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見えなくても愛(笑) 特別NOTE版

はじめに

 誰も好きで障碍者になったわけではない。それなのになぜ健常者の世界に迎合するために努力を強いられなければならないのだろうか。そっちの方が私は不条理なのではないかと思う。

 この記事はめんどくさい努力はしたくない、計算ができない、好きな事しかやりたくない、ただの後ろ向きで残念な盲人かわいいねこのたわごと集です。


いよいよ見えなくなってきた

 私は中途視覚障害ということになっているけれど、そもそも先天的に弱視だった。弱視と言うのは、眼鏡をかけてもコンタクトレンズをつけても視力が上がらない状態のこと。

 当時は、私も家族も弱視は他の子供たちより少し目が悪い程度の認識しかなかった。それでも今思うと、小学校1年生位から自分は他の子と違うのではないかという妙な違和感を持っていた。

 後ろのほうの席からだと黒板が見えない。ピアノの先生にいつになっても楽譜が読めるようにならないと叱られる。星空がきれいってどういうこと?

 今考えると、楽譜は読めなかったのではなく見えなかったのだ。でも大人が「読めない」と言えば子供は無能な自分が悪いと思う。
 走るのは早いけど、球技は全くできない。飛び石を渡れないのも、遠近感が全くなかったからだ。

 中学高校とどんどん視力は落ちていき、高校1年の段階で視力右が0.1、左の視力0.01だった。もちろん眼鏡をかけてである。
 ちなみにこれは視覚障害第四級の視力。それでも身体検査では
「メガネを変えてください」と言われただけだった。

 確かに地図帳で目的の場所を見つけられないし、英語の辞書を引くのが非常に遅い。映画は一番前でないと字幕が見えないから、友達に嫌がられたけれる。
 
 だけども、確かに白杖なしでも外に出られる。とりあえず近づけば文字は 読めるので、自分が障害者という認識はなかった。

 健常者として暮らしていたので、マークシートをずらしながらもなぜか大学に受かってしまった。いや、ずれていたのがよかったのか?

 その間も母があちこちの病院に連れて行ってくれたけれども、病名は分からず「難しい病気です」と言われ、そのまま放置された。
 家族も自分もまさか本格的に失明の危険がある病気だなんて、露ほども思っていなかったのである。

 当時は病院と福祉は連携していなかったし、「障害」の宣告は今より死刑宣告味があっただろう。がん告知もなかった時代である。一応なんとか学校にもついていけてるみたいだから、特に問題なしという事になった。

いよいよ盲学校へ

 その後、紆余曲折経て盲学校に入学した。

 生徒はほとんどが日本全国から集まった学齢だった。私は三年間、彼ら彼女らに頭の悪いおばさんとして蔑まれ続けるのだろう。十代の子にとって二十代はもはやおばさんである。
 中途失明の人はほとんどいなかったので、文字は拡大文字と点字だけ。音声と言う選択肢はなかった。

 教室に入ると皆いろいろな地方から来ているはずの生徒たちが、既に友達のように話している。なぜだ?謎はすぐに解明された。
 当時全国の盲学校の生徒たちは「文通」と言う手段でつながっていたのである!

 今でも点字の郵便は無料。
 文通はネットがない時代の盲学生の数少ないコミュニケーション手段の一つだった。
 だから直接文通してなくても「○○ちゃんの友達の」と言う話で皆盛り上がっていたのである。もうしょっぱなからアウェイ感マックスである。

 しかし、クラスメートは皆とても親切だった。
 特に地方から来た子は、点字ができず苦労している中途障害のおじさんおばさんをたくさん見ていたので、テキストを読んでテープに吹き込んでくれたりもした。
 
 案の定といおうか授業において、私は皆のしっぽにかろうじてつかまっているレベルだった。
 優しいクラスメートは
「いねこちゃんは点字ができないからね」
とフォローしてくれたりしたけれど。

