0704

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桜を美しいと自然と思えるようになった頃から。

僕らが旅に出る理由。

僕らは眠らない。

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神様、仏様、ご先祖様。僕を生かしてくれた全て、みんなに。
ありがとうございます。ごめんなさい。
御陰様で僕は生きています。

そんないつもの心の声は、言わずとも、常に心にある。
そして最期には「ありがとう」「心から感謝しています」と言えるようになったのも、大人になった僕の風景だ。

本当に人生は色々だけれど、笑えない。
笑えないけど、笑うしかないし、生きています。

・・

見ない、言わない、聞かない。

知っていても、知らない、と言い、言わない。
見ていても言わない、ではなく、見なくて良い物は見ない。

見ない方が良い、知らない方が良い、聞かない方が良いなら、
視界に入れない。

知るべき事ならば聞くけど、知ったからと言って、それを人には教えない。

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そこから僕の運命は動き出した。
実際にその時、僕の近くにいた、その場に何かしら関わった、見聞きしていた人ですら、僕に何があったのかをリアルタイムで聴きながら笑ってくれていたのだろうか。

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日記を書き続けよう。

今年に入って僕は黙っている気でいる。
これでも僕の中では沈黙を守っているつもりなのだ。

日記は後から見た時に真価が問われると思う。

・日記は良い事だけを書いておいた方が良い。
→後から見返した時、ポジティブになれるような日記、プラスになる事、良かった事だけを残す方が良いかもしれない。
良い日記を残す事で、人生の後悔や執着、その時は見えていなかった事、分からなかった事に気がつくかもしれない。
→悪い流れや悪循環になっている事から脱却が出来る可能性。
良い想い出を書き残す事で、読み返した時、そこから得る(学ぶ)経験と機会が出来る。

→→僕は日記でなく今は独り言の録音で自問自答するようにして考えるようにしている。関係ない事柄や話でも、そこから考えた事や気がついた事、それらを自分に置き換えることで考え方や見え方が変わる。

比べる事で、自分の冷静な立ち位置や状況を考えられるようになった。
「事情がある」では済まされない事はある。けれど、その事情(自分も相手にも事情があると考える)と、自分の経験や選択肢が増える事で相手への判断が付く。
人の気持ちや意見を冷静に受け止め、学び、程々に流すことが出来るようになってきた。

・結局どう生きたいのか。
→生きた証を残す
→それは誰の為に→5W1H。この2年間で学んだ事を生かす。
→何が出来るのか。→どんな自分を残したいのか。

・幸せになる為に、今の自分の答えは何なのか。
→僕は自分だけの時間・空間が必要。
→その時間で自分がしたい事、好きな事をする。
→その為に時間やお金や、余裕や余力を持つ為の力をつける。
→自分がしたい事、好きな事と同じ、すべき事として日記を書く。

・「死」が導き出すもの。現実と理想を知る。
→人間は死ねない。所詮は人間、簡単に死ねない。やってみればわかる。
無責任なことは言えないが、とはいえ他人。
やってみなければ解からない事もある。

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僕が今「生き恥」と振り返るような事がある。
謝罪したいけれど、悪かった、ごめんなさい、と言いたい。言いたいけど言えない。言いたいけどもう逢えない人と言うのは少ない。

申し訳ないけど、他人や血族親族以外では、たぶん片手で数えられるくらいしかいない。

その理由は別に時が経っているからではない。
過去の美化、風化で事を済ませて書いていない。
ここで僕が言う生き恥と言うのは、この2年間の話だ。

僕がなぜ自殺するまでに至ったのか、その理由や家庭の話とは関係ない。
ここには単純に「僕が迷惑をかけ傷つけた相手」と言う意味合いしかない。

僕はこの二年間、ほとんど人と会っていない。
今までと比べたら別人のような生活をしている。

僕の言い分になってしまうけど。
僕は「全くの無関係の人」に害は与えていない。
見方の問題であるけど、僕が意を込めた対象者は、
全くの無関係と言うより
僕との関係(付き合い方)が適切・適度ではなかった相手に対して
「僕がすべて悪かったです」「申し訳ありませんでした」とは言わない。
「ごめんなさい」とも言わない。


