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卒業旅行でアウシュヴィッツに行ってきました


はじめまして。先日Kokoroインターン4期生としての6ヶ月間の活動を終えた、ときです。私は大学生活最後の春休みに、ポーランド国立アウシュビッツ・ビルケナウ博物館を訪れました。幸運にも、1997年から唯一の日本語での公認ガイドをしている中谷剛さんに案内していただくことができました。2023年2月24日のインターン4期生企画イベント第1弾「オンラインれきしトーク〜18〜25歳集まれ!一緒に歴史について考えよう〜」でもお話しする機会をいただきましたが、noteでもその時考えたことを記録しておきたいと思います。

アウシュヴィッツ・ビルケナウとは?

アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所は、ポーランド・オシフィエンチム郊外に1940年に設立された、ナチ・ドイツの強制収容所でした。1942年からは最大の「絶滅収容所」として機能し、多くの人々が収容され、虐殺されました。ここで約110万人の人々が殺害されたと推定されています。その内訳は、100万人のユダヤ人、7万~7万5千人のポーランド人、2万1千人のシンティ・ロマ、1万4千人のソ連軍捕虜、1万~1万5千人のその他の人々(刑事犯、エホバの証人、同性愛者など)と言われています。
1945年1月27日、ソ連軍によって解放されました。この日は現在「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー(International Holocaust Remembrance Day)」に制定されています。 1947年、この地にポーランド国立アウシュビッツ・ビルケナウ博物館が設立されました。この博物館は「記憶の場」でもあり、世界遺産にも認定されています。現在では、世界中から毎年200万人以上の人々が訪れます。日本でも知名度は高く、大学生の友達に話しても、「いいなぁ、私もいつか行ってみたい」というリアクションが1番多い気がします。

出典 『追悼の場Auschwitz-Birkenau案内書(2018)』
『アウシュヴィッツ・ビルケナウその歴史と今(2019)』
ポーランド国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館(どちらも現地で購入したハンドブックで、日本語版がありました。)

アウシュヴィッツ第1収容所

ツアーの参加者も、まず最初にこの門をくぐります。

第1収容所の入り口には、よく知られている「働けば自由になれるArbeit macht frei」と書かれた門があります。もちろんこの言葉が実現することはありませんでした。第1収容所は、このようなレンガづくりの建物の中に展示品やパネルがあり、博物館としての機能を果たしています。また、独房や有刺鉄線、銃殺刑が行われた「死の壁」、絞首台、ガス室の跡などもそのまま残されています。

第1収容所

ビルケナウ第2収容所

ビルケナウ第2収容所には、当時収容者が住む木造のバラックが立ち並んでいました。アンネ・フランクもここに生きていました。現在はだだっ広い野原に、証拠隠滅のため爆破されたバラックやガス室の残骸が残っています。犠牲者の大半がここに建てられたガス室で殺害されたことから、展示を設けず解放当時のまま残されています。

第2収容所
爆破されたガス室

ガス室へと続く鉄道

ビルケナウには、ガス室へと続く長い引き込み線があります。ここには、当時ユダヤ人を移送するのに使われた貨車が1台置かれています。この貨車の中に人が詰め込まれてどこに向かうかもわからず何日も移送され、降ろされたらすぐに怒号がとび、「労働可能か」によって選別され、不可能と判断された人はすぐにガス室に送られて殺害されました。ここで「労働可能」と判断されて生き延びた人も、過酷な環境で次々に命を落としました。展示の中にあった写真では、この「選別」の後、移送されてきた人々から奪った荷物の山が見えます。
人間の価値を「生産性」や「労働可能性」で判断する優生学的な言説は、現代の日本でもみられますが、その先にあるのが特定の集団を排除してもいい、命を奪ってもいいという思想、政策であるということを忘れてはならないと思いました。

ビルケナウに残された、強制連行した人々を乗せた貨車
ビルケナウへと続く長い引き込み線。ヨーロッパ各地のゲットーから移送された人々の終着点は、ここでした。
第1収容所の展示にあった写真。貨車が到着すると、「選別」が行われました。