 勉強はできないけれど、私は渋谷も原宿もどんとこいの東京生まれ育ちのお姉さん。いくら秀才とは言え、地方出身の若い人たちはおしゃれな街に興味津々。

 当時は今よりずっと見えていた私は皆と新宿、原宿、池袋とあちこち遊びに行くなどし、私は盲学校三年間みんなととても楽しい学生生活を送った。

見えなくても寮生活

 部屋は基本三人部屋。奥の板の間に勉強机が三つあって、手前の畳のスペースに布団を敷いて三人で川の字で寝る。

 消灯は二十二時と言うことになっているけれど、その後も他の部屋の人が遊びに来たりしてかなり遅くまで電気はついている。
 いくら弱視とは言え、電気がこうこうとついている中で、眠れるようになるにはしばらく時間がかかった。

 部屋によっては衝突もあり、年に1階の部屋割りの時は皆 戦々恐々だった。日常生活動作ができない人や面倒くさい人、協調性がない人とは一緒に暮らしたくないと思うのは障害があってもなくても同じだ。


 ところで、私の印象では盲学校の生徒は恋愛傾向が強い人が多く、バレンタインは一大イベント。女子たちは彼氏や好きな男の子に何か手作りのものをあげる事に一生懸命だった。

 バレンタイン直前ともなると、寄宿舎で私が夜中にトイレに行くと、試験前でもないのに他の部屋は皆電気がついている。女子部屋の生徒たちは、母さんのように夜なべをして手袋だの何だの編んでいたのである。ご苦労なこった!

 そしてバレンタイン当日、戦利品を開陳してくださる男子もちらほら。
 シンプルなものでマフラー。あみぐるみやパーカーまであったのにはさすがにびっくりした。
 視力0.02の子がパーカーを編むのである!いや、編めるのである!

 後で聞いたら編み物をする視覚障害者は少なくなく、視覚障害者のための編み物教室なんていうのもあるらしい。
 そういえば入学したての頃も、全盲の子が自作のきんちゃく袋をクラスメ
イトに配っていた。
 家庭科室に盲人用のミシンがあって、それで自分の分を作ったけれど、布が余ったから友達の分も作ったとか。糸も出ておらずちゃんとまっすぐ縫えていて、見えている人が作ったものと比べてなんの遜色もなかった。
 
 その後も、全盲の彼女は絡まったネックレスをほどいたりしており、きっと元々ずばぬけて器用な人であることは間違いない。
 もはや目が悪いから編み物はできない縫い物はできないは通用しない。私はただただ不器用でものぐさなだけだという事が判明した。


 それにしても、二十歳前後の専攻か生たちはそこそこ分別もあるからいいけれど、地方出身でおいそれとは実家に帰れない。
 目の見えない中学生や高校生が親元を離れて、寄宿舎暮らしをするのは楽しいこともある反面、つらいことも多かったのではないだろうか。
 やさぐれたくても、見えなければ盗んだバイクで走り出したりもできないのである。

 携帯電話がない時代、公衆電話から泣き ながら実家に 電話をかけていた子もいたなんて話を耳にすると、こちらの方が泣けてきた。
 聞くところによると、地方の盲学校は幼稚園から寄宿舎なんていうのは当たり前。クラスメイトの中には、小さいころは長い休みの後、実家から学校に帰るのが嫌で大泣きをしたなんて話をしていた人もいた。


 それはさておき、寮の建物はぼろいし、ひどい環境だったけれど、寄宿舎生活もなかなか楽しかった。私は友達に恵まれたのも幸いだった。今でもお付き合いがある。

 きっと、他の生徒に比べてずぬけて年上だった私は、争いにも面倒くさい恋愛沙汰にも巻き込まれる事なく、牢名主ポジションを確保できていたのも、寮生活しやすかった由縁に違いない。

 試験前には、近くに質問したり相談できる友達がいたのも心強かった。法定伝染病の名前を暗唱しながら、食堂で友達とご飯を食べたのもいい思い出である。

見えなくても修学旅行

 盲学校にも修学旅行がある。

 まさか大学を卒業して修学旅行に行くとは露ほども思っていなかったので、気恥ずかしくも久しぶりにワクワク。
 それ以前に、よもや二十代後半にして中間テストや期末テストに悩まされる日々が戻ってくるとは思っていなかった(涙)

