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「演じる」について

こんにちは、Nollです。
早速ですが、下のシチュエーションがあったとき、皆様はどのように思い浮かべるでしょうか。稚拙な説明になってしまうのが申し訳ないのですが、よければ想像をしてみてください。

夜桜を見る。着物を着て、隅田川の傍を歩く。花びらがくるくる渦を巻いている。桜の散る橋の上に立つ。松士山を見上げている。

最初の部分ですが、覚えている限りこんな感じでした。さて、5W1Hの質問を当てはめてみるとしたら、「誰が、どこ、いつ、どうして、何をし、どのようにしているか」をなどなど、ご自分の世界に組み立ててみてください。どんなお人や着物、風景や表情などが浮かばれたでしょうか。多分、ご自身の生活で身近な人が想像されるのではと推測します。あるいは、自分の好意や嫌悪を持つ人物などを当てはめるのもありそうです。これが意外と自分が0から頭の中で生み出した想像だけの人というのが難しいように思います。

実は、この世界観を著した歌があります。「夜桜小唄」という日本舞踊で扱われる小唄です。というのも、過去に私は日本舞踊を習った際にこの歌で踊りを扱わせて頂きました。今ではもう割と珍しいであろう、カセットテープです。

昔、この歌でボランティアのため踊りを披露したことがあり、その時にちょっとしたハプニングが起こったことがありました。
他にも踊りにいらっしゃった方々がいたのですが、その間は何も起こりませんでした。本当に偶然、私の番の時に音楽が止まってしまいました。最初はちゃんと音楽が流れていました。なのに、とても中途半端なところで止まりました。音楽を知っている方々も観客の皆様も音楽が止まって、ざわざわしておりました。私もその時踊りながらも、「あれ、音楽がとまった?」とは思いました。けれども、頭の中で続きの歌を流しながら最後まで踊りきって舞台袖に戻りました。結局、最後まで私の番の間は機械は直りませんでした。小休憩をはさみ、機械の修理が済んでから、次の方にバトンタッチする形になりました。終わってから、師範代の先生から「よく踊りきったね」ととてもほっとされていたのを今もよく覚えています。他の方から「お昼だけど、夜桜が見えたよ」や「よく踊りきったね」と仰って頂いてどっとやりきった感が押し寄せてきて、力が抜け落ちました。着物が重たく感じました。お客様の中からも「ありがとう」と言っていただけたり、「水に流れる桜がよかった」などの好評を貰った時は、止まらなくてよかったとめちゃくちゃ安堵しました。今だから思うとまさに「Show must go on」でした。

歌の中で、私は歌詞に出てくる人や桜の花や川の水面、なんなら山まで小道具もありつつ、動きや形で表現して、見てくださっている人にそれらを汲み取っていただくことになります。5分弱の小唄の中にそれはもう膨大な情報量が詰め込まれていました。歌があれば声が出せない分、説明がいらなくはありますが、沈黙の中での表現は急激に難易度が高くなった気がします。しかも、その思い浮かべる想像の全部は見ている人も私も全く違うものです。途中で音が止まるというイレギュラーに当たって、「芸」について思う事が出てきました。「芸」って、演者の動きによって、観ている方の想像の世界を形作るお手伝いをし、扱うものによっては過去の自国の文化ってこういうのでしたよというのをお伝えしながら、「粋生き」を育んでくれるものではないかなと。儀式的な意味を含んでくると悪しきものを追い払うという点も出てきますが。

「夜桜小唄」は比較的平成よりの分かり易い小唄です。ほかにも難易度の高い歌は山のようにあります。しかし、日本舞踊をしていて思ったのは、かなりどの踊りにおいても姿勢が踊りを左右するということです。そして、これが作法にも結構響いてくることです。スマホをずっといじる機会の多い方、お試しに胸を張って顔をまっすぐ前に向けて30分間ほど正座してみると体のガチガチ、特に背中が丸まっているのがダイレクトにわかるかもしれません。足の痺れは……ご愛敬、ということで。ちなみに姿勢が綺麗だとそれだけでも筋トレになるので、道具いらずです。(笑)

もしもイレギュラーが起こってしまったとき、どうされるでしょうか?ボランティアで規模も小さく、修理だけで済みましたし、あまり大事にならず事なきをえました。でも逆に、大きな舞台で、メインのパートが急に音という音が聞こえなくなったら、どうなるのでしょうか。

道具も音も舞台もなく、体現や声だけで必要な物ごとを表すのは、「演じる」の本質にあるように思います。個人の表現がある意味の絶対的なら、いろいろなものを複合したのは相対的なのかもしれません。このハプニングがあったおかげで考えるきっかけになったことでもあり、あくまで自分でやってみた経験があって思い返したことですが。私には現実逃避の為のものというとどうにも合点がいきませんでした。「私」はどこまで行っても「私」であって、踊りの中で生きている踊り子は「私自身」ではないからです。どう言いましょう。小唄の中の人は、曲の中で動きをぐるぐるとオルゴールの中でしか居られません。その人に「私」になってとお願いしても、いない者にご依頼するのは難しいでしょうから。


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