意外な第一印象

最初の印象は、語弊があるかもしれませんが、思っていたような荒涼としたような、荒んだ雰囲気ではないということでした。それはもちろんよく晴れて暖かかったこの日の天候もあると思いますし、博物館を訪れる人々で思っていたよりも賑わっていたということもあると思います。明るいし、れんがの建物も、ホストファミリーの家の納屋みたいでした。
中谷さんが「並木道が、大学のキャンパスのようにきれいですよね。夏は緑が茂ってとてもきれいです。この場所でも、環境に配慮して緑を植えるという発想があったということです。当時のドイツが高い文化的水準を持っていたことは確かで、そういう国でなぜこういうことが起こってしまったのか、を考えなくてはいけない」というようなお話をされていたのが、強く印象に残っています。こういった、しっかりした煉瓦造りの建物と緑のある並木道という人間的な要素がある場所で、ガス室と大量殺戮が行われたという矛盾が最初に印象に残りました。ヴァンゼー会議の映画を見た時も、きれいな建物の中で優雅にご飯を食べながらの会議で凄惨な結末が決まっていくことに空恐ろしさがありましたが、同じような怖さを感じました。

並木道を歩く日本語ガイドの中谷さん

アウシュヴィッツの現在の様子についてご紹介したところで、続いて特に印象に残った展示を2つご紹介します。

写真の見方

まず印象に残ったのは、展示の中で見た二つの写真です。
ひとつめは、ナチス側が収容所が絶滅収容所であるという実態を隠すために撮影した写真ですが、収容者によって構成された音楽隊というのは本当に存在していて、強制労働に行く時、戻る時の行進曲などを演奏していたそうです。今見ると、第一印象でも感じた矛盾と空恐ろしさを感じる写真でもありますが、当時の人々が見たらどう思っていたのでしょうか。
一方で、その下がゾンダーコマンドという、ユダヤ人の中で死体の処理などを担当させられていた特殊部隊の人が命懸けで撮影した、死体が燃やされる様子の写真です。写真やメディアを見る際は、誰がどんな意図で撮ったのかを知ることも大事、という中谷さんの解説は、普遍的な教訓だと思いました。


アウシュヴィッツの音楽隊についての展示。(ガイドはさらに多言語で提供されていますが、展示の言語は、ポーランド語・英語・ヘブライ語でした)
ゾンダーコマンドが撮影した写真

遺品と人間の尊厳

いちばん印象に残った展示は、収容した人々から奪った大量の遺品です。靴以外にも、スーツケース、メガネや髪の毛、義足、ユダヤ教徒の方々が祈りの際に使う布など、あらゆるものが奪われました。ナチスは敗戦が濃厚になると証拠隠滅を図って燃やしたりしたので、ここに残されているのはきっとほんの一部に過ぎません。それでも、600万人が亡くなった、ここで100万人が殺された、という現実味のない数字の一人ひとりに生活があったこと、また、本当に人間として扱われず、全てを搾取しようとしていたことが特に感じられる展示で、心に迫りました。
特に靴が印象的だったのは、ハイヒールや素敵な柄の靴がたくさんあって、強制連行される時にどのような思いでその靴を選んだのか、どれだけ非人間的な扱いをされても誇りや人間としての尊厳を失わない、という悲痛な強い意志が感じられたからだと思います。


次に、実際に訪れて考えたことや、自分の中で変わったことをお話しします。

歴史が語り継がれていることは当たり前ではない

破壊されたガス室や、燃やされた資料や遺品などを見て感じたことは、歴史がこのように記憶され続けていることは当たり前ではないということです。また、過去との向き合い方でよく参考にされるドイツも、決してすぐにそれが実現したわけではなく、現在も取り組みが続いています。それでも歴史修正主義的な言説は無くなりません。アウシュヴィッツでも現在も修復作業が行われていたり、ユダヤ人以外の同性愛者やシンティ・ロマなどの犠牲者については近年ようやく研究や議論が進んできてそれに伴って展示も変わっていったり、歴史の継承は多くの人々の不断の努力によって成り立っていること、まだ取り組みが続いていることを感じました。