 私たち理療科生の修学旅行は企画から何から全部自分たちで決める。まず場所については、うちのクラスは北海道出身がいなかったので、行先は北海道で満場一致。季節も春だか夏だかだったので、観光にはおあつらえ向け。

 詳細は弱視の男子が中心になって決めて行った。交通機関も盲学校には鉄道マニアが必ずいるので、交通系アプリなんかなくてもノープロブレム!ウォーキング時刻表が全部段取ってくれる。

 それにしても、当時はインターネットなんかなかったから、観光地はどうやって調べていたのだろうか。多分、まだ文字処理ができる弱視が旅行本で調べてくれていたに違いない。

 ちなみに他にも北海道に行った学年はあった。しかし動物園に行ったはいいけれど動物が見えないから、ただ臭いだけだったという全盲からの苦情が出ていたそうな!

 だから私達は飲み食い中心の盲人のライフスタイルに合ったルートを考えた。とにかく札幌、小樽、函館で飲み食いに明け暮れる。ビール工場、ジンギスカン、寿司!

 一応皆成人なので、高校生と違って先生方もあまり干渉してこないし、酒も飲み放題。もうカオスの予感しかしなかった。

 そしてそれが現実になった。目が見えない分余計に質が悪い。

 訳が分からなくなった全盲男子は危うく遭難しそうになったり、器物は壊すし、部屋や電車の中で吐くやつもいた。今ならもう全部アウトなやつだ。あの宿はもう盲人は出禁になったとかそうでないとか!

 それから、もうかなり昔の話なので忘れてしまった事も多いけれど、私は市場での買い物や小樽で食べたお寿司など、とにかくとても楽しかった印象だけが残っている。

 ちなみに、私がリアルJKの頃の修学旅行は京都、奈良だった。
 当時は全く興味がなかった寺社仏閣のスライドを見せられて、市中引き回しの刑よろしくあちこち引き回された。

 夜に仲良しの演劇部仲間とおしゃべりしたのが楽しかったのは覚えているけれど、それ以外はホテルの食事が思いのほか甘くておいしくなかった印象しかない。

 人生終わりだと思って入った盲学校が、修学旅行などの行事も含めて、私の学校生活の中で一番濃い三年間になったのは、これも何かの縁だったのかもしれない。人生わからないものだ。

見えなくても勉強

 健常者の子供たちが成績で学校を分けられるところ、盲学校は成績がいい子も悪い子も「見えない」という共通項のみで同じ学校に入れられる。

 あまり優秀ではない方に授業のレベルを合わせると、いくら頭がよくても進んだ勉強をする機会をもらえない。目で見て勉強できないというハンデがある上、このような背景から正直、盲学校のレベルは低いようだ。

 どうしてそう思ったかと言うと、はり灸の勉強をしていた時も、専門科目は私より優秀で賢いはずのクラスメイトが、それなのに英文法とかはあまりわかっていないようだったのだ。

 スマホの使い方を教えてくれた友人も、私より優秀な人なはずなのに、歴史はあまりよくわからないと言っていた。学校でちゃんと習ってこなかったという事なのだろう。

 要するに盲学校は見えない人の生活スキルは学べるが、世間が狭くなりがち、優秀でも高いレベルの教育を受けられない可能性があるという弊害がある。

 特に最近は医学の発達で、視覚障害児の数が減っているらしい。盲学校には視覚プラス知的障害のある生徒の方が多いようで、先生たちはそちらに手を取られてしまう事の方が多い、という話も聞いたことがある。

 普通校の中にも障害児のために、特別クラスや補修のような事をやってくれている所もあるようだ。そんなところでうまく特殊教育を受けながら、普通の勉強は健常者の生徒たちと一緒にできるような環境があれば理想的だろう。

