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映画log.「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」

至高のフェミニズム映画体験

映画館で久々に、3時間超えの作品を鑑賞するという映画体験をした。
その名も、
「ジャンヌ・ディエルマン、ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」/ 1975年 ベルギー・フランス合作
監督・脚本はベルギー出身の映画監督のシャンタル・アケルマン

1975年の作品だが、2022年の映画史上ベスト100のうち第1位に選ばれた映画ということで映画館で再上映されていた。(BFI=英国映画協会というイギリス政府公認の世界最古に値する映画促進機関がアンケート調査に基づいて10年ごとに発表していて、1952年から続いている歴史あるものだそうだ)

BFI公式サイトより

映画のタイトルは存じ上げなかったが、”フェミニズム映画の傑作”と称されているらしい。これは鑑賞せずにはいられない、と劇場へ足を運んだのだった。
※この記事はあらすじ解説ではなく映画をみた感想と考察ですが、しれっとネタバレを含みますのでご注意を。

退屈な映画体験から感じた作品の本質

結論から言うと、究極に、極めて現実的で直接的にフェミニズムと対峙させられる作品だ。

どういった映画なのか簡単にあらすじを言うと、主人公のジャンヌはブリュッセルのアパートで思春期の息子と2人きりで暮らしている。そのジャンヌの日常の3日間を見せられる(1日目、2日目、3日目の3部構成)というもの。非常にシンプルな作りだ。

「ジャンヌ・ディエルマン、ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」
というこの覚えられない長いタイトルは、主人公の名前と、舞台となるジャンヌが住んでいるアパートの住所だったのだ。

1日目の話が終わった頃にはどのくらい時間が経っていたんだろうか、隣席に座っていたお客さんがガタガタと忙しなく貧乏ゆすりを始めた。正直なところ、そのくらい退屈に感じてしまう映画だった。
ただし「退屈」という表現は作品の良し悪しではなく、印象と言う意味で退屈と言わせていただく。
この映画は長時間この”退屈な時間を体験する”ことに本質があると感じた。

ジャンヌは来る日も来る日も同じような暮らしをしていることが伺える。
じゃがいもの皮を剥き、食事の支度をし、食べ終わった食器の後片付けをし、息子が起きるまでに息子の靴を磨き、隣人の赤ちゃんの子守りを引き受け、ほとんど家で淡々と”女性の役割”をこなすジャンヌ。外出をするのは、郵便局や取れたボタンの付け替えなどの用事がある時だけ。
おまけに実は売春で生計を立てており、ことごとく”他人軸”で生きている女性なのだ。

女性というのは、目の前のものごとがうまくいくように人知れず目を瞑っておくものだと世の中的な共通感覚があった。また、今もなおその感覚が尾を引いていると感じることが往々にしてある。
「女の子は男の子より前に出てはいけない」「多少の理不尽には騒がず耐えることが強かな女性だ」「決めるのはお父さんだからお父さんに言って」そんなことを母親や年配の女性方から言われてきたので、自分もかつてそういう認識でいたことがあった。
ジャンヌもまた、全ての物事がうまくいくように、声を顰めて淡々と日常を送っている。
ジャンヌは夫と死別していて、この映画では父親の存在が描かれてはいないのだが、社会的に息を潜めた暮らしぶりが伺える。だが次第にフラストレーションが溜まっていく。

私が思うに、ジャンヌの”今日もいつもの生活”のテンポの歯車が狂い始めたきっかけは1日目の夜、息子が眠りにつくのを見届ける時の、息子との会話。
思春期で性の話をする年頃の息子が、確か”自分が女だったら好きでもない男と寝るなんて絶対ムリ”のような発言をする場面がある。詳しいセリフは忘れたけどそんなニュアンスだった。
もちろん息子本人には隠れて行っていることだが、ジャンヌは昼間に客を家に呼んで売春で生計を立てている。
”今日も全てのものごとがうまくいくように”と願い、女性として、母親として自分の心を無にして淡々と、見えないところで苦労をしているジャンヌ。
そんな気も知れず、お小遣いを渡すとこれだけじゃ足りないとせびってくる年頃の息子。
ジャンヌにとっては、たとえ息子に否定されようと、心を無にして身を削る選択が女性が一人で息子を養う術であり、母親としての愛なのだ。
だが、ジャンヌも生身の人間なので、ひょんな会話であろうと息子にそんなことを言われたら、心を無にするための歯車が狂ってしまうのも当然だ。結果として2日目からいつもの生活は変わらないが、おかしなミスをするようになり、3日目には客の男を刺してしまったところで映画は終わる。
最後の結末にはただただ、呆然としながらも同じ女性として同情してしまった。