「知らず、知らないうちに傷つけている」とか、「迷惑をかけたことはあるだろう」とまで話を広げるなら、世の中にいる人、全員が自分が言っている正義の発言を自分自身に向けて、突き詰めて、まだそれが言えるのかと。

そんな事まで、そこまで言うなら、人はもう何も言えなくなる。

無関係や勘違い、逆恨みで僕が悪意を込めてしまった人がいるなら、それは僕が悪いとは思う。失礼、無礼極まりなかった。ごめんなさい。本当に申し訳ありませんでした。直接会って、正しく謝罪したい。

だから今でも考える。
今を生きながら、過去を振り返って、改めて、考えなおす。

僕が「悪かった」と思って口にしているのは、
僕がしたこと事で相手に一方的に迷惑をかけた、傷つけた相手に対して。

今はまだそれだけしか言わない。
だから相手との関係性が問題の分岐点。

利益や利害関係があれば、僕は、たぶん、やり過ぎている。

相手が仕事関係ならば、僕が割を食っている(割に合っていない)。
僕が大きく損をしている事は、僕にも非がある。否定はしない。
ただ対等ではなく、不相応に利益を得過ぎている人が、今回の件を挙げて、自分の立場やしていた事を無視(無い事、棚に上げ)して僕を非難するのは間違っていると僕は今でも思う。

ただ言うかどうかは別だから心配しないで欲しい。今は極力言わない。

「ただ僕も君も、勘違い、過ちがある事を考えて欲しい」
とも言わないから、僕は誰に対しても極力何も考えないようにしている。

仕事関係では無い、知り合いや友人と呼んでいる人ならば、僕と人間付き合いをしていたと言う相手ならば。
そいつは僕に頼り過ぎたか、僕から得過ぎていたのだ。
物事には対等な関係であれば、助け合いやお互い様と言いギブアンドテイク、あるいは等価交換が双方で納得していなければ成り立たなくなる。
僕に対して
「気軽に話が出来る」
「僕には相談しやすい」
といった人は、僕に頼り過ぎだ。

だから僕がここで言っている「ごめんなさい」と伝えている相手は、
僕が求め過ぎた相手にだけだ。

上は、人が僕に求め過ぎた結果、僕が怒った。
下は、僕が人に求め過ぎた結果、僕が迷惑をかけてしまった。

利益と言うのはお金や時間だけではない。
精神的にも負担や負荷を僕にかけ過ぎていた人は、そのことを考えてくれるなら、僕を10:0で悪人にするのは止めて欲しい。

これも僕側の言い分だから逆も言えるだろうけど、今回の場合はどの話も全部、僕の有限の人生の中から僕が体力や心、お金や時間を人たちは取り過ぎている。

とはいえ、この話も事細かく説明するわけにもいかないし、僕も別の場所や他人から得ている物や事があるからそこに割り振れただけ。だから僕は自分を正しい人とも間違った事なんてしていないとも絶対に言わないし言えない。解っている。理解している。

そして話として、例として、一人ひとり名指しや例え話をするのは良くない。論外だと今は考える。

だからこの話も置いておく。

「どうでもいいけど」と言うのは悪い言葉だけではない。

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僕が僕に伝えよう。

僕が会いたい人と想っている人は、僕には会いたくない。
僕が会いたいと思い続ける人は、僕とは会いたくないと思っている。
ずっと思って、もう今頃は忘れて僕の存在なんて消し去っている。

僕が想いを伝えれば、相手は逆の想いを僕に伝えるだろう。

「いつか また 縁があれば」
なんてのは勝手な言い分と、都合のいい解釈なんだ。

僕にも会いたくない人がいる。
それは単純に嫌いとか、気が合わない、相性が悪いだけではない。
怒られるから、苦手だから会いたくないという理由でもない。
年齢や性別でもない。