 いずれにしろ、どこで何を勉強したいかは本人と親御さんが自身で方針を考えていかなければならない。少なくとも「かわいそうだから」とか「世間体がどうの」とかそういう非建設的な選択だけはしてほしくないものだ。

見えなくても料理

 私はずっと実家住まいで、食事は母に全部丸投げだった。ほとんど台所に立つことなく目が見えなくなってしまった。

 しかし見えていた頃、なぜか趣味でお菓子作りを習っていた。しかし、自覚はなかったもの、視力0.1と0.01といバッチリ弱視。そのうえ類まれな不器用だったので、とにかく浮きまくっていた。

 しかし人生何が功を奏するかわからない。
 ケーキも料理も基本動作は変わらない、ここでの修行で私は料理の基本スキルをマスターしてしまっていたのである。

 おかげで今私は一週間に一回、ヘルパーさんに一品作ってもらっている以外、ほぼ自炊している。職場にはお弁当も持って行っている。

 こう書くと料理が好きな人のようだが、食物アレルギーがあるし、健康のため、仕方なくバランスと味だけを考えて、煮たり焼いたりしているだけ。

 食材はほとんど生協に持ってきてもらっている。都会なのでお店はたくさんあるけれど、生鮮食品はどれが新鮮だか旬だかわからないし、それ以前に何が売っているのかわからない。

 そして、いざ料理である。麺類、丼ものは炭水化物に偏るので家では基本作らない。煮物やスープはグザイを切って鍋に入れて味をつけて煮込んでしまえば勝手にできてしまう。

 まな板は軽いものにして、鍋屋皿の近くまで持っていけるようにしている。食材を切るのは大きさを合わせるために、指三本とか四本とかを当てて大きさをそろえる。

 みじん切りは散らかって後片付けが大変なので、なるべくやらないようにはしているけれど、必要な時は少し切って皿に移すようにしている。
 そして感覚だけで、全く見てはいないのでネギでも玉ねぎでも涙が出で大変なんてことはない。つながっていたりもするネギは、後で手で確認してバラバラにする。

 魚はグリルが勝手に焼いてくれる。
 問題なのは炒め物。豚肉は火が通っているかどうか、赤い部分が見えるわけではないのでわからない。

 私の場合、食べるのは自分だけなので、もう熱くて触れなくなるまでお箸ではなく手で炒めている。

 触れなくなったらトングなどに変えて、しばらく適当に炒めて皿に盛る。触れるくらいに覚めたら触って、確認してから他に炒めた野菜と混ぜたりそのままお弁当に入れたりする。

 よく、カレーが簡単だからとも言うけれど、カレーは後片づけが大変なので、作らない。

 揚げ物を作るという視覚障碍者もいるが、揚げるのはともかく、残った油の処理とかどうしているのだろうか。
 油でベタベタになったキッチンとか、もう想像するだけでゾッとするし、油をこぼしたりしたら1週間くらいは立ち直れない気がする(汗)

 でも、料理が大好きという視覚障碍者もいて、圧力鍋とかフライヤーとかいろいろ持っている人もいる。料理が好きか嫌いかは障害の有無とは関係ない。

 それに今は、一般的に女性も仕事をしている人が多いせいか、料理本も時短レシピみたいなものがもてはやされている。これは盲人フレンドリーでもある。

 とは言え、やはり料理は時間もかかるし面倒くさい。私は料理をするよりはアニメを一本でも多く見たい派なのである!

