見出し画像

2020年3月福島取材⑬/添乗員のアナウンス

「有料」とありますが、基本的に全て無料で読めます。今後の取材、制作活動のために、カンパできる方はよろしくお願いします。

〜〜〜〜〜

<続き>

マリンパークなみえから、バスの時間もあるので最短ルートを通って浪江駅へ向かう。

スクリーンショット 2020-06-04 11.38.05

画像2

この周辺はどんな形に変貌していくのだろう。利権屋があれやこれやと狙っているが、果たして奴らの思惑通りにいくのだろうか。

2011年3月12日、津波に襲われた後のこの辺りの写真を、浪江から避難している人に見せてもらったことがある。朝なのに夜のように、真っ暗で真っ黒な写真だった。その中には、瓦礫の中で救出を待っていた人もいたはずだ。しかし、原発事故のため避難を余儀なくされ、誰も救出することが出来なかった。

そこが今は、更地になり減容化施設が建ちフレコン置き場になっている。

画像3

震災から9年、この土地は蹂躙され続けている。

画像4

画像5

画像6

何度見ても切ない光景だ。

画像7

泉田川観光食堂…解体中。一度、内部を見たいと思っていたのに。

画像8

鮭の孵化場も解体。これも五輪のためか。9年近く放置しておきながら、聖火リレーの直前になって、なかったことにするかのように解体する。

これを復興への第一歩と見る人もいるだろう。五輪がなければ、原発事故で放出された放射性物質で汚染された土地など、9年どころか何十年も放置されたかもしれない。しかし、解体して除染して何もかも更地にして、何年にも渡って放置された場所に一体どれだけの人が帰りたいと願うだろう。どうせなら、年に数度立ち入れる状態のまま、ただ、大切な故郷として、そこにとっておくことはできなかっただろうか。よそ者の勝手な考えかもしれない。批判されるかもしれないが、僕はそう思った。

画像9

画像10

画像11

この橋は歩行者用か。初めて渡る。地図には載ってなかった。

画像12

請戸川。

画像13

グーグルマップではここに道があるのだが…流されたか…

何もない更地を目的地に向かって歩く。

画像14

これはおそらく去年の台風の傷跡。

画像15

ここは…家庭菜園にしては随分広いな。

画像16

画像17

ビニールハウス。

画像18

主に花の栽培を行うようだ。そういえば、もっと山に近い場所に住んでるおじさんに、うちの息子が花を育てて東京に出荷してるから今度見てくれ、と言われたっけ。今、あの人はどうしているだろう。

画像19

復興公営住宅とその向こうに浪江創成小中学校、浪江にじいろこども園が見える。あそこに住む人にとっては、イオン浪江の開店はとても良かっただろう。

画像20

画像21

画像22

画像23

画像24

そういえば、こういった通所介護施設は、今回のCOVID-19でやはり休業になったのだろうか。浪江には、避難先から高齢者だけ帰還している世帯も多い。通所施設が休業となれば、ほとんどの時間を家に篭って過ごすことになるだろう。それによって認知症も進むし、運動機能障害も進む。

COVID-19は、本当にこういった社会的弱者を直撃する。

画像25

去年の台風ではすごいことになったのだろうなあ…あのとき、浪江の情報もチェックしていたけど、この川も氾濫していた。

画像26

画像27

画像28

駅前は解体ラッシュ。あれもそれもどれもこれもただただ解体。更地だらけにしてここをどうしようというのか。何がしたいのかサッパリわからない。

ここがどうなるのか、この次の日に会った双葉町から避難しているUさんは、廃炉作業員の住む家を南相馬の原町から移転したいんだと言った。ここを更地にして、新しく「スーパーシティ」でも作る気なのだろうか。福島県外では立入禁止で除染となる空間線量のエリアに、新しく町を整備して人を住ませようというのか。

「私たちの暮らした町が、知らない町になっていく」

浪江から避難した友人はいう。それを「復興」と呼んでいいのだろうか。

画像29

代行バスギリギリセーフ。行きと同じく補助席まで満員。そして、アワプラのHさんはまだ取材していた(笑)。

画像30

画像31

東電の社宅。

画像32

双葉町。ここは伝承館…?になるのだろうか。

画像33

画像34

こんな場所がまだまだたくさんある。常磐線が全通し、代行バスがなくなれば、車を持たない僕にとっては見納めか。誰か知人に乗せてきてもらうしかない。

富岡駅に着いたとき、添乗員さんは力を込めて「代行バス最後の運行日です」とアナウンスした。この後、最終まで2往復ほどしたはずだが、感慨深かっただろうと思う。丸一日代行バスに張り付いていたアワプラのHさんも。

代行バスに乗ったのは17年3月が初めてだ。それから何回乗っただろう。15往復はしただろうか。その間、東電のよく意味のわからない施設が出来たりはしたが、風景はほとんど変わらない。本数も少なく乗り換えもめんどくさかったが、確実に福島取材の1ページとして僕の頭には残っている。

いつまでもなくならない廃墟の数々。ネトウヨNPOが桜で原発を隠そうとも、私有地にまで足を踏み入れることはできない。原発事故が何をもたらすか、まざまざと見せつけた代行バスの役割はとても大きかった。大熊のバリケード通りはしばらくはなくならないだろう。

代行バス最後の運行日、箭内道彦の「福島をずっと見ているTV」では、添乗員さんにだけクローズアップして1日を追っていた。「福島の一部だけ見ているTV」に名前を変えろ。

画像35

富岡からの電車もいつもよりは多くの客を乗せていわき駅へ。僕はいつも、いわきよりも北では線量計にスイッチを入れる。移動中の時間も含め、この日の積算線量は約7.5時間で1.68μSv。海寄りの道を歩いたので比較的低めだ。

画像36

いわき駅前では、反原発団体が街宣を始めていた。とにかく疲れていたので、すっと前を通り過ぎ、目の前のデパートの“デパイチ”で今夜のお酒と食事をゲットする。経費節減だ。

画像37

うまー

画像38

うまうま

画像39

うまうまうま馬

この日1日を振り返りながら、次の日のために酒は少なめで、早めに眠りについた。

<続く>

ここから先は

0字

¥ 100

サポートしていただけると大変ありがたいです。いただいたサポートは今後の取材活動や制作活動等に使わせていただきます。よろしくお願いします!