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【短編】『僕が入る墓』(遡及編 七)

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僕が入る墓(遡及編 七)


 太助の中ではすでに何かを失う覚悟はできていた。それは自分の畠かあるいは、他の者の畠か、はたまた久保田はんとの信頼関係かはわからなかった。しかし婆さんから言われた「家族をのことを考えろ」という言葉に対する太助なりの確固たる答えだった。太助にとって親や子だけでなく、友人や村の住人も家族も同然だった。

 自分の家族の暮らしを良くしたいという思いのもと、村中から小作人たちが集い組合は作られた。その長を担う太助はというと、少なからず皆と同じ思いを共有していたものの、何より彼が胸に抱えているものは、隣人愛だった。

 数々の畠と茅葺きの家々の光景はいつになく立派に見え、自分を頼りにしていると投げかけてくるかのように太助の背をじっと見守っていた。太助の頭の中では村人たちの声が終始かけ巡り、彼らの怒りや苦しみがまるで自分の本心であるように感じられた。

 頭上は雲に覆われ、草木は向かい風に押し倒されながらも激しく抗議していた。太助は久保田はんの家までの道を何時間もかけて歩いているような気がした。村の端にある屋敷に着く頃には、又三郎も緊張を隠しきれず口をつぐんでいた。

「何かご用で?」

 入り口の門を叩くと、若い下女が二人を出迎えた。

「争議の申し出をしに来た。久保田はんを呼んでくれ」

「争議? お打ち合わせでありますか?」

「そうや」

 入り口で揉めているのを聞きつけてたのか、前に相談事に出向いた際に二人を軽くあしらった重役の男が嫌な目つきでこちらへと寄ってきた。

「何事や?」

「この方たちが争議の申し出があると」

「争議? そんなもん小作人の分際で。おこがましいわい。さっさと帰れえ」

 重役は二人を追い返そうと、あらゆる諫言を織り交ぜて太助と又三郎を批判した。二人は冷や汗をかきながら、なんとか話し合いの場を設けようと重役に牙を向こうとした。すると、奥の廊下からわずかに久保田はんの声がした。

「おーい、京太郎」

「はい。何でしょうか?」

 重役は久保田はんの声を聞き逃さなかった。

「彼はわしの友やー。通してやってくれんか」

「ほんまですか? それは失礼しやした。今すぐに」

 太助と又三郎はほっと一息ついてから重役の大きな背に睨みつけられながら廊下を進んだ。渡り廊下は長く、幾つもの部屋の間を抜けていった。久保田はんは大家族のようだった。地主と言っても、一般的な自分の畠を持っている者たちとは違って、風格のある身なりや、裕福さなど、そこには確固たる格差があった。こうして生み出された格差によって家族を思うまま増やし、商いの輪を広げることで自分の力をより強固なものにしていったのだ。婦人が何人もいる家の中は忙しなく、中には下人あがりの女までいた。久保田はんは普通の地主とは格が違う、いわゆる大地主だった。太助の感じた違和感は、その裕福さに比例しない久保田はんの持つ懐の広さだった。

 太助はどこかで同じような感情を覚えたことがあった。たしか、畠仕事をしている最中に又三郎と出会った時のことだった。身なりも良く容姿も整った又三郎は男である自分でさえ魅力を感じるほどだった。そんな自分とはかけ離れた世界で暮らしてきたというのに、やけに自分に馴れ馴れしく、意外にもひょうきんな一面があった。

 久保田はんは太助とは長い付き合いだった。若い頃は下働きで共に汗を流したこともあったほどだ。二人は幕府に年貢を納めるために必死に稲を耕した。久保田はんよりも太助の方がやや稲作に才があった。何より、体格が久保田はんの倍あったのだ。そのため自ずと収穫量も太助の方が多くなった。

 一方、久保田はんは。、稲作の他にも野菜を育てることに注力していた。野菜は人々の暮らしになくてはならないものだった。一日二食、その食卓を支えているのは主に野菜だった。もちろん米は最も重要とされていたが、ほとんどが藩に渡ってしまうため、いくら耕したところで貯蓄が増えるわけではなかった。そのため久保田はんは畠で米を作ることに太助ほど執着はしていなかった。稲作は彼にとってさほど重要なものではなかった。