見えなくても金銭管理

 見えない人がどうお金を管理しているか、と言うのはたまに聞かれる。

 まずはコイン。触覚に優れている人はすぐにわかるようだが、私はわからない。
 だから側面を確認して、ギザギザがあるのが百円と五十円。ないのが十円と五円と認識している。たまにギザ十にたばかられるが、最近はあまり指にかからない。

 一円と五百円はさすがの私も触ってちゃんとわかる気になっているけれど、たまに百円と五百円を間違える。お札は触って分かる印がついているらしいけれど、私は全然わからない。

 普段はレジでまごまごしないように、一万円とそれ以外は財布の中に分けて入れている。五千円のお釣りがあると、お店の人に聞いて二つに折って千円と一緒にしまう。

 ATMについては、十年前や二十年前はまだまだ音声対応の物がなくて、急にお金が必要になると慌てふためく事になっていたけれども、今は大手銀行もコンビニも軒並み音声対応のATMが導入されている。
 ちなみに初めに音声対応のATMを充実させてくれたのはゆうちょ銀行。

 でもまだATMからの振り込みは音声ではできないので、銀行のお偉方、どうにかできるようにしていただけると嬉しいです!


 ところで、Z世代の視覚障害ユーチューバーは現金は使わないと言っていた。今や年齢は問わず電子マネーは、視覚障碍者の間でもかなり浸透している。

 しかしいくら使ったかの計算もできない私が電子マネーに手を出したら、一瞬で破産するのは自明。だからいまだにいつもニコニコ現金払い
「二人いたはずの諭吉が一人になっている。」
そうそう、諭吉が栄一になったらしいけれど、見えないから誰だかわからない。

 店頭で一円の数を数えたりしているので、後ろに並んでいる方はさぞイライラするだろうけれど、残念な昭和の盲人をどうか許してやってほしい。
見えなくても工夫で乗り切れ

 見えなくなってから、靴下が片方いなくなってしまうことが格段に増えた。
 全盲の先輩に相談したところ、彼は安全ピンでとめていると言っていた。しかしこれは洗濯機がぐるぐる回っている間に、外れてしまう可能性が高くかなり危ない。

 どうしたものかと思っていた矢先、点字の雑誌で、二つの靴下を止める洗濯用クリップが紹介されていたのを見つけた。天の助けとばかり早速購入。これがもう二十年位前の話。

 しかし、靴下を洗濯機に入れるたびにいちいちクリップでとめるのはだんだん面倒になってきた。私は本来ものぐさなのだ。

 何とかなるだろう、とそのまま放り込むようになったら案の定、片方なくなる率がバク上がりした。
 なくなってしまったとあきらめていた片割れが、忘れたころにカピカピに渇いて、洗濯機の隅っこから発見されるなんてこともしばしば。


 見えない者にとっては、5cm離れているだけでも、手に触れなければそれは存在しないことと同義なのだ。

 当時は今よりは見えていたものの、所詮は弱視。ばらばらの靴下の中からペアを完成させるのには、かなりの時間を要した。そしてこの時間はクリップでとめる時間よりタイパが悪い事が判明。

 同じ靴下を買えばいいというアイデアもあったが、いただいた物や初売りで買ったもの、同じものを買おうとしたらうまく見つけられなかったなどの壁に阻まれこちらも早々に断念した。

 そんなこんなで急がば回れという事になり、お蔵入りになっていたクリップが再登場することになった。


 あと、なくなりがちなのは箸。
 箸入れにさしたつもりがうまくささっていなかったり、どこにでも転がって行ってしまうので行方不明が続出する。

 かなり前になくなっていたと思っていたものが、1本だけどこからともなく発見されたりなんてことも。

 同じものを何膳か買っておいて使っていたのにいつの間にかなくなっているので、とうとうお弁当についていた割り箸を、何度も洗って使いまわすようになった。
 これならなくなってもダメージがない。しかし食事をしていてなんとなく味気ない。

 さてどうするべと思っていた矢先、無印良品で竹箸みたいなのがそんなに高くなく、三十膳くらい入っているセットを見つけた。これだと思い即購入。

 何事もお便利グッズを導入しつつ、知恵と工夫で面倒くさいことを乗り切る。もう後ろ向きなのか前向きなのか、わからなくなってきた(汗)

 ところで、アレクサ様が来る前は、点字でメモをしていたのにメモをしたことさえ忘れてしまい、人に迷惑をかけた事もあった。

 見えないと何をするにも無駄に時間がかかるし、効率が悪い。何もかも覚えている人もいるけれど、私のように三歩歩くと忘れてしまう鳥並みの記憶力の人もいる。そこら辺をどう克服するかが日々の課題。