「今は相手できない」
「今、ちょっとその話を聞けない」
というのでもない。

そういう普通によくある話や理由で会いたくないと言っていない。
本当に会いたくない人がいる。

その理由は過去の関係だ。
僕との間に何があったかという話になるのだと思う。

悪い話ではないけれど、そう言いたいけれど。

ただ僕が会いたくないと心から想っている人がいるように、
真剣に心から僕に会いたくない人もいるんだと思う。

だから理由や主張があるならば、それは僕と逆。真逆な訳だ。

僕が絶対に会いたくない、極力会いたくない、出来るだけ全力で会いたくない(回避したい)人や事があるように。
僕が死んでも会いたい、絶対に会いたい、何としてでも何が何でも会いたい人がいるように、それと同様同等に「僕には会いたくない」という理由を持つ人がいると考えた。

だから「この世に片手で数えられるくらいしかいない」という事だ。

生き辛い人は気が付くと呆気なく感じると思う。
この視点を持って物事を考えると、人に嫌われたくないではなく、
人を傷をつけるような迷惑はかけたくない、与えたくないと強く思う。

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僕は言語力や日本語の能力が低い。
相手にこちらの意図や物事の説明が上手くいかない時もある。
こちらが提案している事、善意の好意が理解されない事もある。
逆に相手の意図や希望を正しく理解できずに、優先順位を見誤る時もある。

自分が正しい訳でも間違っていない訳でも無い。
そうやって僕ら人間社会は成り立って生きているんだと思う。

悪い事をしたら謝る。それに対して罰を受けたり、何かしらのマイナスがある時もある。けれどそれに対しても「みんなやってる」というような発言で正当化は出来ない。たとえできたとしても現実問題として影響や変化が生じてしまう。

→それなら僕が出来る事、すべき事は何なのだろう。自分がなりたい自分になる為には。犠牲や諦めとは少し違う。

正しく認識して、地に足をつけるのが僕にとっての幸せなのだろう。

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答えは無いとはいえ、最善に近い言動や対応をする為にはやっぱり
「多面性」「ものの見方見え方」「群像」を意識して、物事や他人に対して思う事や考えたことを自分に当てはまながら、学べるところは学び、反面教師も含め、僕は僕らの正解や幸せの形を模索するだけだ。

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仕事やプライベート問わず。

ある程度の年齢を超えている人たちの中で、結婚をしている人、結婚をしていない人、その経験が過去にある人。そして子供の有無。仕事についても。

人生の中で、何を、どの時期に、どんな経験を、どれだけしたかは関係すると思う。だから、どこまでいってもそれぞれの言い分は、全部その人の勝手な言い分でしかないのだと思う。

その人の答えやその人が言う「普通」や「常識」と言うのは、その人の勝手な解釈、その人の勝手な目線と自分の数少ない体験談でモノを言っているだけだ。

人から傷つけられた人は
「人は傷つけてくるから」といい、恐れおののき何も出来なくなる人。
「人は傷つけてくるから」自分も他人を傷つけるという人。
これは両極端な言動だけれどそれぞれ「人から傷つけられた経験(体験談)」から価値観や意見を持って言っている。

でもそれは所詮は一ケース(一例)であって、それが人間の本質であり社会のすべてだと目の色を変えてまで力説することは息苦しさを助長させているだけなのだと思った。

結局その行為は、自分で自分に呪いをかけるだけになる。
生き辛くなる(生き辛い)環境を自分で作って、それを周りに影響させたりその意見や主張を強制させようとしている。不幸を伝染させている。
不幸を自分で作っているだけ、それで周りを固めているだけなんだと思った。

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僕がこうして日記を非公開にしなくなったことを否定はしないが良い事とは言えないと思っている人は多いと思う。
「そんな事書くなよ」
「そんな事いちいちネットに書くなよ」
と言う人もいるだろう。

僕は不特定多数がアクセスできるサイトや所に日記や自分の事を書いた事は無い。
厳密に細かくは覚えていないけど、大学生の頃からは日記や個人的なことは非公開か承認制(お互いに認知か理解している者だけ)で書いてきた。
それを公開にして書き始めたのがこの二年くらいなだけだ。

僕の事を反抗期やよくある親子喧嘩、不和のように言っていた人も同じ。

自分達はインターネットやSNSをどう使ってる。

今日は疲れた。
まじでムカつくことがあったから最悪。
あいつ死ね
誰々とまで書かずとも、その内容や詳細は書かず心情や心の声をインターネット上に吐露していないのだろうか。
僕はそれを良いとも悪いとも言わない。
ただ僕はその「疲れた」の内容を書いてしまっているだけだ。

