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【世界考察36】毎日投稿がもたらす事

ここ最近1ヶ月ほど毎日投稿していた。正確には36日、今日で37日目である。世界考察や表現評論含めて、数えたわけではないが、5万字以上は書いただろうか。小説だと半分くらいか。そのうちの1万字くらいはギャルゲーの評論だが、なんであれ書いたことには変わりない。

結果として、メリットは少なかった。明確な害はあった。

一応のメリットといえば観覧数がそこそこ上がっていることだが、ビューの数が読まれた数でもないので、数をどれだけ当てになるのか。いいねがついているのは流石に読まれているのだろうか。とはいえ、数字を追い求めまくっているわけでもないので、観覧数が上がることはメリットではない。

数字がそこそこ揃った結果、私の記事の中では、学歴系の記事が何より伸びることはよくわかった。数だけを求めるならそちらにシフトするのが正しいが、絶対にそんなことはしない。学歴に関してはたまに思い出したかのように書くくらいがちょうどいい。もしくは書かないくらいがいい。

文章を書く訓練という意味では、ひたすら毎日書くことは無意味ではないのだろうが、私は文章を書くのは苦手ではないので、苦手を克服すると言う意味でも、あまり意味はなかった。

何か新しい考えが生まれたのかと言えば、それもない、こともない。自分の中の考えの輪郭のようなものが、明確になったのは、唯一のメリットかもしれない。特に能力主義の根本にあるものがかなり見えてきたように思う。見えただけで解決法は何もないのだが。そもそもあったら既に誰か解決してるだろう。

害の方は、明らかに単体の記事のクオリティが下がっていることだ。最初の方が4,000文字くらいの記事を、それなりの時間をかけて書いていたので、内容もかなり含まれているものが多かった。最近は1,000字をオーバーするくらいが関の山で、内容もほとんど単一のものしかない。デジャヴか、と思うような記事も増えている。同じ内容を擦っている記事もある。時事ネタは基本的に扱わないと決めているので、ネタが切れる。毎日なんらかのネタを考えているのだが、記事のためにネタを考えること自体がおかしいように思える。何らかのネタが出てきたら記事を書く方が自然だ。

取り合えず3ヶ月くらいは毎日投稿を続けていきたいとは思うが、同じネタがリバイバルされることは必至である。投稿のための投稿が増えざるを得ない。いずれ量が質を凌駕するのか。それもやってみないとわからない。世界考察は周央サンゴと志摩スペイン村がテーマだった。クオリティ云々よりも、情熱を持って擦り続けていくことが重要だ。


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