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【世界考察2】知のオワコン化と大学受験の終焉/知よりも重要な能力〜周央サンゴと志摩スペイン村〜

●知のオワコン化と大学受験の終焉

私は大学受験の講師をやっている。専門は理系科目全般で、人によっては英語も国語や社会も指導していた。なんでもやっていたと言っていい。5年ほどやっていて、指導人数は非常に少ないが、個人指導では難関国立医学部に合格者を出しているし、そのノウハウも確立しているので、普通に指導ができて、それで食っていける人間と考えてもらっていい。

大学受験に関しては各方面からあれやこれやと批判されており、さらにその批判は大抵真っ当なものだ。しかしながら18歳くらいの(学業面で)優秀な層にとっては非常に意義がある通過儀礼であり、忍耐力や素直さを見抜く材料にもなるとは思っていたので、しばらく関わっていた。しかしその思いも近ごろ消え失せている。消え失せているのは批判が真っ当だからではない。

AIによって人間の知がオワコンになるからだ。

何を当たり前の話を、という声が聞こえてくる。私もAIがどんなものかくらいは知っていた。近い未来、AIが進化し、知という分野で、人間の仕事の一部が、AIに取って代わられるイメージもあった。しかし、私は完全にAIというものを舐めていた。進化のスピードも、その到達地点も、かつてのイメージより遥かに凄まじいことを、最近ようやく理解した。ありうる未来は、単純作業や多少複雑な作業が、いずれ取って代わられるレベルではない。AIによって知的作業のほとんどが不要になるかもしれないというレベルだ。こうなると、知のオワコン化は想像以上に早くやってくるだろう。知識も、知恵も、知とつくものはオワコンになる。本当に深い知恵の方はしばらくセーフかもしれないが、少なくとも大学受験レベルの知恵など軽く吹き飛ぶだろう。今後、頭がいいことに何の価値もない時代が来る。しかも想像以上に近い未来に。そうなったら人間は高度な学問を修める必要がない。従って知を問うシステムとしての大学受験もいらない。もっと突き詰めると義務教育以外はいらないかもしれない。

自分の食い扶持を守るだけだったら、一生懸命に大学受験の価値を説き続けるほうが正しいわけだが、どう考えても、そうは思えなくなった。本当に知に価値がなくなるという、そんな未来しか見えなくなったのだ。

私が考える未来では、人間が修めるべきものは、社会を形成するために必須な、中学程度の知識でいい。それ以上は必要がない。浅く広くが重要である。大学受験のようにマニアックな知識をこねくり回したり、短い時間制限の中、異常な処理速度で深く思考する能力は必要ない。趣味でやりたければやればいい。やりたくなければやらなくていい。その程度のものである。e-sportsと大差ない。e-sportsを馬鹿にしているわけではない。全てがフラットになっただけだ。受験勉強のような学習の在り方は、すでに時代遅れだと感じてはいたが、もはや決定的になった。過大評価は続かない。続けてはいけない。忍耐力や適応力を測るにしても他のやり方はある。受験を長年やらせる必要はない。

というのは最終的な結果だが、より直近のことで言えば、講師の価値もさらに薄れていくだろう。AIが分析して個人に最適な問題演習、講義動画を選別できるようになれば、あと必要なのは、モチベーターだけである。それが講師である必然性はない。Vtuberみたいな存在でいい。でいいというか、そっちの方がいい。

そんなことをやっている間に、AIが研究したり、AIがコンテンツを生み出す時代もすぐにやってくる。個別最適化も、教育全体に行き渡る。そうなると高度な学問はAIがやってくれるので、我々は基礎教養を身につけておき、必要なことは随時参照すればいいだけになる。もはや何を参照すればいいかすら、AIが判断してくれるかもしれない。知のオワコン化だ。この一連の流れの始まりから終わりまで、それほど長いスパンがあるとは思えない。

