風の歌を聴け/村上春樹 考察2
前回に引き続き考察していきたいと思います‼︎
僕にとって文章を書くのはひどく苦痛な作業である…それにもかかわらず、文章を書くことは楽しい作業でもある。生きることの困難さに比べ、それに意味をつけるのはあまりにも簡単だからだ。
文章を書いたことのある方、特に小説を書いたことのある方なら、深く頷ける話であると思います。私も趣味で小説を書きますが、今まで数年かけて書いてきた数々の文章の中に、実は一つも納得いくものがありません…でも書くのはすごく楽しいのです。さらに生きるのって不都合で自分の思い通りにならないことの方が多いけど、文章では簡単に自分の意のままに世界を創造出来る。と。その事に、主人公は十代の頃に気が付いて、一週間ばかり口も聞けないほど驚いたと書いていますね。
それが落とし穴だと気付いたのは、不幸なことにずっと後だった。
つまり文章で自分の世界を創造することは、そんなに簡単なことじゃなかったんでしょうか。さらに主人公は、ノートの真ん中に一本の線を引いて、左側にその間に得たもの、右側に失ったもの、踏みにじったもの、見捨てたり犠牲にしたものを書いたが、最後まで書き通すことが出来なかったと書かれていて、なにやら自己分析みたいなことをやっていますね。就職活動の際に経験されたことのある方は分かりますよね。けっこう苦痛なんです。だって誰しも良いことだけじゃなく目を背けたくなる恥ずかしいことや、誰かを傷つけてのちに胸を痛めるような出来事だってあると思います。そうゆうことを自分の中から根掘り葉掘り引き出していくのは、途中で挫けそうになりますよね。
でも自分の事がよく分からないのに、他人の心の中を理解しようなんて到底難しいと私は思っています。つまり『自分というフィルターを通してしか他人を覗くことは出来ない』、これはイマヌエル・カントの哲学で「純粋理性批判」という考え方に基づいています。私なりに簡単に説明すると、世界のありのままの姿(例えばDVDそのもの)は、自分(DVD機器などの変換装置)を通して初めて、姿形(映像)が確認できる。つまり、自分が見ているこの世界の物事の姿形は、ありのままの姿じゃない。目の前のスマホもイスも机も。自分という変換装置を通して見ているからそう見えるだけで、本物の姿は誰にも分からないってことなんです。ちょっと衝撃でしょう?
詳しく知りたい方は、マイケル・サンデル著の「これから正義の話をしよう」という本が、具体的なストーリーを用いて説明されていてとても分かりやすいし面白いと思います。著者の小説もそうですが、哲学をベースに話を作っている物語は多く見られます。哲学を知ることでこういう考え方に基づいて話をしているのかもと新たな見解が生まれたり、理解を深める材料になったりします。ぜひ手にとって読んでみてはいかがでしょうか。
著者の2作目の著書「1973年のピンボール」でも登場するくらいなので、全く関係のない見解ではないと思います。つまりは、自分の認識の中にしか他者は存在しないのだから、自己分析を怠ることは他者を覗く目を曇らせてしまうことに繋がるし、他者を認識しようと務めても自分のフィルターを通している限り限度があると考えます。実際に次の文章にも書いています。
僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。どんなに長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。
ここにきて最初に書かれていた内容がいくつか散りばめられて冒頭のまとめに入っていきます。
ひとつは「象について何かが書けたとしても象使いについては何も書けないかもしれない」と書かれていたように、リスト(事象)は書けても、それを飼い慣らせる=象(事象)の気持ちが分かる人の事って、僕がいくら認識しようと頑張っても想像するだけで完全に認識することって不可能だよね。と書かれているように思います。
ふたつは「ものさし」ですが、既にハートフィールドの言葉で出てきましたね。人の気持ちを推し測ることや、誰かの心の深さを知ることですが、これに関しても不可能だよ。と書かれているように思います。
そして、主人公は一度世界が見違えるような大発見をした後に、突如こんな落とし穴に放り込まれて、絶望と共に諦めの気持ちになっているように思います。それが続く内容に書かれています。
もしあなたが芸術や文学を求めているのならギリシャ人の書いたものを読めばいい。真の芸術が生み出されるためには奴隷制度が必要不可欠だからだ…夜中の3時に寝静まった台所の冷蔵庫を漁るような人間には、それだけの文章しか書くことはできない。
他人に何もかもを任せた挙げ句、芸術について四六時中、自分自身が触れ考え学んだ認識をありのまま創造すれば、真の芸術や文学を書くことが出来るんじゃないかと。でもそれって、ある種のナルシズムであって少なくとも他人主義ではないですよね。
ここでハートフィールドの冒頭の言葉についてもう一度考えていきましょう。
完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。
人が完璧に打ち負かされた気持ち(絶望)なんて言い表す(言葉にする)ことが出来ない。そんな文章は書けるはずはないんだ。
これまでにおいてハートフィールドが不毛であった理由は、真の文学で勝負するべきではなかったと解釈しました。ハートフィールドは主人公の僕と同じように、ものさしでは人の深さを測れないことを知っていたから絶望して自殺したのではないでしょうか。そして僕はそれを教訓として、文章で戦う相手を、「文学」ではなく、ギリシャ人とは違ったごく普通に生活している一人の人間として、自分に関わった人たちの存在意義を見出す為に全てここに話す(書き表す)ことを決めたのだと思います。
引き続き、風の歌を聴け/村上春樹 考察3へ続きます。やっと本編に入っていきたいと思います。
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