見えなくても一人暮らし

 後に一人暮らしの私の家に来た晴眼者が、
時計と鏡がない以外、普通だね
と言っていた。

 見えない人は音声時計を使っているので、見えるところではなく、触れるところに時計を置いている。今はスマートスピーカーやスマホで時間を確認している人も多い。これは晴眼者も同じかな。

 ちなみに私は外では、蓋が開く触察時計を使っている。
 盲学校ではこちらが主流だった事もあるが、外では音声で時間を確認できる所とそうでない所があるので、触察の方が圧倒的に汎用性が高いのではないかと判断したからだ。だけど、今でも私はたまに触り間違える。

 それでも触察時計は使えるようになるまでのハードルが高いので中途障害
の人はスマホで時間を確認している人が多い。


 話はちょっと変わるが、目が見えなくても、ある程度訓練すれば一人暮らしもできないことはない。


 私はずっと実家住まいで家事は皆母に丸投げだった。

 しかし三十を過ぎたころ、今更のように、母は私より先に死んでしまうのだという事に、思い至り愕然としたしかも私の眼疾患は進行性、全く見えなくなってからの自立はより困難に違いない。

 見えていたころかなり本格的な製菓教室に行っていたので、料理はできる。洗濯や掃除は機械がやってくれる。

 でも基本料金がどのくらいだとか、どうやって払うのかとかは全然知らなかった。何かトラブルが起きた時は、見えないと何もかも普通の人の何倍も大変。

 だから相談できる母が元気なうちに経験値を積まなければいけないと思いつき、一人暮らしを決意した。

 当然家族は大反対。便利なところに住んでいるのに、わざわざ余計なお金をかけて別に住む必要があるのか。しかも普通の人よりリスクはずっと高い。そこを何とか説得し、実家の近くに一人暮らしすることになった。


 自分だけの部屋を持てるというのは気分が上がるものである。なるべくお金をかけないように、実家で使っていない鍋や食器をもらってきたりはしたものの、買わなければいけない物もあった。

 その一つがトースター。しかし引っ越し早々そのトースターでやらかした。
 買ったばかりのトースターは開けたところに紙が貼ってある。それに気づかず、紙の上にパンを置いて焼こうとしたら紙が燃えて火が出た。

 盲人は火事を出すだろうから、部屋を貸してもらえないという話をよく聞く。しかし実際、火事を出した盲人の話を聞いたことがあるだろうか。

 これこそ先入観と偏見に満ちた差別的発言!なんて言っていたそばから、一人暮らしを始めるや否や「火事を出した盲人第一号」になるところだった(滝汗) 急いでコンセントを抜いて事なきを得たが、部屋に煙が充満し、換気が大変だった。

 このように、始めに大きな洗礼があったが、それ以降特に問題はなく楽しいおひとり様生活がスタートした。

 そこから何度か引っ越しはしたものの、実家は近くだし、友達も周りにたくさんいたので寂しい一人暮らしとは無縁だった。

 それでもやはり見えないと大変な事はある。一番はパソコン周りの不具合に対処できない。電話サポートの人に「一番下の緑のランプが」などと言われてもわからない

 一度なんかサポートの人に来てもらったはいいが、コンセントが抜けているだけだったことがある。それでも出張料として何千円か払った。
 コンセントがぐちゃぐちゃしていると、触覚だけではどこに何がつながっているのか、よくわからなくなってしまう。切れた電気も付け替えられない。

 今でこそスマホのOCRアプリで、ずいぶん文字が読めるようになったけれど、生協で買ったものが何だかわからない。買ったものリストと商品を触った感じで「きっとこれがこれだろう」とあたりを付ける。

