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小説『普痛』

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普通の人間の話。
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小説 『普痛』(完)

小説 『普痛』(完)

※前回十三 東口のターミナルは平日だというのに忙しなく人々が流れていた。体のどこがぶつかろうと、それが日常のように足早にその場から消えていく。前まではこの異様な流れが嫌いだった。自分だけが浮いているような、取り残されているような気がした。今でも嫌いなのだろうか。判らない。楽しくはないが、ぶつかることは少なくなった。
 あの日を境に『燿子』も『僕』も、俺の前に現れることはなくなった。変わったところが

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小説 『普痛』(十二)

小説 『普痛』(十二)

※前回十二 目を覚ますと日は落ちていた。布団で作る温もった暗闇ではない暗闇が部屋に敷き詰められていた。外に見える街灯が窓に打つ幾つかの線を光らせた。
 雨が降っているという事実に私は胸を撫で下ろした。私が彼女らに謝るためにはどうしても必要なモノのように感じていた。
 着替えると尻ポケットに小銭を突っ込み、玄関前の傘に見送られる形で家を出た。
 

 いつしか彼女に会った日をなぞりながら公園までの道

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小説 『普通』(十一)

小説 『普通』(十一)

※前回十一
 嘔吐くことで私は現実の、私の布団で目覚めることができたようだった。
 体重を載せた両手がまたズキズキと傷んだ。肺に入る湿気った空気がカビ臭い。窓に映るのはいつか彼女が楽しんだ柔かな雨だった。自分が酷く汗を掻いていることに気づいた。濡れたシャツの胸元が一部赤く滲んでいるのが確認できた。私は酷く焦り、引きちぎるような力で胸元を引っ張った。が、どうということはなくニキビが一つ潰れていただけ

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小説 『普痛』(十)

小説 『普痛』(十)

※前回
十 夢を見た。
 いつかの続きだった。見過ごした人に向けたドラマのあらすじのように、私が私の部屋に入るシーンからだった。観客は私しかいないのに律儀なものだと思い、眺めた。私は洗面台にかけ込んで顔を見たんだった。何週にも引っ張られたシーンの続きは私を驚かせるには十分すぎる山場であった。
 洗面台に映った顔は私の泣き顔ではなかった。
 彼女の、『燿子』の顔が鏡に映っていた。
 髪の毛の長さも、

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小説 『普痛』(九)

小説 『普痛』(九)

※前回九 私は燿子について一つ勘違いをしていた。
 それは彼女が、存外、私の想像していたよりもずっと普通の女性であったことだった。燿子と初めて会った時、私は、私の世界が良い意味で壊れていくのを感じていた。そしてそれは彼女に会う度におとずれるものだと思っていた。しかし、一度、二度と会う度に彼女と交わす会話の一つ一つがどれも凡庸であることに気づいた。今日はいい天気だ、缶コーヒーが美味しかった、昨日見た

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小説 『普痛』(八)

小説 『普痛』(八)

※前回八
 その日はスズキと会う約束をしていた。会おう会おうとは言っていたが、あっちのタイミングが悪く、結局、会社を辞めてから一ヶ月後の九月末の平日に会うことになった。

 スズキと落ち追うまでも、やはり鏡やガラスを避けて過ごした。

 午前中の空いた時間、また公園まで行ってみようかと思ったが彼女の顔を思い出すと行く気が萎んだ。話したくはあっても、またあの面倒なやりとりを考えると少し足が重くなった

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小説 『普痛』(七)

小説 『普痛』(七)

※前回七 事件に幕を降ろしたのは本の中の探偵だった。悔しさよりも強い充実感が胸の内に満ちた。が、
「いやあ、わからなかったでしょ? 悔しいけどね、うん、うん」悔しさを増大させる声が耳に障った。
「八割は当たってました。自分がそうだったからってやめて下さいよ」
「残り二割を当てないとさ。その二割を隠す戦いなんだから、推理小説ってのは」また殿様笑いをする。もう少し上品に笑えば男もいい顔するだろうになん

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小説 『普痛』(六)

小説 『普痛』(六)

※前回六 夢を見た。
 会社を辞めてから時折見る、同じ夢だ。
 夜のコンビニで手持ちタイプのアイスを買って、歩きながら食べていた。深夜だったのか辺りに人はいなく、車は一台も通っていなかった。世界に音が無いのは夢だからなのか、それとも本当に音がしないだけなのかは判らなかった。
 よくよく自分を見れば前の会社の作業着を着ていた。背中には大学時代から使っていた安物のリュックサックを背負っている。会社の帰

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小説 『普痛』(五)

小説 『普痛』(五)

※前回五 トイレに駆け込んだ。胃から熱いものがこみ上がってきて、我慢できずに便器に吐いた。口の中が酸っぱくなって唾液が止まらない。息が荒くなる。便器の縁に両手を置いて動悸が収まるのを待った。吐しゃ物で汚された水面が便器の中から私を覗きこむ。
 殺したはずのあいつが気持ち悪い笑顔で私を見ていた。
 職員と話したのは間違いなく私ではなかった。相手をよいしょして、当たり障りのない会話をしていた。その時、

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小説 『普痛』(四)

小説 『普痛』(四)

※前回四 九月も終わる頃、職安に足を運んだ。それはやはり、私が自堕落な生活に溺れずに自分の実態を取り戻すための行為であった。いつまでも散歩をするだけの生活を送ることも悪くはない。が、それらの毎日を送る私が、主観としては正しい選択をしている私が、世界観に、つまり世間に再び受け入れられるかどうかはまた別の問題のように思えたのだ。
 電車に揺られて目的の駅まで出る。電車に乗るのも随分久しぶりだった。
 

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小説 『普痛』(三)

小説 『普痛』(三)

※前回三 九月に入るとアパートを引き払って地元に戻った。『僕』を殺し、会社を辞めた今、去る理由は特に無かったが残る理由も別段無かった。
 大した荷物も無いから引っ越しも楽だとタカを括っていたのだが、これが予想外に時間がかかった。特に冷蔵庫やら洗濯機やらの大物が手間だった。それぞれのアパートを何往復もして、レンタルした車のガソリン代がやけに高くついた。
 そんなだから地元に戻るまでの数日間はバタバタ

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小説 『普痛』(ニ)

小説 『普痛』(ニ)

※前回二 〈計画〉が実態を持ってからは早かった。会社を辞める旨を上司に報告した。いきなりだと話がもつれることは想像ができたから、パートのおばさんや若手の先輩社員に相談することで少しずつ外堀を埋めていった。会社を辞めるまでの半年間、じっくり時間をかけた。そういう〈計画〉だった。
〈計画〉には『僕』が役にたった。
 病院での一件後、私はひょっとしたら『僕』という存在はあの時に消えたのではないかと思っ

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小説 『普痛』(一)

小説 『普痛』(一)

はじめに※この小説は某公募に応募し、三次選考で落選した作品です。
処女作(賞に応募した初めての小説という意味で)で至らないところばかりですが、今後の作品に何か活かせればいいなと思い、ここにupしました。
少しでも楽しんで、また感想をいただければ幸いです。

一 八月二十五日
 私は人を殺した。
 誕生日から三日後の朝だった。
 目を覚ますと男が部屋の中で死んでいた。殺してから一日も経っていないのに

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