少し前に書いたかもしれない。
「私は死ぬとか考えたこともない」
「自分の周りに死にたいとか自殺とか言う人いないから」
「そういう事を言ってると引き寄せの法則(類は友を呼ぶ)で集まってくるのよ」
そう言った人がその数分後に
「私も何度も死のうと思って」
「あの子も死にたいって泣いて」
と感極まりながら自分語りを始める人や出来事が、
僕の周りには、本当に、あり得ないくらあるのだ。

大抵の人は自己満足なんだ。僕もそうだと言う。
だから今は人とはあまり話をしない。
誰からから的外れな意見を言われたら
「無関係なら黙っててください」と内心、返している。

「本当に」とわざとつけた。
でもありえないと言われるけど、それが起きてしまう、そんな事がありえてしまうのが僕の周りと僕の日常だったのだ。

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「世の中、社会の中でみんな同じような経験をしている」
そう言う人もいる。僕も今はよくそれを使う。

世の中、今までも、そうやって皆、僕らの親やそのまた親、ご先祖様も。
大なり小なり色々ある。そうやって今がある。今に至っている。
やることやって、生きて僕ら次の世代や人間に何かを繋ぎながらこの社会が成り立っている。

僕も確かにそう思いながら生活をしている。

でもそれは大きく違う部分がある。
それはあなたが言いたい事(言おうとしている事)が
僕のそれとは違うのだ。

僕と一緒にいる人、また隣にいる人でも、僕と同じ風景を見て、生活をしていたとしても、それぞれ見ている世界は全く違っている。

僕はそれを言っているだけなのだ。

それぞれ似たような立場や境遇の人はいたとしても、同じ価値観や考え方で、見ている世界も同じと思っている人の相手は僕はもう出来ない。

僕が知らない世界や解らない物事がある。
あなたにも分からない解っていない世界がある。
解っていない事すらも解らない事がある。

それなのに解ったような、知ったような気になっている。
語れるだけの愛も知識も浅すぎたとしても。
本人はそれが解らないのだから、
気が付かないのだから堂々と言葉ならべる。

それに対してまだ僕は
笑って済ますことも、愛想笑いで流す事も、まだそこまで簡単ではない。
でももう感情的になったり、僕が考え込むこともしたくない。

極力穏便にだ。

僕は僕の世界を幸せにして、それを守れる力があれば良い。

だから主観の話。

「自分」を理解しようと努力しながら、受け入れたくない現実も理想の自分も受け入れて納得して生きていくしかない。
それは悲観的な意味でも悪い話でもない。

それぞれ考え方も当然違うから他人の話はそこまでもう聞かない。
またそれはそれで、それぞれ時間と共に成長や変化していく。諸行無常だ。

だから僕は良いか悪いかは言わないようにしたい。
それに人間同士、分からない事は解からない。
自分と全く同じ人間はいない。

でも人は、自分の意見や話している事が、さも当然、当たり前のように口にするし、自分が言っている事が正しいとは言わずとも、正しいと思っているから口にするんだと思う。

だからそれがエゴだと思う。想った。

・・

・・

僕は仕事はしたことがあっても、家族の為にと考えて働いたことも動いたことも無い。自分だけの視点や軸で生きるのと、我が事として自分以外を(自分と同等に)考えて生きるのでは全くの別の話や世界である。

僕自身、今は別世界と別人で生きているような感覚だ。
けれど、一年二年前の僕では理解も出来ないだろう。そもそも物事の見方や対応の仕方が少しは大人になれてきたのだろう。

言動しない事を指す言葉も増えてきた。
「沈黙は」
「口は」
「言わぬが」

自分に関係が無ければいい。いいというのは「良い」ではなく「どうでもいい」。自分たちの人生に悪影響があるものに対しては、全くと言って反応しなくなってくる。

今それどころじゃない。そんな話をする間は無いかな。

どうでもいい奴の相手をする暇も気まぐれも、もう持っていない。
少しはまともな大人になれた気がするけどね。
少しは話が聞ける大人になっているような言動は出来ているだろうか、ね。

