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【日露関係史14】日ソ共同宣言

こんにちは、ニコライです。今回は【日露関係史】第14回目です。

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1951年のサンフランシスコ講和条約により、日本は多くの連合国との戦争状態を終結させ、1952年には主権を回復します。しかし、冷戦が顕在化し、米ソの対立が激化する中、米国を盟主とする西側陣営に属すことになった日本は、東側の盟主となったソ連と国交断絶状態にあり続けました。ようやく1954年から日本とソ連は国交樹立交渉を開始しますが、そこにおいても冷戦構造が強く影響することになります。今回は、1956年の日ソ共同宣言調印に至る経緯について見ていきたいと思います。


1.断絶したままの日ソ国交

終戦後、日本は連合国の占領統治下に置かれます。ソ連は管理機関に参加していたものの、占領軍派兵は断られ、事実上米国の単独占領となりました。その後、米ソは、ドイツや東欧地域、中国・朝鮮半島などにおける戦後秩序問題で対立するようになり、互いに不信と戦争の危険を意識するようになります。1950年に朝鮮戦争が勃発すると、米国は日本を共産主義に対する防波堤とするべく、対日講和条約と日米安保条約締結へと動き出しました。講和の方針は、ソ連をはじめとする東側陣営も含んだ全面講和ではなく、米英など西側陣営のみとの片面講和としたのです。

1950年の社会主義国
1949年までに、ソ連の占領下にあった東欧諸国、中国、北朝鮮で社会主義政権が樹立した。なお、ユーゴスラヴィアはソ連と袂を分かち、オーストリアはソ連に占領されたものの中立国となった。

1951年9月4日、サンフランシスコにおいて52ヵ国の代表が参加する講和会議が開催され、8日には米英をはじめとする48ヵ国による対日講和条約が調印されました。しかし、ソ連は講和会議に出席したものの条約には署名しなかったため、日本とソ連との戦争状態は終結せず、国交は断絶したままとなりました。ソ連が講和条約に署名しなかった理由は、1949年に建国を宣言した中華人民共和国が招かれていなかったこと、講和後も米軍が日本に駐留することが定められていたためでした。

サンフランシスコ講和条約に署名する吉田茂首席全権
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さらに、米国は、日本とソ連が接近することがないように、領土問題というトゲを残しました。サンフランシスコ条約の第二条C項では、日本は千島列島と南樺太のすべての権利を放棄することが定められていましたが、放棄された領土がどの国に帰属するか明記されていなかったのです。ソ連代表アンドレイ・グロムイコは、同条項に対し「ソ連の完全な主権を認める」ように修正することを主張しますが、米英は講和会議は交渉の場ではないとして認めませんでした。さらに、日本が放棄する千島列島の範囲が明確にされていなかったことも、後に議論が引き起こされる原因となりました。

アンドレイ・グロムイコ(1909‐1989)
スターリンからゴルバチョフに至る歴代指導者のもとで外交官を務める。国連でしばしば拒否権を行使したことから、「ミスター・ニェット(ニェットは露語でノーの意)」と呼ばれる。
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2.日ソの接近

日本とソ連の接近が始まるきっかけとなったのは、両国における政権交代でした。

ソ連では、1953年に長年最高指導者の地位にあったスターリンが死去し、激烈な権力闘争の後に、ニキータ・フルシチョフ共産党第一書記の座を得ました。フルシチョフは、資本主義陣営と社会主義陣営の対決は不可避であるとするスターリン流の対決型外交を改め、両陣営の「平和共存」路線へと転向し、西独、フィンランド、ユーゴスラヴィアなどの旧敵国や対立国との関係調整へと動き出しました。こうした中で、日本との関係途絶についても見直されるようになったのです。

ニキータ・フルシチョフ(1894‐1971)
スターリン亡き後のソ連共産党第一書記、1958年からは首相を兼務。フルシチョフの治世は、平和共存が唱えられ、国内的にも弾圧の手が緩められたことから、「雪どけ」の時代と呼ばれる。
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一方、日本では、1954年11月に吉田内閣が総辞職し、翌12月に鳩山一郎内閣が成立します。外交では対米一辺倒だった吉田と異なり、吉田に負けず劣らぬ反ソ・反共でありながら、「自主外交」を掲げた鳩山のもとには、ソ連や中国との国交正常化を望む杉原荒太松本俊一河野一郎といった政治家が集まっていました。鳩山は就任後はじめての施政方針演説において、「これまで国交の開かれざる諸国との関係をもできうるかぎり調整してゆく方針である」と宣言し、中国やソ連との国交正常化に前向きな姿勢を示しました。

