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【日露関係史13】シベリア抑留

こんにちは、ニコライです。今回は【日露関係史】第13回目です。

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1945年8月の日ソ戦争によって、大陸における日本の支配領域である満州国、大連・旅順、朝鮮半島北半分、そして樺太南部と千島全島がソ連軍に占領されました。戦争の結果、60万人の日本人将兵を捕虜として獲得したソ連政府は、彼らを「労働力」として使用する決定を下し、ソ連国内へと強制連行しました。今回は、日ソ戦争敗戦直後から11年間続いたシベリア抑留について、見ていきたいと思います。


1.「現物」賠償と「労働」賠償

第二次世界大戦全体での戦死者数は5000万~6000万人といわれていますが、ソ連の死者・行方不明者はその半分近い2600万~2700万人、そのうち2000万人が男性だったと推計されています。このため、第一次世界大戦の反省から米英が賠償請求に慎重だったのに対し、甚大な被害を受けたソ連は賠償の取り立てを第一に考えていました。1945年7月のポツダム会談では、賠償問題についても協議され、米英仏ソの4ヵ国がドイツを分割占領し、それぞれの占領地域から賠償を徴収することが合意されました。

第二次世界大戦の犠牲者数
ソ連と中国の犠牲者が突出して多いことがわかる。
CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=20991961

この合意に基づき、ソ連は占領したドイツ東部から「現物」賠償の徴収を大規模に行いました。工場、ガス水道、鉄道などの施設が徹底的に解体され、ソ連へと運び出されました。冷戦期、ドイツは東西に分割され、東ドイツはソ連の同盟国となるわけですが、当時はまだそうした事態は想定されておらず、現物賠償にはドイツを再起不能にする狙いもありました。

ドイツの産業解体の概要図
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4800706

ソ連が求めたもう一つの賠償が、「労働」賠償です。先ほど述べたように、参戦国中最大の死者を出したソ連では、大量の人口喪失による労働力不足が懸念されおり、これを補うために、獲得した大量のドイツ軍捕虜に「労働」を課したのです。ベルリン陥落の2か月後から、ソ連の占領地域から捕虜が移送され始め、ソ連国内の矯正労働収容所捕虜収容所へと収容されました。その数は戦時中に捕らえた捕虜も合わせて約180万人といわれ、抑留は1948年まで続きました。

収容所へ連行されるドイツ人捕虜(スターリングラード,1943年)
収容所の環境は過酷で、まともな給食や医療を受けられず、戦時中は死亡率が50パーセント以上にまで上昇した。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3473256

そして、これと全く同じことが、極東におけるソ連占領地域で行われることになります。

2.日本人捕虜の移送

日ソ戦争において、極東ソ連軍が捕虜とした日本軍将兵は約60万人とされています。彼らは、1000人単位の作業大隊に編成され、牡丹江や奉天など満州各地の野戦収容所に収容されました。これらの収容所は設備が貧弱で暖房もなく、捕虜たちは劣悪な衛生環境に置かれ、食糧や水も十分に与えられなかったことから疾病率が高く、全満州で約1万5000人が死亡しました。

1945年8月23日、スターリンを議長とする国家防衛委員会は、「決定9898号」を出し、「極東部、シベリアの環境下での労働に肉体面で適した」日本軍捕虜50万人を選別し、ソ連領内へと移送することを指示しました。この決定に従い、日本軍捕虜は、各地の野戦収容所から鉄道、船を利用したり、徒歩行軍させられたりしながら、強制移送されていきました。しかし、移送中にも、列車内の不衛生な環境や、過酷な徒歩行軍によって体調を崩したり、死亡したりする人が続出し、捕虜収容所に到着したときにはすでに「使い物にならない」状態にあり、元の野戦収容所へと送り返されることも少なくありませんでした。

ソ連による日本軍捕虜の抑留は、一般的に「シベリア抑留」と呼ばれています。確かにその大半は極東とシベリアではあるものの、実際の送り先はウズベキスタンなどの中央アジア、ウクライナ、ジョージアなどのコーカサスなどソ連全土に及んでいました。また、ソ連と共に対日参戦したモンゴルにも、報酬として捕虜が送られており、さらに、南樺太北朝鮮などでは、捕虜だけでなく、現地居留民や避難民までもが現地の収容所に収容される「現地抑留」が行われていました。捕虜・抑留者は総勢70万人以上と推定され、まさに「全ソ連圏抑留」とでもいうべき規模だったのです。