こうして人間の知の時代が終わる。知としての大学受験も終わる。

●知は終わる。人間は終わらない

知は終わるが人間は終わらない。人間も世界も知だけでできているわけではない。そんなものはごく一部だ。人類史で考えると、知など文明を数千年だけ支配していた何かである。どちらかといえば、腕力で支配していた時代の方が長いはずだ。100年後は、なぜ知ごときでマウント取ってた時代があったのか、となるかもしれない。むしろ100年もいらない。しかし知の時代の先に必要な能力は何なのだろう。次は何の時代のなのか。

ここで出てくるのが周央サンゴと志摩スペイン村である。
ついにサムネ回収の時だ。

周央サンゴ(以下敬称略)はにじさんじ所属のVtuberである。志摩スペイン村は三重にあるテーマパークである。志摩スペイン村はスペインを題材にした場所で、過疎っていることで有名だったらしいが、周央サンゴが何の脈絡もなく志摩スペイン村に行ってその素晴らしさを推しまくった結果、両者がコラボすることになり、今までになく人が集まるという出来事があった。

一体お前は何を言ってるんだと。そんな声が聞こえてくる。今の話と何の関係があるのかと。無駄話してんじゃねえよと。しかし話はちゃんと繋がっている。ファンだからこの話を推しているわけではない。むしろ周央サンゴについてはそこまで詳しく知らない。志摩スペイン村も行ったことはない。しかし周央サンゴと志摩スペイン村の出来事は、次の時代に必要な能力を示唆している。

腕力も終わり。知も終わり。一体人間は今後何をやって生きていくのか。第一次産業まで完全に機械化された未来を考えていくと、もはや遊ぶくらいしかやることがない。これはいろんな人が言っていることで目新しさはない。しかし遊びの中でどのような能力が試されるのかは重要な問題だ。

私は周央サンゴと志摩スペイン村の件から、自分の感情を増幅して広くみんなと共有できる能力が次の時代で重要な能力だと捉えた。以前落合陽一氏と東浩紀氏の対談で、喜びの共有がAI時代におけるテーマになっていたが、その話に近い。共有は喜びだけではないだろうが、遊びにおいて喜びの共有は重要なテーマであり、その能力をいかに持ちうるかは、次の時代の影響力を占めることになるはずだ。そういう意味で共有の時代と言える。

周央サンゴがいかに喜びを共有しているかは動画を見て貰えば早いが、語りが細かいのに聞いてて飽きることがなく、本当に志摩スペイン村を楽しんでいることが伝わってくる内容である。しかも何の繋がりもないのに長期間推し続けていたので、ビジネス路線でないことも伝わってくる。やってたことはひたすら志摩スペイン村を語っていただけである。その結果、多くの人と感情を共有し多くのものを生み出した。私はここに次の時代を見る。

事例を単純に見るとナラティブ能力の育成に近い話だが、このケースは単なるナラティブ能力の成功ではない。周央サンゴの場合は志摩スペイン村を1年以上擦り続けており、並々ならぬ情熱という類まれな能力も付け加わっている。そこを外すと何も見えてこない。

情熱とナラティブの両立。

それを制するものが、共有時代を制する。それをどうやって身につけるのかは全く見えていないが、今のうちから情報発信と自分を物語る訓練はやっておきたい。周央サンゴと志摩スペイン村の件は、自分が言語化できていない何かがまだ含まれている。喜びの発見も重要なファクターだと思うが、まだ言語化できていないので、言語化できた時は続きを語りたい。

私は今まで散々勉強してきて、知識を蓄えて、知的欲求を満たして、それを金に変えるという人生を生きてきたわけだが、もう勉強はいいんじゃないという気がしている。嫌いになったわけでもないので、なんらかの学習は続けていくが、ただの趣味である。全員やるべきことだとは思えない。もう少しは大学受験の意義も残り続けるのだろうが、自分の意識はそこからフェードアウトしつつある。悲しいわけではない。喪失感もない。新しい自分を作り直す必要に迫られることはむしろ楽しい。一刻も早く時代の転換点をこの目で見てみたい。

「知」なんて「しょうもないもの」はAI神様に任せたい。
もっとやるべきことがあるはずだ。


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