」という漠然とした不安
昔は生きていくうえで、良い生活をするうえで学校に行く意味があった。学校に行き、良い知識を得ることが単一化したひとつの成功モデルと化していたからだ。
良い学校→良い会社→良い生活が繋がったひとつのレールになっていた。その流れを引き継いでいる人は学校に行くべきor行った方が良いと思っているだろう。
知識が特別だった時代は知識を沢山持つ人から知識を教えてもらうことに意味があった。でも今は知識がコモディティ化している。
社会に出れば正解は一つではなく、生き方も多様だ。生き方、働き方の選択肢も増えている。学校に行かなくても生きていける環境にある。
学位や学歴を気にする人もいるが学歴が意味をもつのは大手企業に就職するときくらいだ。その大手企業は産業構造の転換で将来生き残っていないかもしれないし、一部の大手企業はすでに学歴による採用の限界に気づいてもいるだろう。
単一化した成功モデルは無くなっているのに人の意識はなかなか変わらない。学校側もその変わらない意識の上に乗っかって運営されていたきらいがある。
知識の習得も学歴、学位の習得も関係なくなったら、学校は何のために行く必要があるのか?
私事だが、大人になってから母校の小学校の運営方針が「生きていることに喜びを見いだせる人間つくり」だったと恩師から聞いた。この方針は混迷する今の時代にあっても普遍的だと思う。
今でも学校に行く意義があるとすれば、どんな環境下にあってもそれを乗り越える力、ベースとなる生きる喜びに繋がるもの、それに気づける場を提供することではないか?
そこでは潜在力を顕在化させることとそれを促進する勇気づけが必要だと思う。
教師が知識を教える一方的な「教育」から、学生の潜在力を引き出し、その学生から教師も学び、教師自身の潜在力も引き出されていく、共に育つ「共育」への転換が求められていると思う。
しかし、この「共育」も実は学校でなくてもできる。
究極的には「会いたい人がいるか?」それがすべてになるのではないか?
コモディティ化した世界ではポイントは商品・サービスから「売り手の人間性」(「誰から買うか?」)に変わる。学校も同じだろう。
学校は楽しくなければ。会いたい友達がいる、力を引き出してくれる/勇気をくれる/ユニークな生き方をしている先生がいる。そうした会いたい誰かがいなければ選ばれない場所になるだろう。
そんな誰かがいなくて辛いだけの場所であるなら「積極的な不登校」は人生のひとつの適切な選択だと思う。
学校が潜在能力を引き出してくれる場所、真に生きる力を身に着けられる場所、会いたい人がいる場所でなければ行く必要は見出しにくい。
個別の学校が再定義をして掲げるものは個々の学校によって多様で良いと思う。各学校が未来を見据えて真剣に考え、掲げる「看板(≒旗)」に共感する人が多ければその学校にはこれからも学生が集まるだろう。
歩く好奇心。ビジネス、起業、キャリアのコンサルタントが綴る雑感と臍曲がり視点の異論。