ソ連・モンゴルにおける日本人収容所の分布
CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=63850431

3.収容所での三重苦

先に述べたように、収容所は全ソ連圏に分散していたため、地域や収容所ごとに待遇面での格差はあったものの、ほとんどの捕虜を苦しめたのは「酷寒、飢餓、重労働」という三重苦でした。

日本人用の収容所
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=118209033

シベリアでは10月上旬には冬が訪れ、真冬となると気温がマイナス40~50度まで低下する酷寒となります。ソ連政府は、日本人捕虜が酷寒に不慣れなことを考慮し、屋外作業時には季節に応じた服装をすること、凍傷防止措置を取ること、収容所内を一定の室温に保つこと酷寒の日は屋内作業をすることといった命令を各収容所へと出します。しかし、防寒着が不足していたことや、収容所側がノルマ達成を第一に考えたことなどから、こうした措置は必ずしも実施されませんでした

ロシアの気候区分
ロシアのほぼ全域とカザフスタンまでが、寒帯・亜寒帯に属する。
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また捕虜への給食に関しては、パン300グラム、米300グラム、肉50グラム、魚100グラム、野菜600グラムなど、1日あたり3500キロカロリーが支給されることになっていましたが、こちらも寒さ対策と同様に守られることはありませんでした。戦後のソ連は食糧難に苦しんでおり、46‐47年にかけては飢餓で100万人が死亡するような状態であり、収容所への食糧供給は後回しにされたのです。捕虜への給食は基準をはるかに下回る量となったうえ、収容所職員による横領や、旧軍将校によるピンハネも起こり、兵卒ほど苦境に立たされました。

日本軍捕虜の給食基準(1人1日/単位はグラム)
収容所内では旧軍の階級制度が維持されたため、階級によって配給量が異なる。また、「民族食の調理」が義務付けられていたため、米や味噌が含まれている。

捕虜たちは、収容所直営事業や各省庁傘下の企業との契約に基づく労働に従事させられました。労働の内容は、農業・漁業、鉄道・道路建設、各種工場労働など様々でしたが、森林伐採鉱山労働貨車への荷物の積み下ろし三大重労働とされていました。労働には「ノルマ」が課されており、労働時間は1日8時間とされていたものの、1日のノルマが未達成であれば、超過労働を強いられました。また、安全対策が疎かだったことや、休息や栄養の不足による集中力欠如のため、労働災害が多発しました。

池田重善
ウランバートルの羊毛工場の作業大隊隊長だった池田は、ノルマを達成できなかった隊員にリンチを加え、30人近い犠牲者を出した。屋外の木に一晩中縛りつけ、翌朝には首を垂れて死亡している隊員の姿から、「暁に祈る事件」と呼ばれる。
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これら三重苦により、1945‐46年の冬には5万人以上の死者が出ました。その後は食糧事情が多少改善され、捕虜たちも過酷な環境になれたため、死者数は大幅に減少しますが、それでも全抑留期間を通してさらに1万人もの死者を出すことになります。

4.捕虜の「ソヴィエト化」

ソ連が日本人将兵を抑留した目的は、第一に労働力不足を補うためでしたが、第二の目的として、捕虜に再教育を施し、ソ連に忠実な「兵士」として日本に送り返して革命を先導させる、という意図もありました。このため、収容所では日本人捕虜に対する政治教育が行われました。

まず、政治教育の手段として取られたのが、収容所で定期的に配布された『日本新聞』です。『日本新聞』は1945年9月に発行を開始したプロパガンダ用の日本語の新聞で、その内容は、日本の財閥や軍閥批判戦犯問題、さらに天皇批判にまで及んでおり、最初は将校たちから反発を買いました。しかし、政治的に歪曲されても祖国の情報を知る唯一の手段であった『日本新聞』は、徐々に読者を増やしていき、1946年5月には「日本新聞友の会」が結成され、各収容所で反軍闘争民主運動戦犯追及が行われるようになっていきました。

