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細川藤孝で考える🤔したたかなプリンス(貴公子)とは?~後編~

さていよいよ後編だが、ここまで、前編で彼の家柄(貴公子であること)を、中編でそのしたたかさを記事にしたが、今回後編では彼の人生の山場とも言える、文化人としての教養が戦場において歴史を変える程の結果(戦力)になった話しをご紹介したい。

突然だがあなたには趣味や特技があるだろうか?最近では価値観の多様化から他人から見れば「はぁ?」と言うようなものを集めていたり、凝っていたりするようだが、この藤孝(幽斎)も戦国時代という血で血を洗う時代にありながら、歌道(和歌、古今和歌集の解釈)を頂点まで極めた人物(本業武士なのに)とされている。

「いやいや、歌道・茶道などは戦国時代には、重要な外交だったんですよ」と言う反論もあろうが、残念ながら藤孝(幽斎)の歌道は外交を兼用する程度という生半可なレベルではなかったようだ。(もちろん外交的にも利用しているのは当然だが)。

では、どんなレベルだったのか?彼の本拠地であった丹後の田辺城(舞鶴城)内部に説明書きがあるので、中に進んで説明しよう。


近年再建された田辺(舞鶴)城
再建とはいえ、なかなか見ごたえがある!
再建の為か?お堀が非常にチープ(浅い)な造り😢以後の手入れを考えるとやむ無しではある。
城(公園)の内部に進むと、再建箇所と明らかに石垣の赴きが違う箇所が!何故か?説明の看板が欲しい。
城(公園)の奥には、こんな立派なお庭もある。もちろん金沢の兼六園や岡山の後楽園ほど立派ではないが、市民の憩いの場としては、十分な造りである。(常時無料公開)
まだ更に奥は、心種園というお庭のよう、実は歴史的な場所で、藤孝(幽斎)の大博打の舞台でもある。
見にくいが石碑には、「細川幽斎公古今傳授遺蹟」とある。
石碑の隣りには、藤孝(幽斎)が古今和歌集の奥義(古今伝授)の伝承者であったことを説明する掲示板がある。

この説明書きには、「田辺城に籠城した幽斎が万一…」といきなり書かれているが、これは関ヶ原の戦い(1600年)に関連した戦いで、西軍15000人に対し、幽斎(東軍)が手勢わずか500人で籠城戦をした戦いのことを話している。

ここで、普通の武将であれば、後詰(援軍)が来るのをただひたすら待って耐えるか、決死の覚悟で打って出るか?というお決まりのパターンに入って行くのだが、ここからが当代随一の文化人の本領発揮、教養が強大な戦力と化した稀有な事例を藤孝(幽斎)は現出させるのである。

まず、藤孝(幽斎)は武士である。江戸時代程に階級は確立されていなかったとはいえ、この時代でも「武士は面子で食っている」ところはある。舐められては統治も難しくなる💦やすやすと降伏し、開城とは行かない。

だが、彼は古今和歌集奥義の伝承者でもある。西軍の兵達には「はぁ?」でも、指揮官クラスでは、その人物に刃を向けるマズさは薄々気付いていた筈である。

なぜなら、古今和歌集の編纂は代々天皇が勅令で指示している国家事業だからである。

きっと西軍の指揮官達は思ったことだろう…

「これ、もしかしたら俺たち賊軍(天皇に刃向かう軍)になるんじゃね?」

そう、半ば正解である。籠城早々に後陽成天皇の弟である八条宮智仁親王が、停戦と開城を斡旋する。この段階で登場人物のスケールが半端ない💦西軍指揮官達は、「ヤッバ💧」と顔を青ざめさせていたに違いない。

ちなみに西軍の指揮官は、

小野木重次=島左近(石田三成家老)の娘婿
前田茂勝=前田玄以(京都所司代)の次男

いずれも、決して雑魚武将の類いではない、武士の格としては、かなり上位であるが、さすがに本人達の世代では、天皇家や朝廷と渡り合える程の力(能力)も経験もない💦

そのあたりを見抜いた藤孝(幽斎)は、見事にこの天皇家や朝廷、そして敵将のヒヨコ🐤どもを籠絡してしまう。

まず、八条宮智仁親王の開城の斡旋を拒絶。断固徹底抗戦の構えを見せる。がしかし、八条宮智仁親王の顔は潰さない。「古今和歌集の奥義を書簡で譲り渡す」(場所は上記画像の心種園)と言う。

だが私はここに、彼の謀略的な「目から鼻へ抜ける才能」を感じてしまう。もちろん急ぎの事で、そのようにした。という理由はあるだろうが、もう一度説明書きの掲示板を見ていただきたい。

そう、代々「秘事口伝」なのである。何故秘事口伝なのか?それは、文書に出来ない理由があったからである。書簡と書物だけ渡されても、おそらく以後は、箱伝授という形式だけの伝承となるのは必至である。

すなわち、「藤孝(幽斎)の戦死=天皇家代々の国家事業の失敗」となる。

もちろん、これに相手(天皇家や朝廷)が気付くかどうか?また気付いても、都(京都)近くの丹後(京都府北部)にいる15000の兵である💦恐れて何も出来ない(見殺しにされる)可能性も考えられる…

これは藤孝(幽斎)一世一代の大博打と言えただろう。ただの文化人では出来ない仕事である。

それに対し、後陽成天皇は気付き、行動した!今度は大納言・三条西実条と、中納言・烏丸光広に勅令(天皇の命令)を持って使わし、停戦・開城を命令したのである。

ここに来て藤孝(幽斎)は勅令に従う(逆らえば逆賊になるので、従うという選択しかない)。これにより彼は見事に自らの命を守り、武士の面子を守り、多くの兵の命を守り、古今和歌集の秘伝も守ったのである!

もちろん守れなかったものもある。田辺城である…この戦術的敗北に関しては、息子忠興としばらく疎遠になるなど影響はあったが、それだけの事である。

また、この戦の根元たる「関ヶ原の戦い」に関しては、田辺城開城の二日後、西軍の敗北で幕を下ろすことになる。もちろんの事だが、田辺城包囲軍(15000人)が籠城を50余日も許した(ヒヨコ🐤の敵将達がビビった)為に、関ヶ原の西軍に合流出来なかった事は、西軍敗北の要因の一つであろう。まさに見事なタイミングである。

大局的(戦略的)に見れば、藤孝(幽斎)の一世一代の大博打は、まさに大金星だったと言える✨彼の働き(教養と謀略)は、15000人の兵力を関ヶ原で破ったのに近い価値がある。

彼はこの後、豊前に加増(小倉藩39万9000石)となった息子、細川忠興について行く事はせず、余生を京都・吉田で過ごす。彼の望む文化人らしい暮らしをしたことだろう。

細川藤孝(幽斎)
1610年8月20日没、享年77歳

私個人的には、彼の人生で大河ドラマを作ると面白いだろうと思うが?丹後地方(京都府北部)の方々、いかがだろうか?ぜひ、盛り上げていただきたいものである。