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永井荷風『あめりか物語』感想(その1)...「船房夜話」柳田君の渡米経緯



はじめに


永井荷風は明治36年(1903年)10月から明治40年(1907 年)7月まで4年間、彼曰く「米国にて遊び」ます。今から120年前のことです。横浜港から信濃丸に乗り、アラスカ沖を経由し、カナダBritish Columbia州バンクーバーVancouverのVictoriaビクトリア港に着き、それから、ワシントン州Washington StateのタコマTacomaに滞在します。その後、汽車でChicago近郊カラマズー、New Yorkなど転々とします。その間、セントルイス、ペンシルバニア州キングストン、首都ワシントンなどあちこちに動いていますが汽車で動いたようです。今でこそ飛行機や自動車であちこち出来ますが、当時はあの広大な地を蒸気機関車でのさぞかし大変だったでしょう。


行った先々で出会った人たちとの体験を書き留めた22編を日本に送って雑誌に発表しました。紀行文というよりは、出発以前日本でエミール・ゾラEmile Zolaの『居酒屋』『ナナ』を読み自然主義naturalismに傾倒していたこともあってか、遭遇した出来事、人々、耳にした話について、人間の業が織りなす宿命的現実かのように描いています。アメリカは農業から工業に移行しつつあり、一部成功者のビクトリア朝イギリスのジェントルマンを模倣した気取りに対し、Charles Dickenが描く貧困にあえぐ労働者の現実も無視できず、必然的にどうしようもない重さ、暗さを感じさせます。

筆者は、noteマガジン『アメリカ留学(1968-1978)を振り返って、恩師の方々』にて、今から56年前に私費留学に踏み切った自らのアメリカ体験を10編に分けて書き留めましが、120年前の永井荷風の「遊学」はアメリカ留学史の原点としてもとても貴重です。特に筆者個人にとって、これら22話の舞台はその60年後に足を踏み入れた場所ばかり、あそこでそんな事が、ああだからそうなんだと考えさせてくれます。昔を知るうえで貴重な情報を与えてくれると同時に、さすが文豪!その鋭い内面をえぐるかのような洞察力、写実力、そしていずれは耽美主義に傾倒する美的感覚に圧倒されます。新鮮です!日本語っていいな!と思わせてくれます。

前置きはこのくらいにして、読んだ22編の内の特に気になった数話を選び、脳裏に浮かんだ感想です。本稿(その1)では「船房夜話」についてです。

船房夜話

1903年10月横浜港から貨客船信濃丸に乗って10日ほど経ちアラスカ沖に差し掛かった船上での一夜の話です。出港してから見えるのは荒れた太平洋ばかり、祖国日本では10月晴天の下紅葉がきれいに散り始めるころですが、気温が下がり暗く2月の空風のように吹き荒れるます。

船は日本郵船所属で、3年前の1900年にイギリスの会社により竣工され、総トン数6,388トン、長さ135.635m、幅14.996m、深さ10.21m、高さ30.78m(水面からマスト最上端まで)、17.37m(水面から煙突最上端まで)、最大速力15.4ノット(時速28キロ)、航海速力11.9ノット(時速22キロ)、航続距離8ノットで7,700海里(14,260キロ)です。旅客定員一等:26名、二等:20名、三等:192名、総計238名とあります。30年後の1930年に竣工の同じく日本郵船所属で横浜山下公園脇に係留されている氷川丸より若干小さい本格的な商船であったことが窺えます。

余談ですが、翌年の1904年に勃発した日露戦争では1905年に海軍に徴用され、5月対馬沖航行中にバルチック艦隊に遭遇し日本海軍に知らせ、海戦勝利の一因になったことでも知られています。

こんな中、やっと体が慣れて船酔いもしなくなりました。「昼間は看板で輪投げのあそび、若しくは喫煙室で骨牌(かるた)取りなぞして、、、晩餐のテーブルを離れてからの夜になると殆ど為すことが無くなってしまう。、、、私は其の儘船房(キャビン)に閉じこもって、、」や「波は次第に高まりゆく、、、高まり、ベッドの上の丸い船窓に凄まじく打ち寄せる、、」などの件から想像するに、また、この船旅で出会った柳田君と岸本君を部屋に呼び入れると安楽椅子やソファーに座るなど狭いながらも結構なスペースがあり、ボーイに命じウイスキーなど酒類を持ってこさせコップにつがせてテーブルに置かせるなどなど、当時としてはある程度余裕がなければできず、おそらく看板付近の一等、または、二等の船房で悠々と船旅をしていたものと思われます。

船上で出会う「ハイカラの」柳田君

ある夜、永井は日本からもってきた雑誌を読んでいると、柳田君が退屈しのぎに話にやってきます。そして隣房の岸本君も呼び寄せ「雑談会」。外は外套が必要な寒さ、荒れ狂う嵐、甲板に波が打ち寄せ、汽笛が鳴り響く中、船室はスチームヒータで温かく、ウイスキーを傾けながらしばし身の上話をします。

柳田君は中肉中背の31,2才、去年豪州から帰国したばかりの気取って「ハイカラ」、英語ができ、背広を着こなし脚を組みます。「大陸の文明東国の狭小」が口癖、さぞかし、大抱負があっての渡米かと思いきや、日本に帰るや「焼け出される」ように「亜米利加三界」に逃げ出すのだと言う。渋沢栄一の言葉を借りれば、当時のアメリカなどは三界、即ち、三文の価値もない世界であったという見方が窺い知れます。

柳田君はある学校、大学と書かれていないので、旧帝国大学8校ではなく、1918年大学令以降に大学と認可された公立、私立の専門学校、高等師範学校、高等実業学校などのいずれかの出身でしょう。卒業後会社に就職し、すぐさま豪州派遣となります。そして意気揚々と日本に帰り、「大陸の文明東国の狭小」を連発し、優遇されると思っていたところ、本社勤めの翻訳係り、月給も不本意の40円。

それでも「洋行帰り」を自負し、貴族令嬢と結婚し挽回しようと思ったものの、令嬢は彼が最も軽蔑する「島国の大学卒」を選び、帰国以来2度の屈辱を味わうのです。幸いにも横浜の生糸商から海外視察をしてくれとの依頼を受け、アメリカに行き事業(ビジかられの視察をするという。島国日本の狭小さを侮蔑し海外へという熱情に駆られ、船上にいる今から英語を連発し、服装から仕草から洋風の気取り屋です。

ちなみに月給40円とありますが、明治37年(1903年)当時1ドル=2円で安定していたようです。ですから月給20ドルです。「明治人の俸給」と称するサイトを見ると判任官10等にあたり陸軍少尉のそれに該当します。”The History of American Income”というサイトによると、1900年アメリカ労働者平均賃金は週給12.98ドル、即ち、月給51.92ドルで日本の約2倍ということになりますが、実際には殆どの労働者はそんなにもらってなかったようです。

(その2)に続く。






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