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歴史は繰り返す。人は積み重ねて、物事は更に無常を繰り返す。
交換日記をしよう。

僕が20代の時に経験して、見て過ごして、擦れ違ってぶつかって
「軋轢 すれ違う 心と心」と衝動的だった話。

君は波乱万丈な劇場型の人生を好まないかもしれない。
それでもどこかで風が吹くことを期待している。

僕が死んだら保険金の受取人は誰になっているのだろう。
死に方は、苦痛を伴わない。不安や恐怖を出来るだけ感じない。
これから僕はどんな人生を。
どこで金を手にして、努力の先には僕はどんな姿で、自分の人生に絶望や、あの頃みたいにモドカシサや怒りや焦りや不安で息をすれば泣きたくなって、でも大人になるとそう易々と泣かない。
そこで僕は多くの、今から更に多くの幻滅や絶望を受け苦しむのだろう。
けれどそこには、もう片側には僕を受け入れてくれる、大切に、愛してくれる人たちが、もう片方には手を振ってくれているのだ。

あの有名人が、もうあの年齢だよ。カッコよかったあの人が、好きだったあの人は今はこんな事をしていて、今は比べて「歳をとってから円熟味を」とか語られているのだろうか。
努力はいつか報われないし、夢は冷める。冷めた後は祭りどころか地獄。

みーちゃん、片山みゆきは黙って押し切れるとしているから連絡返事ひとつ返してこない。
片山家の親父さんもお母さんも無言を決め込んでる。
どんな人間なんだよと思うけど、所詮はどこまで行っても人間でどうでもいい、例え僕があの時だろうが今後何処かで死のうが、彼女にも彼女の家、家族には痛くも痒くもそこまでない。終わってしまえば、「はい、ちゃんちゃん」が世の中というか、僕ら人間の心理なのだ。行動する原理理屈みたいなものだ。

僕は死ぬとは言ってないからな。死ぬ気がある訳でもないから。
こうやって話す事も、片山みゆき 片山家の人らには一切伝わらなければ、僕の変化も心情も理解されることも無く消え去って流れていくだけのものなのだ。

交換日記を使用。
君が20代のうちに、気づき、変化し、努力して。
縁や何かの奇跡が起きて、30代までに何処かで何か自分にとってのベストが決まるのかもね。
色々な人と出逢って、遊んで、怒られて、一日が毎日が過ぎに過ぎて。
僕らが変化している中で君は僕とは違う変化をするのかもしれない。
そんな時、僕は君の隣にはいない。そんな未来が遠くない、それ以外 聞こえない 静かな 夏の風景。


もう九月。 あっという間に九月になってしまいました。
僕の誕生日が7月4日。自殺企図をしたのが10月2日。
あれよあれよ。僕はまた一人になって、一から。
年末年始が過ぎたら、春を迎えたら。夏になって誕生日が来たら。
飛び降りた日から一年が経ったら。。

そんな事は考えていなかった。
考えたくなかった。考えたくもなかった。
生きていると思っていなかったのではなくて、考えたくなかった。
そんな言葉が通用しなくなる。

僕の仕事の後見人(終活)と同じだ。
本人は自分が死ぬとはわかっていても思っていない。想いたくも無ければ考えたくもない。だから後始末(エンディングノート)と書かない。
骨肉の争いや法廷にまで巻き込んで持ち込んでしまうようなよくある話を、これだけ2022年の今になっても、なかなか出来ないのが心情なのかもしれない。
でも僕は仕事中想っているのは、「ひとつでも片付けられることは先にしておけばいいのに」とみている。
人間は必ず死ぬのだから、遺言も相続も後始末に関する事情も、家族から新世紀や関係する人たちが最低限動くであろう事柄について、子供の嫌々、駄々こねるんじゃなくて、いい年した大の大人なのだから ちゃんと家族や子供のためにすべき事はして 最後の時を過ごすと本当にストレスは減ります。これは僕の経験談、仕事で医療でも介護でもない僕が独居の高齢者の方の見守りや付き添いで最後まで一緒にいた時、ほとんどの人がぶつかる問題。

孤独。
不安。

「明日、目が覚めなかったら」

誰しもではないけど、守るべきものがなくなった人間が抱えるのは、絶望から生まれた安易な答え。

「痛みとかなく、気がついたら サッと死にたいな、死ねたらな」

僕もまだまだ経験してないから言える 餓鬼が笑う餓鬼が笑う。
この世のすべてを何も知らず。

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