崩れないよう補強された建物
奥の白いビニールハウスの中は修復中です

主体的に考え続けたい

中谷さんは、展示について説明するだけではなくて、日本の現代の問題と結びつけて、ご自身が考えていることを共有した上で、参加者も一緒に考えるようなガイドをしてくださいました。展示について説明する時も、「このミュージアムではこういう伝え方をしているけれど、それに対しても批判的な見方を持って自分なりに考えて欲しい」という伝え方をされていました。
辛い現実や、ものごとの複雑さに向き合うのがしんどい時、「こんなことを考えて何になるんだろう」「考えずに目を背けていればもっ楽に生きられるかも」と思ってしまうことがあるけれど、ひとりひとりが批判的に、主体的に考え続けることには必ず意味があると、大切だと改めて思いました。
このあと旅行したパリはひとり旅だったので、スリやひったくりが不安になって「パリ スリ 対策」と日本語で検索すると、日本語でも「ロマの少女に注意しましょう」などの文言がたくさんありました。その人は親切心であってもこうした忌避のイメージや偏見が再生産され、根強く残っていった先に、差別へ、暴力へ、殺害へ、と急進化していき、この地で起こった大量殺戮に至ってしまったことは、私たちにも人ごとではありません。何かの属性を持った人に対して「意外だな」「〜なのにすごい」などと思う時、あるいは「『彼ら』の問題」「自分には関係ない」と距離取る時、たとえそれがポジティブなものだったとしても、自分の中に無意識の差別や偏見、私たち/彼らの線引きがあります。アウシュヴィッツを訪れてから、そういった自分に敏感になったと感じます。

私たちにできること

もうひとつこの地を訪れて感じたことは、「私は犠牲者の苦しみを決して理解できない」ということと、「それでも歴史を知るためにできることはなんだろう」ということです。これまでホロコーストの歴史を勉強していても、「自分はそんなことしない」「なぜこんなことが起こってしまったのか」とどこか距離をとっていたところがありました。でも、結局自分はいくら本や映画や授業で学んでもここで起きたことを想像できていなかったし、この地に来てもなお、当事者やその家族の苦しみを共有することができないと実感しました。ここで亡くなった方々の声を聞けることは決してありません。
私たちも、日々ニュースで「誰それが亡くなった」「戦争が起きている」という文字列を目にしますが、その文字や数字の先に何があるのか、日常の中でしっかりと立ち止まって向き合って考えることは難しいと思います。当時のドイツ人が、「ユダヤ人が殺されているらしい」という噂を聞いていたとしても、その文字列からこの地で起きていたことを想像できなかったら、ユダヤ人を「彼ら」として自分とは関係ないと思っていたとしたら、日々の生活の中で流してしまったのではないか。自分がその時代のヨーロッパに暮らしていて、隣人のユダヤ人一家が突然いなくなったとして、この場所が想像できただろうか。けれども、そうして人の命が軽くなった先にホロコーストがあったことは、忘れてはいけないと改めて思いました。
もちろんすべての世界中の悲しい、ひどい出来事を自分ごととして捉えるのは難しいし、全てに同じように心を痛めることもできません。でも、無意識に自分の中で「私たち」と「彼ら」にわけて、心を痛めない対象を決めてしまっていることを自覚して、当事者と同じように感じられないとしても、数字やニュースの文字列の先に何があるのか?考え続けたいと思いました。
私が訪問した日も、イスラエルの国旗を掲げて輪になり、祈りの歌を歌うユダヤ人の若者の集団がいました。彼らにとっては、ここに親戚や祖父母の遺灰が眠っているかもしれない場所です。

ビルケナウの前で祈りの歌を歌うイスラエルの若者たち

その時代を知らない私たちの世代は、彼らと同じように感じて、ここで亡くなった人の苦しみを本当に理解することはできないけれど、記念碑や博物館を訪れたり映画を見たり本を読んだり授業をとったりイベントに参加したり、いろいろなアプローチで歴史を知ろうとし続けること、考え続けることが私にできることだと、強く思いました。これはもちろんホロコーストの歴史に限ったことではなく、日本の戦争や植民地支配の歴史についても、知ろうとし続けたいと、そしてそれには意味があるのだと、改めて感じることができました。

Kokoroの活動


日常の中にそうして考えるきっかけや場所を作るための実践が、記念碑や記憶の場であり、Kokoroが行なっている教育活動もそのひとつだと思います。インターンとしての活動は修了し社会人になりますが、今度は1ファンとして関わり続けたいです。次のイベントは、こちらです!

Kokoroでインターンをしてみたい方は、ぜひこちらの説明会にご参加ください。