 すると冷凍のミックスベリーだと思っていたものが、混在ミックスだったりする。賞味期限もわからないから、においと味で自分で決める

 他には、洗った衣類の汚れがちゃんと落ちているかわからなかったり、靴下のペアがわからなくなったりした。

 重度障碍者の場合、同様家事援助のヘルパーをお願いできる。
 私もアトピーがひどくなって、いよいよ水仕事ができなくなったのでお願いすることにした。

 はじめのうちは食器洗いをメインに掃除をお願いしていたが、水仕事ができるようになってからは、掃除と料理を一品お願いすることにした。やはり自分で作るよりヘルパーさんに作ってもらった方がおいしい。果物もきれいにむいてもらえるのがうれしい。

 他に郵便物も読めないので代読してもらったり、宅配便の伝票を書いてもらったりしている。 
 健常者ならあり得ない謎の不便さもあるけれど、いろいろな人に協力してもらって今はそれなりに楽しい盲人ライフを送っている。

見えなくてもスマホ

 最近のデジタル技術の発展は著しく、パソコンに四苦八苦していたら今度はスマホが登場した。このつるつるの板をどうすればいいのだ。

 音声が出るからと言って、なんでも見える人のように使いこなせるかと言えば大間違い。

 でも映画の音声ガイドや、かざすだけで文字を読んでくれるアプリや音声でナビゲーションしてくれるアプリなど、明らかに習得すればお得感満載のアプリがたくさんある。

 視覚障碍者はiPhoneを使っている人が圧倒的に多い。多分、もともとボイスオーバーが入っているとか、アクセシビリティーに力を入れているとかそんな理由だと思う。
 私は困ったら聞ける人が多い方がいいという理由だけで、値段は高いけどiPhoneを選択した。

 初めは、友人のお古のiPodタッチを、基本的なジェスチャーを習った。しかし文字入力は自分で慣れていかないとできるようにならない、と放置された。そしてこの文字入力こそが、函谷関もものならないバリアであった。

 くどいようだが、音声が出るから見えなくても使えるというのは、一部のチートに限る。

 つるつるを探りながら一つ一つ文字を入力する。
 しかしどのタイミングで何が起こったのか、変な文字が入っていたりする。始めのころはパスワードを入れるだけで1,2時間かかった。

 目印のために小さいシールを貼ったりもしているが、なかなかうまくできない。携帯キーボードや音声入力も使っているが、これらはどんな場面でも使えるわけではないので、最低限の文字入力はできないと不便。

 しかも音声入力は感じがうまく変換できなかったりもするので、ちゃんと書こうとすると結局は一文字ずつ確認しなければならない。読むにも書
くにも漢字かな交じり文はとにかく厄介だ。

 そして苦節何年(?)ある程度入力もでパソコンでは開けないページもスマホで試してみるとアクセスできたりするケースもある。

 しかし、目的の所になかなか行かれなかったり、見えていれば一目瞭然のところ、上から下まで読まないと、目的の情報にたどり着けなかったりと言うもどかしさは。まだまだ多い。

 いろいろ困難はあれど、この箱がカレーライスかハヤシライスか、豆腐の賞味期限がいつなのか、誰かに見てもらわなくてもわかるというのは見えない者にとっては画期的な事。

 生活のすべてをスマホに預けようとは思わないけれど、スマホを使えるか使えないかで見えない人の生活の質が天と地ほどの差になることは明らかだ。

 例えば、こうしてノートに記事を投稿して、ノーターの方々とも交流が広がるなんて、ああ頑張って良かった!

見えなくてもワーク

 今から十年以上前の話だが、職安主催で障碍者の集団面接というのがあった。障碍者の求人ってこんなにあるんだと感心したのもつかの間、視覚障碍者の求人は五つくらいしかなかった。

 この段階で、重度視覚障碍者は障碍者ヒエラルヒーの中でも最下位という事を、思い知らされた。企業内マッサージが二件くらいあって、後は何だったかよく覚えていない。

 デジタル技術は日進月歩、スマホも音声で使えるようになった今日この頃、当時に比べれば事務職でも、視覚障碍者ができることは圧倒的に増えた。そして事務職を希望する視覚障碍者も増えている。

 そんな背景もあり、友人の盲学校の先生によると、最近は大学進学を希望する生徒が多く、鍼きゅうを勉強する理療科に進学する人は減っているそうだ。

 しかし目で見てわかりやすいものは、たいてい音声上では使いにくいことが多い。エクセルで書かれた書類、なぜMの10とか、半端なところから始まっていたりするんだ?