こうした運動は「反ファシスト民主委員会」の設立へとつながっていきます。同委員会は、筋金入りのアクチヴ(活動分子)が主導したもので、収容所内で権力を持つようになり、反動分子との闘争として旧軍将校のつるし上げなどを行いました。1949年には、「スターリンへの感謝状」運動が起こり、6万人以上が署名しました。しかし、ほとんど捕虜は給食が少しでもよくなること帰国が少しでも早めることを期待して運動に参加したのであり、帰国後はソ連との約束を反故にして米国に情報提供するなど、すぐに転向していきました。

5.抑留者帰国の実現

捕虜の帰国が始まるのは、1946年12月に「ソ連地区引き上げに関する米ソ協定」が締結されて以降のことでした。1946年半ばに自国管轄下の日本人捕虜送還が9割に達したため、米国がソ連に早期送還を要求したためでした。協定では毎月5万人を送還することになっていましたが、この数字は翌47年年5月までしか守られず、送還者数は次第に減少していきました。ソ連側は港の凍結や日本政府の輸送船が少ないことを理由にあげていましたが、実際には、戦後復興のための労働力需要充足のため、国内の諸産業・諸地方から圧力があったためでした。

舞鶴港に上陸した帰還者たち
帰還者たちはナホトカから輸送船に乗り、舞鶴港に入港して日本へと帰還した。
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捕虜の送還は小出しに行われ続け、1950年春までには一般の捕虜たちが全員帰国を果たしました。しかし、これとは別に、さらに長期に抑留された人々もいました。彼らは警察官、憲兵、特務機関員、高級将校などの「前職者」であり、ただその職業であったという理由だけで、スパイや反ソ行為の疑いをかけられ、20年以上の懲役刑に処されていました。彼らは捕虜ではなく「政治犯」扱いだったため、囚人が収容される矯正労働収容所へ入れられ、さらに過酷な待遇にありました。

山本幡男(1908‐1954)
写真左。満鉄調査部に勤めていたことから、「スパイ罪」で自由剥奪20年の刑を受け、ハバロフスクの収容所に服役。捕虜たちによる句会を主催したが、54年に病死。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=128303244

この長期抑留者の送還実現に尽力したのが、日本赤十字社でした。ソ連は1951年のサンフランシスコ条約に参加していなかったため、日ソ間には未だに公式の外交ルートがなかったため、日本赤十字社が外務省の仕事を肩代わりしてソ連との交渉に当たったのです。この結果、1953年11月に共同コミュニケが調印され、同年12月から長期抑留者の帰国が始まりました。そして、1956年、日ソ共同宣言により日ソは国交を回復するとともに、最後の抑留者1026人の帰国が実現しました。こうして、最長で11年間も抑留されていたすべての抑留者が帰還することができました。

6.まとめ

ソ連の捕虜に対する過酷な待遇は、1907年のハーグ陸戦条約や1929年のジュネーヴ条約に違反しており、さらに11年にもわたって抑留したことは、日本国軍人は「武装解除後に家庭復帰」と定めたポツダム宣言に違反していました。日本人抑留者が受けた収容所での境遇の悲惨さは、現代に生き、衣食住が足りないということは滅多にない僕にはとても想像ができません。

さて、抑留者たちは1956年までに全員帰還を果たすのですが、これでシベリア抑留が終わったわけではありません。シベリアからの帰還者たちは「アカ」呼ばわりされて職を得ることが難しく、それに対して政府からの保障もありませんでした。元抑留者たちは、日本政府に対して補償を求める訴訟を起こし、それが認められたのは、なんと2010年のことです。それに関しても対象はソ連・モンゴル抑留者であり、北朝鮮や南樺太などの抑留者は現在も対象外とされており、これは当地での抑留について、実態解明が進んでいないこととも関係しています。また、抑留中に死亡した抑留者の遺骨返還の問題も残っており、未だ1万7000柱が行方不明となっています。シベリア抑留は、80年が経とうとしている今でも続いているのです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

シベリア抑留については、こちら

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