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【表現評論】1年くらいひたすらnote記事を書いてみた〜世界考察とメモリーズオフコアレビュー〜 その1

⚫︎ひたすら書いてみた結果

タイトルの通り、ここ1年くらいひたすらnote記事を書いている。特に今年の2月からはほぼ毎日書いており、ここ130日くらいは毎日投稿のマークが出ている。毎回2000字を切らない程度の記事を書いており、ものによってはもっと長い。つぶやきしか上げない時もあるので、平均文字数を簡単に測ることはできないが、今年だけでも数十万字書いていることは確かである。小説にすると5冊分くらいはありそうだ。

これらを書き続けたことで一体何が得られたのか。とりあえず一番大きく得られたものは、ひたすら書き続ける能力である。ひたすら書き続けて得られる能力は、ひたすら書き続ける能力である。当たり前の話だ。むしろそれ以外あるのだろうか。内容などとは関係なく、ひたすら文字数を連ね続けること。それを毎日のように続けること。その類の能力は確実に得られただろう。これだけは自信を持って言える。

あとは、いくつか文章を書く仕事ももらったのだが、これはnote記事を書き続けたことが直接的な要因ではない。ただし、そういう仕事が来た時に、引き受けられたのは、毎日文字を書き続けたからに他ならない。よってある程度のボリュームのある記事を、しっかりとまとめる自信も、それなりに身についているのだろう。

そして、得られたもので一番大きいのは、二つのマガジンを書いたことによる、ある種の気づきである。これは記事の中で徐々に述べていきたい。

⚫︎世界考察とメモリーズオフ

1年間ひたすら書いたものは主に二つで、世界考察とメモリーズオフコアレビューである。

世界考察は普段社会を見ていて、疑問に思ったことを言語化していくマガジンである。特に記事として多くなったのは学歴系の話だが、もう学歴は最終結論が出ているのでこれ以上語ることはない。というか学歴に限らず、世界考察はもうこれ以上書く必要がなくなった。その理由はあとで述べる。

一応、内容を知るために伸びた記事を5本ほど上げてみたい。

世界考察については世界考察を見ていただく方が早いだろう。ぜひ全文読んで全てにスキマークとコメントをつけておいてほしい。

さて、もうひとつはメモリーズオフという、家庭用ゲーム機で発売された、恋愛ADVゲームの記事である。こちらのシリーズは9作品(10作目も出る予定)あり、それを全て再プレイして、詳細なレビューを書くというのが、メモリーズオフコアレビューの内容だ。こちらは伸びた記事のリンクを貼っても、誰も読まないので貼らない。というか、内容を知らないと読んでも意味がない。文芸評論はその文芸作品を読んでなければ、ほとんど意味不明である。メモリーズオフコアレビューもそういう類のものである。そう。メモリーズオフコアレビューとは、恋愛ADV版文芸評論なのだ。現在7作品目だが、すでに40万字ほど文字数を費やしているシリーズで、世界考察より遥かに長い。もはやライフワークである。こちらは全文読んで全てにスキマークとコメントをいただく必要はない。

この二つのマガジン、ぱっと見では、真面目に書いたものと、遊びで書いたもののように見える。実際にその通りである。ただし真面目に書いているのはメモリーズオフコアレビューで、適当に遊びで書いたのが世界考察だ。どう考えても逆だろ、と言いたい人もあろうかと思うが、どう考えても逆ではない。本当にメモリーズオフコアレビューは真面目に書いているし、間違いなく本質としても、こちらの方が価値があると信じている。なんなら世界考察など全く価値がない。読めと言ってるのに価値がないとはどういうことなのか。いや、価値はある。価値はあるが、価値はない。それが世界考察の本質である。メモリーズオフとは本質的に真逆だ。

ということで、今回はこの二つのシリーズが書き手から見た表現として、どのような意味を持つのかについて、少し語ってみたいと思う。

⚫︎世界考察について

世界考察の本質とは何か。結論から言ってしまう。世界考察の本質は受け売りである。博識な人が読めばわかると思うが、世界考察の記事はどっかで聞いたような話ばかりである。そもそもこのシリーズは養老孟司の考察から始まっており、全記事で養老氏の受け売りのような分析がなされている。唯脳論を拡張して社会考察を進めたと言ってもいい。進めたと言えば聞こえはいいが、辞書を片手に翻訳しているようなもので、そこにオリジナリティは皆無である。それが全記事に渡って続く。他にも影響を受けまくっているものはある。この記事で逐一それを紹介するわけにもいかないので全部は紹介しないが、中核にあるのは養老氏である。

世界考察には養老氏という元ネタありきで、世界の事象を分析してみた、という価値がある。なので、翻訳難易度の高い言語の本を、直訳した程度の価値は認められるだろう。その意味で読んでる人を退屈させる記事ではない。あとは学歴ネタは多少のオリジナリティも含んでいる。むしろ、オリジナリティという点では、ここにしかない。

以上のように世界考察には翻訳程度の価値があるわけだが、同時に価値がないとも言っている。なぜ価値がないのかと言えば、自分の思考が深まってないからだ。これを書いたことで自分の中に何か変化が生まれたのだろうかと問いかけると、何も変化がない。多少頭の中が整理されたことと、多少の新情報が付け加わっただけで、本質的な部分で一つも変化がなかった。それはそうだろう。辞書片手にひたすら翻訳し続けて何が得られるのかという話である。翻訳能力はつくのかもしれないが、翻訳という行為自体があまり本質的だとは思われない。他人の思考を元に社会を翻訳することで得られるのは、他人の思考を元に社会を翻訳する能力だけである。それは本質なのだろうか。そこの自分はあるのか。翻訳という行為には自分がない。結局世界考察で自分が変わらなかったのは、世界考察に自分が不在だったからだ。そもそも客観的にとはそういうことである。客観の世界に自分はいない。客観的に何かを成しとけようとしても、何も自分は変わらない。世界考察を書き続けて得られた気づきのひとつは、その事実である。

ではメモリーズオフコアレビューはどうなのか。その2へ続く。


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