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人で無し

頭がおかしい(医学的に)人が暴れたり、徘徊したり、暴言を吐くことが、そこまで非日常ではない環境で仕事をしています。日常的に言葉の暴力を浴びるし、腕や足が飛んでくる危険性は常に孕んでいるけれど、精神科ではないので、危険手当なんてものはありません。

1人では生活できる訳もなく、家族も面倒を見きれずに、そして精神科でも受け入れてもらえないような、そんな存在がなぜがここへ集まります。一度来たら最後、他に行くところを探しても、なかなか受け入れてもらえません。そんな人が、いつまでもここに留まり続けて、彼らを支えている私たちの心と身体をじわじわと蝕んでゆくのです。


どんなに酷い言葉を放っても、暴力で誰かを傷付けても、"責任能力がない"という理由で罪に問われないような存在に、日々苦しめられながら生きている。

人間的な心と思考を持ったまま彼らと関わるのは非常に危険だ。心はずたずたに引き裂かれ、論理的思考は全く歯がたたないどころかボロボロになる。話が通じない人間に、説得をしようとする思考は不毛で、時間の無駄だ。心を無にして、理屈を捨てて、ロボットのように必要なタスクをこなすことだけを考えて働く。辛くないと言ったら嘘になるが、私の人間性は辛うじて守られる。但しその間の私が人間らしいかと言われたら、それは甚だ疑わしい。そこに私の人間としての尊厳はない。

むかし、施設の障害者を殺害した若者は、「意思疎通が十分にできない障害者には人権がない」、「生産性のない人間は生きている価値がない」などと主張していた。彼の目標は、重度障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界だったそうだ。

彼の考えは極端過ぎるようにも聞こえるけれど、「人に苦痛を与えたり傷付けるようなことをしても、人並みの処罰を与えられない存在は、人間として認めることが出来ない」と言われると、私はなんとなく、それは一理あると思ってしまう。

一生懸命働いて、国に税金を納めている私に苦痛を与えているその人は、こともあろうに私が納めた税金を使って生きている人だ。お金も労力も捧げて、何も返ってこないことに日々虚しくなるのにも飽きてきて、「彼らがいなければ私の暮らしはもっと豊かになるのに」とさえ思う日がある。


彼らを殺せと言っている訳ではありません。ただ、"生きる"ことは権利かもしれませんが、果たして"生かす"ことは義務なのでしょうか。医療にも言えることですが、金と手間と医療を注がなければ生きていられない存在に、どこまで"犠牲"を払うべきなのでしょうか。私たちは綺麗事を並べて目を背けていた問題に、そろそろ向き合わなければいけない時期だと思います。

若者が苦しみながら稼いだお金をかき集めて、1人の老人に高額な医療を施す。その老人の寿命が1年延びたとして、その陰で一体何人もの若者が、生活の苦しさに命を落としているのでしょうか。老人の1年は、彼らの人生を賭してまで"延ばす"価値のあるものだったのでしょうか。極端な例えかもしれませんが、直接的な因果関係がないだけで、水面下で起きている問題であることは誰もが身をもって感じていることではないでしょうか。

健康な人、若者、労働者、納税者、これらの"資源"は有限です。もちろん彼らにも人権があります。彼らは植物に水分を供給する根のような存在であり、社会に必要不可欠です。彼らの人権を蔑ろにすれば、根を失った植物が枯れるように、社会は崩壊します。既に崩壊しかけているところではありますが。エネルギー資源だけでなく、人的資源についても、もう少し建設的な利用を考える必要があるのではないでしょうか。

これを読んだ貴方が、少しでも何かを考えるきっかけになりますように。ひとりひとりの、その立ち止まって考えるプロセスが、この社会を良くしていくと信じています。



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