・・

今の僕があるのは、
今までの出会いや別れや奇跡のような出来事が僕にはあるから。
そこに一点の曇りも、疑う気もなく、確信している。

・・・・

僕の事を
「今でも変わらない(変わっていない)」
と否定的に見られてしまう時がある。あると思う。

ごめん。
それを僕は今でも後悔をしているし、その気持ちをずっと持っている。

僕が誰かに連絡をして、相手と都合が合わなかった時。
一瞬の擦れ違いや誤差誤解みたいなものでタイミングが合わなかった時。

僕は今でも瞬間的にキツイ言葉を使ってしまう。
それは誤解、語弊だと言いたいけど、それは相手が決める事。
それに言った言葉は事実だ。
相手がそこで僕に対して悪い気やイメージを持ってしまったらそれはどう説明や弁明したところで相手の僕へのイメージや評価は変えられない。

そこに悪意や傷つける気は無かったとしても、僕はその時に辛辣な言葉や、厳しい冷たい言葉を吐いてしまっている。何度も悔やむ。

けれど、そこで後悔が無い形になっていたとして、
今の僕や現状が何か変わっていただろうか。

例え、そこでその人(縁が切れてしまった人)と上手にコミュニケーションが出来ていたとして。
僕はそれを良い形や未来に繋げられたのだろうか。
そう改めて考える。振り返る。

想像やタラレバではなく、真剣に、例え妄想でも考える事は出来る。
それが大人の力だ。そこで人間としての力が試されているのだろう。

経験とその中の不幸や絶望からどう息を繋いで生きてきたのか。
痛い目や死にたくなるような現実からどう向き合って生きたのか。

そうやって毎日が過ぎていくと、それまでは自分の中で強大で絶望のような不安や事たちに対しての自分の考え方や見え方も少しづつ変わる。

大人になって生きていくと、更に不安や悩みの種は増えて、問題も災難も降りかかってくる。想像もしないような、いい事も悪い事も、いろんな事や話が重なっていく。

だから全体の中の「今までの不安」の存在が、その不安が占めている自分の中の割合が変わってくるのだ。
物事への対応の仕方が変わるのだから
自分の中の、その割合も、おのずと変わってくる。

不安は小さくはならないけど、
そこに命や力を懸けたり、割り振ることが今までのようには出来なくなる。

それが大人になるって事の大きな一つだった。
見方のモノサシは、相対的に、物事や対人関係の判断する為に。

・・

僕が今、良くないと思っている事。

僕の言動や記録しているこの日記を僕が放置(放棄)してしまっている事。

自分の言動には責任が生じる。ましてや発信する事は尚更だ。
だから気を付けなければいけない。
それなのに今でも僕はここを放置している。放置してしまっている。
次に繋げられていない。

僕が今黙っている事で

「僕は変わったよ」

「今まで僕が悪かった事も、気がついていなかったことも自業自得だから、みんなのお陰で生きているから。そこから学んだよ。ごめん。本当にごめん。だから変われたから見守ってて。許してとはもう言えないけど…お願い」

例え僕がそう思いながら生きていたとしても、相手に伝わらなけらば何もない、意味が無いと、必死になるのが今までの僕だった。

それでも、そんな事を考えながら、僕は日記を書かなくなった。

自分の中の変わっていく事や、その過程を書かなくなった。
書き残していない事が僕は良くないと思っている。
それは誤解や語弊の話ではなく、正しく謝りたい、
ちゃんとお別れを言えていない(言いたい)と思っているからだ。

当然、直さないといけない事は解かっている。
固有名詞や個別の話も上手に書き直さないといけないと思う。

今それをせずに、会いたい、会いたいと。伝えたい、と。
未だに必死になって、まだ夢見がちな僕がいるのかもしれない。

だから中途半端なままで、それを言う資格は無いと思う。
信じてもらう解ってもらうための何も示せてもいない。

今の僕は「疲れた」と「しんどい」ばかり言って、口だけ野郎になってしまっていると思うと本当に良くない事をしたままにしていると思う。

最後のけじめみたいな〆が出来ていな事は解かっている。

・・

・・

大人になって解かった事は、大切な事は、相手の邪魔をしない事だ。

僕が好きな相手に対して
「捨てないで」
というような言動をし、必死になってしまうのは、
アダルトチルドレンや愛着障害からくる認知の歪みだ。

無条件の愛と言う言葉に違和感がある。

何か相談されたり頼まれごとや、力を貸してほしいと言われると、僕はその相手を好意的に見ていれば今まではそれに応えようとしてきた。
自分のキャパシティーを超え、そこまでする義理も筋合いも無い相手に対しても、刹那的自傷行為になってしまうまで相手の意に応えようと、尽くしてしまっていた。