鳩山一郎(1883‐1959)
戦前戦中を代表する自由主義者であり、軍国主義から距離をとった。戦後は公職追放されるが、刑期を終えた後、1952年に政界復帰。1954‐56年の2年間、3度内閣総理大臣を務めた。
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先に歩み寄りを見せたのは、ソ連でした。1955年1月25日、KGBの諜報員であり、ソ連通商代表部臨時首席の肩書を持つアンドレイ・ドムニツキーが、鳩山の私邸を訪れます。ドムニツキーは書簡を鳩山に手渡し、日ソ間の戦争を法的に終了させ、領土、通商、戦犯、国連加盟などの諸懸案に関して交渉したい、という希望を伝えました。この「ドムニツキー書簡」をきっかけに、日ソの交渉が始まることになります。

3.北方領土をめぐる対立

日ソの交渉は、1955年6月にロンドンで始まりました。日本側全権は松本俊一、ソ連側全権は大戦中に駐日大使を務めたヤコフ・マリクです。しかし、両者は抑留者問題領土問題、そして日米安保条約をめぐって真っ向から対立し、一向に距離が縮まりませんでした。ようやく転機が訪れたのは、2か月後の8月5日で、マリクは日米安保放棄を撤回し、領土については歯舞、色丹の二島を日本へ譲渡すると提案してきました。

ヤコフ・マリク(1906‐1980)
ソ連駐英大使。1939‐45年までソ連大使館参事官、駐日大使を務めた。マリクが二島返還を提案したのは、米英仏ソによるジュネーヴ会議に出席してロンドンに戻ってきた直後だった。
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松本は交渉成立が近いと喜びました。というのも、日本政府の交渉方針を定めた「訓令十六号」では、領土問題に関しては、交渉の第一段階では千島全島と南樺太、歯舞・色丹の要求、第二段階では南千島(国後・択捉)と歯舞・色丹の要求、そして第三段階として歯舞・色丹を要求という三段階での譲歩が決められていたからです。最低条件である二島返還の見通しがたったことで、松本とマリクは急速に接近していきます。

ところが、二島返還での決着案は、外相重光葵によって拒否されてしまいます。鳩山の方針に反し、重光はソ連との国交正常化に慎重であり、領土問題に関しても国後・択捉・歯舞・色丹の四島返還にこだわっていました。重光からの強硬な訓令を受けた松本は国後・択捉の返還も要求しますが、マリクは態度を硬化させてしまい、9月13日の第15回会談を持って交渉は中断します。翌56年1月に交渉が再開しますが、やはり領土問題がネックとなり、3月20日に無期限休会となりました。

重光葵(1888‐1957)
鳩山内閣の外相。重光が松本の二島返還論を握り潰した背景には、千島・南樺太に対するソ連の主権を認めないようにする米国からの圧力があった。
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4.交渉再開と米国からの恫喝

早期交渉再開を望むソ連は、北洋に「ブルガーニン・ライン」と呼ばれる制限水域を一方的に指定し、日本政府へ揺さぶりをかけます。鳩山の側近である河野一郎は、漁業界と密接なつながりのあることから、ソ連との交渉に応じざるを得ませんでした。河野は来日したソ連首相ニコライ・ブルガーニンと会談し、漁業協定を結びますが、その発効条件として、日ソ国交正常化交渉再開を約束します。

ニコライ・ブルガーニン(1896‐1975)
ロシア革命後、ボリシェヴィキに入党。1931年からモスクワ・ソヴィエト議長となり、フルシチョフとともに市政を仕切る。戦後は第一副首相兼国防相、1955年以降は首相となり、フルシチョフとともに「平和共存」政策を推し進めた。
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同年7月、日ソ交渉がモスクワで再開されます。今回は、重光外相自身が首席全権として臨み、対するソ連側はシェピーロフ新外相が交渉に当たりました。領土問題に関して、シェピーロフは歯舞・色丹以上の譲歩を一切せず、重光も国後・択捉の返還を譲らず、平行線をたどりました。交渉が行き詰まる中、重光は持論である四島返還を捨て二島返還で譲歩する決断をします。しかし、東京からの訓令は、平和条約を即座に結ばずに、ロンドンでのスエズ運河に関する国際会議に出席するように求められます。

