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「最後まですらすらと読んだ」という悪口。

これだから言葉は難しい

詩人の平田俊子さんは、送られてきた作家仲間のBさんの
エッセイ集に「最後まですらすらと読んだ」という趣旨の
感想を書いて送った
(先日の『日本経済新聞』朝刊)。
しばらくして、平田さんはある集まりに出席する。
そのとき、Bさんも会場内にいるのに気付いてはいたが、
帰り際、Bさんはようやくつかつかと近づいてきたかと思うと
平田さんに、こう言ったのである。
「最後まですらすらと読んだとは何たるちあサンタルチア」。
少しばかり古風な表現だが、
平田さんの言葉がBさんの気に障ったのは明らかだ。

「すらすら読まれる文章がすらすら書けることはない。
すらすら読める文章のためには、すらすらいかない時間が
必要だ」と平田さんは書くが、
確かに同じ言葉でも、その人の言語感覚によって受け取り方は違ってくる。
だから言葉には気を遣わずにいられない。
「これだから言葉は難しい」とは平田さんの言である。

noteの言葉選び

noteのコメントにもいろんなスタイルがある。
丁寧な挨拶から始められる方もいらっしゃるが、
私は、ほんの一言も含め、浮かんだ思いをそのままポンと書き送る
(批判や揶揄は不適当と思うが、理由は長くなるのでここでは書かない)。
そのときの気持ちは何でもよいと思うのだが、
それは私がコメントを受ける場合の話だ。

一度、何らかのルールについてのnoteに、その内容とは全く関係のない
自分自身のルールについてコメントした際、
「なぜそんなことを書くのか意味が分からない」的なコメントを
いただいてから、なるべくそのnoteの内容を踏まえて
コメントするように努めている。しかし、それでも発想重視で、
しかもときにキャッチフレーズ的なコメントや俳句も送るから
「?」と思われている方もいらっしゃるかもしれない。
それどころか「noteの内容とは関係ないのですが」
という一言を付けてそのとき浮かんだことを
優先するのだから始末におえない。

「最後まですらすらと読んだ」の危険。

さて、再び平田さんの話に戻るのだが、彼女は先のエッセイで
「いつも堅苦しい文章を書く人なのに、その本は最後まですらすらと
気持ちよく読めた」と書かれている。ということは、
この「すらすらと」という表現には
「いつもは堅苦しくて読み難い文章なのに今回は違った」という
意識が働いていたのではないか、という推測が成り立つ。

実は平田さんは「『すらすら』に似たニュアンスの言葉に
「一気」を挙げ、『何も考えずにあっという間に読み通せるから時間つぶしにはなるよ。あとに何も残らないけどね。ははは』。そういう意味を込めて『一気』を使う人もいるのではないか」とも書かれてもいる。
しかし、これは「すらすら」にも言えるのではないか。

「すらすら」には「途中でつかえたり速力が鈍ったりしないで順調にすすむ
(行われる)様子」(新明解国語辞典/第三版)という意味がある。
一見、よいことのようだが、
書かれた内容になるほどと合点し、心が動かされた場合、
人はそのまま読み進まず、一度心のなかで反芻したり、
前に戻ってもう一度その箇所を読み直したりするものではないか。

したがって、この「すらすら」には、平田さんの意図に関わらず、
「ほとんど心が動くことはなかった」
というニュアンスが含まれる危険性がある。

私の友人が、あるドキュメンタリーの賞に選ばれて出版することになり、
大学時代の私のことも書かれているから、
「川中の登場場面について内容確認してほしい」ということで、
原稿が送られてきた。このとき返信に付けるメッセージに
私が「すらすらと読めたよ」と書く選択肢は絶対にない。

私はいま一人で仕事をする時間が大半なので、
noteのコメントは“感想を伝える”行為の大半を占める。
したがって、この平田さんのエッセイを読んで、
すぐにnoteのことが浮かんだ。
そのときの発想重視の私も、ときに一度送ったコメントを
削除し書き直して送ることもあるのだが、
改めて一言がもたらす影響を考えて、感想を伝えたい。

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