でも、それは今まで僕が無条件の愛、無償の愛みたいなものを求めていたから。ただ間違っているのは、それに値しない相手に対して、僕は愛や情を尽くしてしまっていたのだ。

・・

僕はあの日の事を一生、忘れない。僕を生かしたその言葉と人を。

僕が本当に手にしないといけないのは

魂の在り処

魂の距離なのだ

だから忘れないで欲しい。

・・・・

・・・・

僕は死ぬ気だった。
気と言うより、死んでしまう事が前提で絶対的な決定事項になっていた。

死のうとした時、僕が持っている話、事実、僕が身をもって知っている事。全員の悪事を、悪事も、作り話の美談も。
隠れてやっている事も、全部、このネット上に挙げて死ぬつもりだった。

それは逆恨みでもないし、復讐とも少し違う。

ただ、もし僕が死んだ後に、僕の事を好き勝手自分の都合のいい作り話に変えて自分の利にしようとするような輩の社長連中を僕は数えるくらいとはいえ知っているから気に入らなかったんだ。

でも、この話。昔々までさかのぼれば。
→僕の言動や、コミュニケーション。メッセージのやり取りを振り返って見てみると、本当に酷い。内容や言い方が僕に非がある事も多い。
今見ると僕が悪い事、痛々しかった事、当然それもある。
とはいえ僕が全部悪いとは言わないし絶対に言わせない。

俺も悪いがお前らも悪い。これを言ってしまうから僕はまだ変わっていないと見られてしまうと思う。

でも、解っている事はある。

本当に死んでも死にきれないくらいの生き恥を晒してしまったと後悔している。本当にごめんなさい。

だからそれも、許されるとも、済まされるとも、思っていない。
それは僕が相手の答えに対して何か影響を与えることは出来ないから。
そこで嫌われようが、解ってもらえなくても、もうそれは
「仕方がない」

僕が今こうしている今も、僕がここに書いている日記のような今ではほとんど書かなくなって放置してしまっているままで、時々こうして更新したりしているだけでは、本当に最悪のままで僕は終わっているのだと気がついている。

解っているから、本当に悪い。ごめん。

僕はこれからも人の悪口を言うかもしれない。
でも、墓場まで持っていくと決めた話はもう死ぬまでしない。

・・・・

でも、人の話はちゃんと聞いてあげられるくらいの力や余裕は持ちたい。

僕はしたいことが無い。
もう昔の自分に戻れないのが今は辛い。

死ぬ気で生きていた。
あの頃の、必死に生きたあの瞬間や風景を忘れたくない。

でも僕は自分がどうやって生きていたのか、どう過ごしていたのか、何を聞きながら外を歩いていたのか、今思い出せない。それがとても苦しい。

それが辛くて、苦しくて、許せなくて、死にたいという話ではない。
けれど、もう僕は死んだ(あの僕はもういない)と思うと、
もう辛くて辛くて仕方がない。

仕方がない、みたいだ。そうらしい。仕方がないで今は受け流そう。
僕がそう言っている。まだそう言っている自分がいる

大丈夫。大丈夫だ。
それも経験済み。何となくだけど、対応できる。
感情的になる前に、もっと大きな視野と意識で息をしよう。
世界はまだまだ未知なる方へだよ。

・・

・・

自分の為に努力する時間を作りたい。するべきだと解って思っている。
ただどうしてもいい訳か、「時間た足りない」「余裕が無い」といってしまう。けれど事実一日の時間は24時間しかないし、人間だから物事には限界や現実問題が出てくる。朝一から予定があればその時間を無視して別の事をすることは出来ない。
だから自分の時間やしたいことが出来る事なんてのはそれだけの努力をしている、課題を解決や乗り越えた人が出来ているのだと思った。

