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ぜんぶ自分との戦いだ

長い間、無意識に他者の評価を気にしていたと思う。
高校まではテストで点数が付けられていたし、大学でだってレポートみたいに違う形式が加わっただけで、評価はされる。

自分で言うのもなんだけど、私は結構「優等生」だった(はずだ)。
もちろんどうしても苦手で、ぎりぎりで取った単位もあった。
でも大抵の講義にはきちんと出席していたし、レポートだって期日には提出したし、テストとなればできる限り勉強した。
ゼミでは積極的に行動して、同期はちょっとひいていたと思う。
「単位取れればいいや」なんて言いつつ、内心では少しでもいい成績がほしくて努力せずにはいられなかった。

その癖が今でも抜けていない。
修論のための作業や読む論文、草稿の提出1つとっても、指導教官の顔色を窺わずにはいられないのだ。

ある時、と言っても比較的最近だが、期限までにここまでやってねと言われていたことがどうしても終わりそうになく、半ばパニックになった。
そうして、どうしようもなくなって、ある人のところに相談に行ったのだ。

その人の答えは意外なものだった。

「『できてない』ということに対して、先生がどう反応するのか気になるんですね」
「大切なのは、ニコさんができるところまでやる、ということですよ」
「だから、先生のことは一旦おいて、自分との戦いの時間にしませんか」

私はそう言われて、すーっと落ち着いて、作業に戻れた。
「他人なんて関係ない」とか「他人の評価なんて気にしない」と言うのと、きっと根本的なメッセージは同じだ。
「自分との戦い」と言い換えるだけで、こんなにも伝わり方が違うなんて、意外だった。

そうなんだよな。
他者に評価されるということは、評価は他者の仕事だという証拠だ。
私が責任を負う範疇ではない。

私にできるのは、自分ができることをして、自分が納得できる成果を出すことだけだ。
自分との約束を守り、できることを積み重ねて、1つ1つ前に進んでいくしかない。

修論の例えで説明したけれど、就活だって、同じことだ。
私にできるのは、少しでも自分について伝えられるよう、丁寧にESを書いたり、面接の準備をしたりすることだけだ。
それで私を評価するのは企業の仕事で、そこに私がどうこう言っても仕方ないのだ。

自分との戦いは、ひどく孤独な作業だし、裏返すと自分で自分を責める温床になりかねない。
だから、自分が何かできたら見逃さずに褒めることも大切にしている。
よしよし、ちゃんと決めたことできたじゃん、と…。

もし自分で決めたことができなかったら、あまり自分を責めないでどうしてできなかったのかを冷静に分析することにしている。
寝不足だったとか、疲れていたとか、低気圧だったとか、どうしようもない理由があってできなかったのに自分を責めてもいいことはない。
むしろ、その状況でもこれだけはできたんだからよかった、今日はもう休もうと声を掛けるようにしている。

他者を意識の外側において、自分との戦いだと考えること。
そしてできたことに目を向け、できなかったことをやるためのエネルギーをこまめに蓄えること。
これだけで、大分生きやすくなった。

最後までお読みいただきありがとうございます。 これからもたくさん書いていきますので、また会えますように。