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大好きな祖母の、たくさんある好きなところの一つ

私が唯一、気が合う家族は、今は天国にいる祖母なのだが、私を育ててくれた大正生まれの祖母はとても変わっていた。
大好きだったところはたくさんありすぎて私の人生の余暇すべてを使っても書ききれないが、今思い出す好きなところは、私に「早く結婚したら」とも、「子供を産みなさい」とも一度も言わなかったことだった。
「結婚しなさい」でなく「したらどう?」「結婚っていいよ」すら言わなかったし、「子供を産むのもいいよ」さえも言わなかった。
「女の幸せ」というワードはおそらく祖母の頭になかったのではないかと思う。
ちなみに祖父母は仲が良かったし、双子の息子を産んで幸せだったと思うし、91歳の最期の最期まで、認知に何の問題もなかったので、彼女はクリアな頭で判断してそういう言葉を発していなかった。

我が家が経済的にとてもピンチだった時期に大学院に進学したいと言う私を、滅多に私の人生に登場してこない親戚の叔母や叔父が「女なんだから行かなくて良い」と反対し、逆に彼らは私の弟に対して口を揃えて「男だから大学くらい出ろ」と言っていたが、祖父母ともに、そんなことを一度も言わなかった。
そして、私が「受かったよ」と伝えた時、「格好ええな!」と言って喜んでくれた。何故か祖母は泣いていた。この時以外で祖母の涙を見たことがない。
多分学歴がどうこうという発想ではなく、色んなことで家が大変だった時に、私がしんどい中でやりたいことを貫いたこと、頑張ったことを褒めてくれていた。私は祖母が喜んでくれたことが嬉しくて、祖母の前でだけポロポロ泣いた。祖母の前でだけはいつも素直でいれた。
そして格好悪いことに、結局色々あって中退しているんだが、その選択すら特に何も言わずに「そうか、そうか。また何か探せばいいよ、何でもできるよ」と軽く笑っていた。
その後の長年に渡る奨学金の返済も、祖母が喜んでくれたこの時のことを思い出すと、ちっとも苦ではなかった。

私と同い年の従妹が結婚して子供を産んで「おばあちゃんにひ孫ができたね」とみんなが喜んでいた中、当人の祖母はそれほど喜んでいなかったのを時々思い出して笑いそうになる。
もちろんニコニコしていたし、楽しそうにしていたが私にだけはそれは分かった。全然喜んでいなくて他人事だったこと。
「ひ孫なんて、もうそんなに会わないもん。実感がない。それより、のりまきちゃん、今晩また豚汁作ろうか?」と私にニヤリと笑いながらそうこぼしていた。
シビアやなあ。そういうところ、私に似ている。
いや、私が祖母に似ているのか。
お互いそう思っていたから、多分私は祖母にとって特別な孫だったし(現にひいきされていた)、私も祖母のことは家族の中で特別な存在だった(私も祖母をひいきしていた)。
私の母と祖母はそりが合わず、母いわく嫁姑の仲は最悪の渡る世間は鬼ばかり状態だったが、私も母とはそりが合わないから、そうなったのは仕方ないと予想するし、申し訳ないが100対0で私は祖母の味方であり、これが今日に至るまでの私と母との関係にマリアナ海溝並みに深い溝を残しているとしても、100対0の勝負の結末は揺るがない。それくらい私と祖母は、特別に強い絆がある。

私が親戚中から「おばあちゃんの世話ばかりしてたらお嫁に行き遅れるよ」「早く子供を産んでおばあちゃんにひ孫を見せてあげたら?最高のおばあちゃん孝行できるよ」「おばあちゃんを安心させてあげたら」と言われ続けていて(40歳を過ぎた頃からパッタリと言われなくなって心底ホッとしているし、年をとって良かったことの数少ない大きな一つだ)、年に1度ひ孫を見せることよりももっと、祖母と最高に楽しい時間を過ごしていることを知らない奴らにごちゃごちゃ言われたくないとうんざりしていた。
毎週木曜は、仕事が終わると祖母の家に帰り、2人で晩ご飯を食べて、嵐が出ているテレビを見て、風呂に入って、みかんを食べたりスイカを食べたりして泊まる日で、金曜は、祖母が作ったちゃんとした朝ごはんを唯一食べる曜日でもあった。祖母が亡くなる前の週まで毎週二人だけでのんびりと最高に楽しく安心できる時間を過ごしていた。私が好きでそうしていたし、私が世話をしていたのではなく祖母が私の世話をしていたのだ、情けない話だが。
だから、何にも関わっていないくせにしょうもないことを言う奴らに対して「黙れお前ら」と思っていた。