 久保田はんは質の良い土壌と質の良い労働を求めた。その頃、どこの村にも蔓延っていた庄屋を相手に、採れたての新鮮な野菜、尚且つ味の良くて評判の良いものを売り捌いた。庄屋の主婦たちはこぞって久保田はんの野菜を買った。野菜は彼らにとって必要不可欠なもの、そしていくら蓄えても幕府に持っていかれないものだった。こうして久保田はんは上質な野菜を献上する代わりに大量の米を自分のものにしたのだ。

 庄屋が解体されてからのこと、久保田はんは瞬く間にその才覚を発揮していった。自分の畠を持つと、自ら畠仕事をせずに、人を雇って収穫量を倍増していった。気がつくと、土地をいくつも所有するようになり、太助も久保田はんの持つ畠で日々働かせてもらうようになっていた。貨幣が流通するようになってから皆、明治政府からの金銭の徴収に切羽詰まり小作人へと自ら成り下がったのだ。

 太助は久保田はんに昔のよしみということで良くしてもらっていた。凶作の時も無理に米の徴収を強いられず、自分の家の貯蓄分を減らさずに済んだ。それも久保田はんの懐に金が有り余っていると同時に、彼自身が信用のおける人間であったからこそ叶ったことだった。

 しかしそれは太助から見た久保田はんの顔だった。他の村人に対しては、重役を連れてしつこく米の徴収を迫り、皆困憊していた。太助が小作人として紹介した又三郎もその一人だった。又三郎はよく太助の家に飯を食いにきていたが、それは自分の暮らしを守るための行動だったのだ。その又三郎の発案で結成した組合は、彼にとって必死の決断だったに違いない。太助はそんな又三郎の我が身の危険を厭わない考えを疑ったことに恥ずかしささえ感じた。

 重役に以前の客間に案内されると、四人は椅子に深く座り込んだ。

「久保田はん。おらたち組合さ作っただに。話さ聞いてくれへんか?」

「ああ、もうわしら我慢ならねえ。争議さやらせてもらわねえと――」

「――」

「そういうことなんや。久保田はん。頼む。話だけでも聞いてくれへんか?」

「太助はんが組長なって小作人さ集めてくれたんや。ちゃんと議論させて貰わねえと困るで」

「――」

 重役は一言も発することのない久保田はんの様子をじろじろ見ながら、いかにも生意気な口を聞く二人に何かを言いたげそうな顔を見せていた。久保田はんは、ようやくことの重大さを察したようで、深くため息を吐いてから言葉を放った。

「太助はんと、二人にしてくれんか――」

 久保田はんの声は落ち着きを放っていた。

「――又三郎はんはいちゃまずいと?」

「あんたが組長なんやろ?」

「まあ、そうですけんど――」

「話し合いは一人とで十分や」

 又三郎はすぐに状況を飲み込んだようだった。太助の方を見ると、用心しろと言いたげに目を細めて合図を送り、重役の後に続いて部屋を出ていった。

 しばらくの間、久保田はんは黙り込んでいた。二人きりになりたいとは一体どんなことを話されるのだろうかとどうも心が落ち着かなかった。すると袖の中から煙管を取り出して煙を吹かした。部屋の中は瞬く間に煙が充満し、息を吸うたびに血液の循環が鈍くなるのを感じた。

「太助はん」

「なんですけえ?」

「ちょいと交渉しねえかい?」

 太助は交渉という言葉を聞いて頭が痛くなった。太助は自分の畠を久保田はんに売って以来、交渉というものとはめっきり縁がなかったのだ。

「交渉というと――?」

「まあ交換みてえなもんだ。わしがあんたに何かをあげて、代わりにあんたがわしに何かを渡す。簡単やろ?」

「へえ――」

 太助は久保田はんが何を言おうとしているのかさっぱりわからなかった。


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