ジャンヌの日常から垣間見たもの

シングルマザーの暮らしのリアル。
女手ひとりで息子を育てるため、生きるために淡々と日常を送っている。ただそれだけ。
ただそれだけなのに、まるで牢獄に入れられて実刑を受けている罪人のような生活のように見えた。
そのように私を感じさせた手法として、例えば食事の支度をしたり後片付けをしたり、名前の無い家事含め、いわゆる”女性の無償労働”と呼ばれるシーンがめちゃくちゃ長回しで撮影されている。
”退屈”を味わうことで鑑賞者も女性の一日の行動をリアルに程近く感じ、フェミニズムに対峙するという効果がある。それこそがこの作品の評価でもあり、醍醐味でもあるのだと私は思う。
もし映画をまだ観ていないのなら、可能な限りぜひ映画館で鑑賞してほしい。
なぜなら、家で見ようもんなら大半の人が耐えきれず99%の確率で早送りするか、途中で中断してしまうと思う。はっきり言っておくがそのくらい退屈をガッツリ味わえる映画だ。

そんな奉仕ばかりに身を捧げる地獄のように退屈な日常の中、用事で外出した帰りに寄る喫茶店で少しお茶をするひとときだけが、ジャンヌにとっての”日常からの逃げ場”のように見えた。昔は”女性は家の中にいるもの”とされていたので、女性が無償労働から解放される場所及び時間、それは外の世界にあった。
喫茶店文化改めカフェ文化は昔から今もなお女性にとっての憩いの場であるのだ。

また、ジャンヌが息子と一緒に食事の時間(家族の時間)を過ごすのは夕食時だけだ。
その貴重な家族時間に、ジャンヌを置き去りにして本を読みながら食事をしようとする息子に”食事に集中する”ように注意する場面。(毎日同じように注意しているのだろう。)
思春期の息子にとっては母親との食事の時間を過ごすことより、他のことに関心が行ってしまう年頃なのだ。だが、ジャンヌにとっては大切な家族と過ごす時間であり、自分がこの時間のために作った料理を振る舞い、社会の影に息を潜めない時間だ。
このシーンは地味ながら、”食事に集中してほしい”=”自分に関心を向けてほしい”という心の叫びのようでグッときた一面だ。

フェミニズムは続いていく

映画監督シャンタル・アケルマンの当時の思い半世紀近くを経て実を結び、この作品が今になって再評価を得たということは、時代が追いついてきたのだろう。

”フェミニズム”は常に時代にの流れによって問題の内容や質が変われど、問題がそこにあり、女性に限らずいかなる立場の人々が生きづらくならないよう、理解し合うために話し合い続けていく必要があるからこそ存続していく言葉だ。

こういったフェミニズム映画をきっかけにフェミニズムの歴史を遡っていくことで、現代の女性の生き方に対して思うこと。
私は女性として、今でも”女性であることがしんどい”と思うことが無くなったとは、到底言い切れない。
それでも、先人の女性の苦悩があり、女性解放運動があり、映画としての表現があり、小さな一歩のひとつひとつの積み重ねで現在ありがたいことに、”昔よりマシ”になってきていることは確かだと感じる。

生物的な性差がある以上、完全に平等を求めることはどうしても難しい。だけど、苦しい思いをしているのなら、ジャンヌのように目を瞑らずに、声に出してもいいのだ。自分とは違う立場で苦しんで生きている人がいることを知って、理解し合い、解決するためにはどうすればいいのかを考えるきっかけになる。問題提起の繰り返しによって、社会は少しずつ良くなってきているのだと信じたい。フェミニズムは続いていく。
未来を生きる人たちが、”今よりマシ”に生きられることを祈っている。

フェミニズムにまつわる映画は色々観ているので、またその時代背景によって問題があれこれ違っていてこれまた大変興味深いので、ぜひ知って欲しい。
これからまた少しずつ書き留めていきたいと思っております。

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