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言語=民族=国家という幻想の等式.「ここは日本だから日本語を」は危険な誤り.言語≠民族≠国家が原理.そして文字も≠

言語=民族=国家という幻想の等式
『新版 ハングルの誕生:人間にとって文字とは何か』(平凡社ライブラリー版,2021年)pp.40-42 から

 整理しよう。原理はこうである。言語と民族と国家、これらは対応するものではない。対応しないことが、地球上における原理的なありかたである。

 いわゆる「単一民族国家」としばしば誤読される日本や朝鮮半島では、こうした原理的なありかたが見えにくくなっている。「日本では日本人が日本語を話す」などという擬制のイデオロギーが、心のどこかに巣くってしまいやすい。「日本人のくせに日本語もできないのか」とか、「ここは日本なんだから、日本語しゃべれよ」などという発言がまかり通ってしまう。これらの発言はことばそれ自体が原理的に誤っていて、成り立たないだけでなく、言語による差別の構造を造り、増幅してしまう点で、罪深い。

 言語=国家という等式に疑義を挟む人々も、言語=民族という等式にはしばしば寛容になってしまう。「言語は民族の魂だ」などという一九世紀ロマン主義的な発言も、奪われようとする言語を、他から守るような言語場[げんごば]であれば、一定に理解はできても、原理的には誤っている。同じ発言をナチスが演説で述べている言語場を、想像すれば、その危険性がよく解るだろう。「言語は民族の魂だ」などという発言は、「その言語を話せない人々は同じ民族として認めない」と言っているのと、事実上同義なのである。

 これで解るように、言語を集団の帰属の問題に直結させて、利用してはならない。地球上に、言語が奪われる局面はいくらでも存在する。言語は民族の魂だから奪われてならないのではなく、言語はその人のものだから、奪われてはならないのである。

 およそ人にあって、どのような言語であれ、どのような方言であれ、あるいは例えば他の人々からはどんなに「不自然」に見える言語であれ、その個人の母語は、いかなる集団に帰属するかといったことには関わりなく、無条件に、何人[なんぴと]たりとも侵してはならないものである。集団帰属の問題やアイデンティティの問題において言語を語る際は、細心の配慮が必要である。決してそこに言語を安易に直結させてはならない。言語は個に属する。母と子さえ、言語は異なりうるのである。

 言語=民族=国家という等式が、歴史的な条件だとか、「グローバル化」だとかでたまたま崩れて、現在があるのではない。この点にも留意しよう。逆に、これら三つの対応しないことが、より深いところに横たわる原理であり、default[デフォルト]即ち初期状態である。

 言語は世界に数千が存在する。国家と呼ばれているものはせいぜい二百そこらである。数を考えただけでも、もともと一致するわけがないものなのである。国家はイスラエルのように作られたりもするし、朝鮮半島のように勝手に二つに分けられて、二つの国家にされたりもする。あるいはよその国を勝手に奪って、平然と自分の国の一部にしてしまう、日本のような国もある。薩摩の侵略以来、琉球国はもう長いこと、日本ということにされたままになっている。言うまでもなく、朝鮮や台湾もある時期は勝手に日本のものとしていた。このように、言語とは大きく違って、国家は徹底して作為的な概念である。そして国家はしばしば痛恨なる作為のうちにある。

 言語、民族、国家はおそらくこの順に古い。それも民族や国家は永い人類史的なスパンで考えれば、ごく最近の概念なのである。総括しよう。〈言語≠民族≠国家〉、これが言語をめぐる原理である。

*以上は,野間秀樹著『新版 ハングルの誕生:人間にとって文字とは何か』(平凡社ライブラリー版,2021年)のpp.40-42からの引用です.なお,ここでは図を省くなど,原著とはごくわずかの違いがあります.

★2023年8月18日から全5回
オンライン講座「韓国語はいかなる言語か?--ハングルの誕生から現代のカルチャーまで」NHK文化センター.講師=野間秀樹
https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1277357.html


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