だけど、祖母だけは知っていた。
私がそういう言葉にうんざりしている内側の奥の部分で、いつも少しだけ傷付いているのを。気にしないことと傷付かないことは違う。子供を産まない人生を選択することは、親孝行もおばあちゃん孝行もできていないことだと私自身がやっぱりどこかでそう思っていることを、祖母は分かっていたと思う。
だからいつも、「のりまきちゃんは立派や」「のりまきちゃんはえらい」「格好いいねえ」「すごいなあ」「自分の好きなことをやれるのは何よりいいねぇ」「仕事も頑張ってしんどいやろうに。ありがとうねえ」「ばあちゃん、嬉しいわあ」とやたらと褒め続けたり喜んでくれた。
私が一人で海外を旅する時は祖母はいつも心配して無事を毎日祈ってくれていたらしいが、一度も旅に出ることを反対はしなかった。
これも「女が一人で海外なんて…」とさんざんいろんな人に嫌味(と言うつもりもなく無意識で言っている人も多かったが)を言われたが、祖母は私の旅の土産話をいつも楽しそうに聞いていた。
「いいねえ、いいねえ」「楽しめたんやねえ、良かったねえ」とニコニコしていた。

祖母も、昔、一人で東北を旅したことがあったらしく、その昔話をする時の目はとても輝いていた。多分戦後のあの時代に、祖母のようなおてんばで少し変わっている女性は世の中から相当浮いていたと思う。白黒の祖母の写真を見ても、おしゃれ度合いが、女性のグループで写っていても一人だけとびぬけてけったいな格好をしている。着物で岩山にしがみついてピースサイン(人差し指と中指をくっつけるタイプの)をしていたり、むちゃくちゃでかいサングラスをしてまだ幼児の私の父と叔父(双子だった)を両脇に抱えていたり、謎なシチュエーションの写真が多い。この時代にこんな人、変だったろうなあと思えて仕方ない。
そんな祖母は、「自分が生きてきた戦時中や戦後の時代の女の人は…」という話をしてくれることはあったが、私に対して、一度も、女性はこうあるべきということを口にしたことはない。
私の知っている年上の人間の中で唯一、「女だから」「女らしく」という言葉を口にしたのを聞いたことがない人。それが祖母だ。
ちなみに祖母は森喜朗と同じく石川県出身で、総理大臣の頃から、祖母は憎々しく「森」と呼んでいたが、大正生まれだったから、森よりも祖母の方が大先輩である。今回の森の発言うんぬんで、私自身フェミニストとして色々山のように思うことはあるがそれは今置いといて、「年寄りだからああいう女性蔑視は仕方ない」という発想も、偏見であり、加齢による脳の機能の低下は仕方ないとしても個人差があると思う。
森より先輩の祖母は、きっと年寄りを一括りにして馬鹿にするなと心の中で怒ると思う。
社会は変わっていくものだから、森のようにその変化についていけない人もいるだろうが、祖母なら、どの時代でも「こうあるべき」という偏った考えを持たずに柔軟にスイスイっと自由に生きて、岩山で笑ってピースする生き方ができるんだろうなあと思う。
そういう祖母のことが、亡くなって今日で7年経つが、大好きで、格好良くて、誇らしい。
その気持ちは今も少しも薄れずに、そう思っている。


下の記事を読んで、世界では、社会がこんなにも変わってきていることを痛感した。なんとなく祖母に読ませたいなと思った。おばあちゃんなら絶対「格好いいねぇ」と言うと思う。

写真はメキシコのフリーダ・カーロの青い家のオフレンダ(祭壇)。祖母の仏壇もこれくらい派手にしてあげたい気持ち。

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