・・

僕らはロックスターに夢憧れたロックの申し子だから。
僕はマイネイムイズナンバーガールを一生謳うのだから。
まだまだ僕は生きていきます。

何かあったら連絡する。

・・・・

・・・・

この日記が終わらなくなっているので最後に。

僕が今こうして生きることが出来たのは、あなたの御蔭です。

僕が好きではない人、気に入らない人、嫌いな人もそこには入るのでしょう。
でも僕はそれを相手にしません。気にもしません。一生会う気は僕は無いけれど、そこにも何かしらの学びや、気づきがあります。だから、ありがとうございました。
僕は、今の所、嫌いな人に対しては変わらず嫌いなままなので、嫌いです。

僕が好きな人。僕が尊敬する人。愛した人。男も女も年齢も関係なく。
今ではもう逢えなくなってしまった人。
僕が好きだった人も。

僕の宝物。

「宝物」なんて表現は良くないのだろうか。
今は考えないようにする。

僕を生かしてくれた人に、今でもずっと会いたいと思っている。
逢えるものなら会いたい。

そこで何を語れるかは今ここでは書き残さないけれど、
僕が生きた証に、その想い出や気持ち、貴方がいます。

僕はその宝物、一生の、僕の生きた証。

蓋を開けてみても真実なんてのは誰にも分からない。
多様性する多面性と、群像する真実だ。

本当に大事な事は、心から大切なものは、そう簡単に人には言わない。
僕は世界で一番、僕の世界で最高の出会いと経験をした。
そして、「語らない愛がある」は、ここに繋がるのでした。

・・

「音楽には語る愛もあれば語らない愛もある」

僕が大阪、東京を経て、得た考え方と言葉。
音楽を語る人が多いけれど、僕が語らないのは音楽への愛だ。
ロックへの愛だ。

それを今ここで当てはめて気がついた。

「いやいや、十分書きすぎでしょ」「これだけ語っておいて、何言ってんねん」と人様は言うんだろうけど。知らねえよ。関係ないなら黙ってろ、と。

・・・・
・・・・

僕にとってこの一年、二年がどれだけ命懸けだったのか。
命懸けと言うより命が掛かっていた。賭けてしまっていた。

それを、どうしても解って欲しいと、許してほしいと叫びはせずとも全力で言ってしまう自分も、まだ生きている。
けれど、例え僕に何があったとしても、僕が何をしてきて、だからといって何を言おうが、それは僕の言い分という言い訳でしかないのだと思う。

それを理由に僕のすべてを正当化することは出来ない。
だから、してはいけないんだと思う。

そんな僕の19歳から始まった世界の限界、最期は、2021年の夏だった。
それに対して、それが僕の人生を賭けるだけの事だったのか、それだけの大きな話だったのかは、人にとやかく言われる筋合いはない。

それに、そこで終わっていたら、そこまでだったという話。
気付いたら俺だけ夏だったという話。

でも僕は生きた訳だ。

事実、変わったと言えば変わった。それもその最中だ。
過渡期も最中も同じような言葉だと今は言っておきたい。

何が変わったのか。

聞きたかったら逢いに来るか連絡してくれたら僕は考える。
もし僕の事を思い出す人がいるなら。
僕の事を忘れていなければ。
僕の事を考えてくれる瞬間があれば、連絡して。

そこに何があるか僕も考える。
考えた上で、相手にするかしないかは僕が決める。

・・

だから、僕の中の問題が解決せずに、どうしても、どうしたって僕の人生が終わりかけていたあの時、瞬間、救い上げたのは、貴方だ。

ぼくが解っていない事を教えてくれた人。
僕が本来目指すべきところ。
何が大切なのか、少しだけ教えてくれて、ありがとう。

そう僕が言った時に、これは自分の事だ、これは自分の事を話されていると思っている人がいるなら、それは、それでいい。

でも本当に大切で、大事で、心から「ありがとう」と伝える。

もう僕は君に逢えないと想っている。
けれど、幸せや、新しい何かは、僕が自分を大切にしてゆっくりと、しっかりと生きていれば。大事な事は心にしまって大切にしていれば。

また再会できると僕の運命を解かっている。

またそれを星に祈っている。

ありがとう。

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眠れない夜に

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