 見えていればスクロールして、一瞬で目的のところにたどり着けるのに、音声ソフトだと、カーソルで一つ一つたどっていかなければならないので、何倍も時間がかかる。

「同じ仕事を自分でやるより、晴眼者がやったほうが何倍も速くできると思うんだけどね」なんて苦笑いしていた視覚障碍者もいた。

 留学経験もあり、語学が堪能なチート全盲も、会社で
「どの仕事をお願いしていいかわからない」と言われてしまったそうだ。

 自身も忙しい健常者職員がなぜ、障碍者のフォローもしなければならないのだと思うのは当然。人間余裕があれば人にも寛容になれるが、そうでなければイライラしてくる。

 障碍者側も役に立とうと頑張っているけれど、見える前提のフォーマットには乗っかれない。 

 晴眼者が残業しているところ、自分はできることがないので提示に退社。周りに申し訳ない気持ちになるとともに、自分に絶望する。

 会社側が持て余していたような人が集まった部署に、障碍者が回されることもあるが、そこにいるどこの部署でも相手にされない社員たちは、自分より下の障碍者に尊大な態度を取ってくる場合もある。

 障碍者側はたまらない。
 仕事を遂行する上で、やってもらわなければいけない事が必ず出てくるので、うまく付き合わなければならない。
 また、障碍者同士のマウントの取り合いなんてのもある。こんな積み重ねがストレスとしてどんどんたまっていく。

 障害有無関係なく、落ち込みやすい人はいるけれども、ただ障碍者の場合、本来の能力とは関係ないところでできないことが多いので、闇落ちする要因が、健常者より多くなってしまう。

 私の視覚障碍者の友人には普通に働いている人が多いが、押しなべて健やかに生活している。 
 彼らは皆、朗読や読書、スポーツサークルなどのメンバーだ。つまり会社以外にも、自分の居場所を持っているのである。

 今更耳タコだけれども、あえて言いたい。家庭でも趣味でも会社でも、人は複数の居場所を持っていたほうが精神衛生にいい。そうすれば、ケースバイケースで軸足を変えられるからである。

最後にー見えなくても不幸じゃない?

 私も盲人始めて三十年、もうベテランの域です。ビギナーの頃からと比較して、自分の読後感がどう変わったかも興味のあるところ。視力も四級だった当時と違い、今はバリバリの一級です。

 今は昔に比べて、デジタル技術のおかげでずいぶん楽にはなったとはいえ、まだまだ見えなければ大変な事はたくさんあります。

 私は今でも見えない事は不幸だと思っています。それでも不幸を嘆いてばかりいるのは建設的ではないし、楽しくもありません。だからやはり私はこれからも見えない事を笑ってごまかしながら、余生を送ろうと思います。
                     かわい いねこ  
 
追記
 近日中に「見えなくても愛(笑)」の本をキンドル出版する予定です。

 そちらにはもっと盲学校のことも、社会に出てからのこと、仕事のこと、日常のこと。そして様々なスポーツに挑戦を続けていることも書きました。
 出版できたら、ノートにもその記事を上げますので、どうぞ宜しくお願いします。

 今回の投稿ならびにキンドル出版予定の「見えなくても愛(笑)」はノート仲間のLoloさんに手伝っていただきました。

 ついでに宣伝してね、とのことなので笑、彼女のキンドル出版「エジプトの輪舞(ロンド)」上下巻、そして「エジプトの狂想」も宜しくお願いします。
 
 ヨーロッパの香りが漂う近代のエジプトが舞台で、ノンフィクションに架空人物も登場させ、実際の歴史と実在した人々と混ぜてのドラマチックな展開となります。


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