岸信介(1896‐1987)
交渉のクライマックスで突如二島返還論へと転換した重光を、岸は「君子は豹変す」と揶揄した。重光が「豹変」した理由ははっきり分かっていないが、交渉決裂だけは避けたいという「交渉家」としての本能が働いたのではないか、といった説がある。
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ロンドンに渡った重光は、そこで米国からの圧力を受けます。米国国務長官ジョン・フォスター・ダレスは、日本が二島返還で平和条約を締結し、千島列島をソ連領と認めるならば、米国は沖縄を米国領として永久に返還しない、と通告してきたのです。米国が危惧したのは、ソ連が千島列島の一部を放棄するようなことがあれば、今度は沖縄の返還要求が始まることでした。そのため、日ソ間の領土問題が解決しないように仕向けたのです。

ジョン・フォスター・ダレス(1888‐1959)
米国・国務長官(外相に相当)。日ソ関係は米ソ関係であり、日米関係であるという理論の下、サンフランシスコ条約から始まる戦後日本の外交に介入し続けた。
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5.日ソ共同宣言の調印

重光による交渉がとん挫したことを受け、今度は鳩山首相自身がモスクワに乗り込みます。鳩山は、領土問題に関する交渉は後日継続して行うとする「アデナウアー方式」で臨むこととし、①日ソ間の戦争状態終了②大使館の相互設置③抑留者の即時送還④日ソ漁業条約の発効⑤日本の国連加盟支持5項目の合意を得ることを方針としました。鳩山は、事前に松本とグロムイコ第一外務次官との間で、領土問題を含む平和条約締結に関する交渉を国交正常化後も継続することを合意する「松本・グロムイコ書簡」を取り交わしました。

コンラート・アデナウアー(1876-1967)
西ドイツ首相。「アデナウアー方式」とは、彼がソ連と平和条約を締結することなしに、戦争状態終結、大使交換、ドイツ人抑留者の帰国を実現させたことを指す。
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10月12日から始まった第二次モスクワ交渉では、ソ連は「共同宣言方式」を提案し、鳩山の提示した5項目が全て明記された草案を提示しました。鳩山とフルシチョフの交渉の末、「松本・グロムイコ書簡」で合意した「領土問題を含む平和条約の締結に関する交渉を継続する」という条項も書き込ませることに成功します。ところが、土壇場になってフルシチョフは「領土問題を含む」の文言を削除するように要求、鳩山らは「松本・グロムイコ書簡」を公表することを条件に、これに同意します。

10月19日、鳩山、ブルガーニンが日ソ共同宣言に調印しました。同宣言は全10カ条からなり、第1条で戦争状態の終結が宣言され、第2条では外交関係の回復、第3条では国連憲章の遵守、第4条では日本の国連加盟支持、第5条では日本人捕虜の釈放、第6条では賠償請求権の放棄、第7条では通商関係の開始、第8条では漁業条約等の発効、そして第9条では平和条約締結向けた交渉の継続歯舞・色丹の日本への譲渡が定められました。宣言は第25回臨時国会で賛成多数で批准され、日本とソ連は国交を回復し、12月18日には日本の国連加盟が総会にて全会一致で採択され、同月24日には、最後のシベリア抑留者が帰国を果たすことになりました。

6.まとめ

戦後の日ソの国交正常化交渉は、鳩山をはじめとする国交樹立推進派と重光をはじめとする慎重派との対立だけでなく、冷戦構造の中での米ソ対立という大きな要因が作用し、平和条約ではなく共同宣言の締結という形に落ち着きました。これにより、日ソの戦争状態が終了して戦後の日ソ関係の基盤が構築されるとともに、日本の国連加盟も実現し、日本の本格的な国際社会への復帰する出来事にもなりました。その一方で、領土問題に関しては未解決のままとなり、これが現在に至る日ソ・日露関係におけるトゲとして残り続けることになります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

米ソ対立と戦後日本については、こちら

北方領土問題については、こちら

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