“ロッキーのモデル”はロッキーに非ず。「チャンプ」 (2022年映画記録 4)
第49回アカデミー作品賞受賞作品「ロッキー」。
うだつの上がらないボクサーが世界チャンピオンの対戦相手となり、努力の末に大健闘をみせ、試合には敗れるものの人々の喝采と“永遠の愛”を勝ち取る…。
この叙情的で希望に溢れた物語は、俺を含め世界中の人々の胸を打った。
さて、映画ファン或いはボクシングファンの方々なら、「ロッキー」の物語が着想されるに至った出来事をよくご存知と思われる。
主演兼脚本家のシルヴェスター・スタローン氏は偶然テレビで鑑賞した“ある試合”の展開に感銘を受け、一気に「ロッキー」初稿を書き上げたという。
それはチャック・ウェプナー氏がモハメド・アリ氏と戦い、善戦の末に敗北した1975年の試合…。
「チャンプ」/「チャック 〜“ロッキー”になった男〜」※で描かれるのは、その試合の立役者たるチャック氏の激動の半生である。
本作で描かれるのは「ロッキー」のような清々しく華々しい栄光、いわゆるアメリカンドリームではない。鑑賞中に俺の胸を貫いたのは感動ではなく、目を背けたい程の痛々しさだった。
金銭・名声・酒・薬に溺れて家族の愛を手放すチャックの姿は、いわゆる“破滅型主人公”全般によく見られる姿だろう。
しかし本作の痛々しさのキモは、そういった破滅・享楽的な部分の外にある。
それは当人でしか理解し得ない感覚──“架空の人物と自己の同一視”によって起こっているのではないだろうか。
そもそも、“チャック・ウェプナーはロッキー・バルボアのモデルとなった人物”という表現には、誇張が含まれている。「ロッキー」はチャックの人生を伝記化した作品ではなく、“当て馬にされたボクサーが一矢報いた”という要素を抽出した作品であるためだ。
即ち、あくまでもチャックは「ロッキー」の一要素でしかない。ロッキー・バルボアに正式なモデルが居るとしたら、それは主演兼脚本家であるスタローン自身という見方が正しいと思われる。
“モハメド・アリに善戦した男”として正当な賞賛を受けていたチャックは、やがて“ロッキーのモデル”という言葉に取り憑かれる。
彼は“ロッキーのモデル”としての賞賛に酔いしれるうちに、次第に映画のヒーローと自身を混同してしまうのだ。
チャックはTV中継越しに「ロッキー」のアカデミー作品賞獲得の瞬間を見て、自身が受賞したかの如く歓喜する。その結果“俺も祝福してもらえる!”と勝手に舞い上がり、強引に親戚の元を訪れるも、冷たく突き放されてしまう…。
この場面は本作の白眉、チャックの増長と周囲の冷やかさのギャップを象徴する哀しいシーンである。
当然だ。彼はロッキーではない。彼はチャック・ウェプナー以外の何者でもないのだ。
本作では、そんなチャックに手を差し伸べるスタローンの姿も描かれている。
若かりし日のスタローンを演じた俳優はモーガン・スペクター。どことなくヒュー・ジャックマンに似た風貌の俳優だが、作中では上手く若い頃のスタローンの雰囲気に寄せているように思えた。
作中、チャックはスタローンと接触を試み、“元ネタ”として媚びと恩を売る。
義理堅いスタローンは「ロッキー2」への出演オーディションにチャックを招聘するが、オーディションを軽んじていたチャックは台詞をまともに言うこともできず、哀れにも絶好のチャンスを逃してしまう…。
そして物語のクライマックス。チャックが薬物事件で収監された後もスタローンは彼を見限ることはなく、刑務所での映画撮影※の合間に面会を望む。
しかし、チャックはスタローンの面会を断り、黙々と刑期を務める道を歩む。ロッキーという偶像からの決別を誓い、遂に自らの人生を取り戻すのであった。
繰り返すようだが、彼はロッキーではない。
彼はチャック・ウェプナー。
絶対王者であるモハメド・アリに善戦し、娘からも多くのファンからも愛された立派なボクサー:チャック・ウェプナー以外の何者でもないのだ。
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