我々にとって純粋に意識的でしかない行動などあるのか|ユクスキュル『生物から見た世界』日高敏隆・羽田節子訳(岩波文庫)
ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界』日高敏隆・羽田節子訳(岩波文庫 2005年6月)を読んだ。
邦題について
ドイツ語原題は、”STREIFZÜGE DURCH DIE UMWELTEN VON TIEREN UND MENSCHEN”という。意味は「動物と人間との環境への探索」というようなもの。
邦題は「生物」とひとくくりにしてしまっているが、一般読者が「生物」と呼んだときに「人間」までもを当然包含しうると思うのかという問題、そして原題が「動物と人間」と限定しているのに「生物」にまで拡張してしまっている問題があり、私はこれを不適切な改題だとみなしている。
原典は1934年に出版されていて、訳者あとがきによれば以前の邦訳は戦中には日本に到達していたらしい。なにしろドイツは同盟国だったからだ。
本書は現在から1世紀近く前の哲学的生物学的考察となるわけで、大抵この手の本は当時の科学が明らかにしていたことを前提に(例えば「エーテル」などの単語が出現する)しているから、科学進歩の恩恵を生まれてこの方受けるだけ受けている我々が(そしてすべての時代の人間が)、このような立ち位置にある書物を、現代という地表に出てきたばかりにあげつらうのは好ましいことではない。重々この点について注意して私は書き、また読んでほしい。
動物に主体を認めること/環世界
本書が主張するのは、主には動物機械説の否定および、その内面的主体の発見であるようだ。
動物にはそれぞれの「環世界」があるという。環世界とは、動物たちが知覚できるものと、そうでない他のものたちで構成されている世界であって、たとえば我々人間で言えば、赤外線や紫外線を反射する物体は、他の物体と変わらずに見えるわけで、可視光線外の波長は我々の環世界にはない(昆虫などはこれを知覚している)。
そして、単に原因すなわち結果に至るような関数的システムとしての動物を見る(当時の?)見地からは跳躍した世界を覗こうとしている。
マダニの機能環と目的意識の有無
具体的には、上に示されるような「機能環」という一連のプロセスを踏んで、動物は行動を行うとユクスキュルは考えている。
本書の例で言えば、真っ先に出てくるのはマダニのものだ。
森の中で少し背の高い樹木の葉などの定位置についたマダニは、下を通りかかる哺乳類の皮膚腺から分泌される酪酸を感知し、脚を離して落下する。うまく哺乳類の上に落ちたと触覚で判明した場合、ダニは歩き回る。そして今度は適切な温度(つまり哺乳類の体温)の地点に至ると、つまりそれは皮膚だが、そこに口器で穴を開けて、血液を啜るという。
このとき起こっていると考えられる現象を機能環的に説明すれば、
「酪酸」→「落下する」
「体毛」→「歩き回る」
「適温」→「吸血する」
となる。ただしここで注意しなければならないのは、マダニは酪酸さえあれば哺乳類が通ったのでなくとも脚を離すし、適温の液体であればどんなものでもマダニは吸い込むのだ。味覚はない。
知覚できる要素と、それに対する作用となる行動は固定的であり、我々人間が想定するような「血の吸える動物が来るまでじっと待とう/哺乳類が来たから張り付いて血を吸おう」などとマダニが考えているわけではないのである。物理的に言えば、産卵のための栄養源としてマダニは血を利用するわけだが、そのような「目的意識」が存在しているならば、盲目的に「適温の液体」なら何でも吸うという行動には出ない。
マダニの行動は情報処理的にはコンピュータでもできることではないか
ここまで書いて、やはりユクスキュルの説は、伝統的で支配的なものではないほうの、素朴な意味での動物機械説の域を出ていないように思える。ユクスキュルは知覚と作用の間に、その「機械操作係」を発見できるというが、これは直ちにことさら動物の内面を認めて主体と呼ぶべきほどのことではない。原因と結果を直接繋ぎはしないだけで、その判断が主体と呼ばれる個所に一度結集することは、そういうシステムと呼んでも問題ないはずだ。
例えばエクセルを想像してみれば、オートフィル機能とか、「今日」をそのまま入力している日付に変更するとか、同じように大まかに見た場合物理的には必然性のない(と直感される)作用で反応を示す。これは当然そういう風にプログラムされているからだ。ここで、そもそも「主体」や「生物」という言葉を根本的に問い直さなければならない感覚が強まるが、さておき。
ある友人は、「動物/コンピュータ・石」ではなく「動物・コンピュータ/石」のように、二分するスラッシュの位置が変更されるべきだと私に教えてくれた。確かに情報処理を行うという点においては生物の「知覚─作用」の結びつきも、エクセルのオートフィル機能も本質的に同じだ。旧来のものは、物質的な相違点を言っているに過ぎない。
※ここで私は、しかし、「石は本当に情報を処理して反応を示しているわけではない」と言い切れるのか、という留保をしたくなる。我々の無知あるいは慣れが、石の環境における振舞い方の自明性との共犯関係にあるに過ぎないという疑問を投げかけたい。というのは、例えばスマートフォンのタッチパネルを触れば画面が発光することと、石を加熱して赤熱させることの情報的意味も自明性も甚だ不明だからだ。
閑話休題。以上のような理由で、私はユクスキュルの見ているところの主体感覚を共有できていない。環世界というものの構造には同意できるが、それはまず主体を与えなければ成立しない。
同じ知覚から異なった作用を選び取るならば主体なのか
動物が単純な機械でないという理由になりそうな、本書に出てきている例は、たとえばヤドカリである。円筒または円錐上の物体(巻貝の貝殻やイソギンチャクなど)を見たとき、ヤドカリはそのときの「気分」によって反応を変える。
そもそも借り宿がない場合、目の前のイソギンチャクを、ヤドカリは無理やり住居としようとする(しかし、貝殻のような中空構造ではない)。
飢餓を感じている場合、ヤドカリはイソギンチャクを捕食しようとする。
そして、そうでない場合、ヤドカリは自分の宿にイソギンチャクを張り付けて、魚に襲われる危険からそれによって身を守る。
再度示しておきたいが、これはあくまで我々的な見解であって、ヤドカリにとって実際にどう世界が見えているのか、あるいは「ヤドカリと呼ばれるシステム」がイソギンチャクと呼ばれる物体の要素の何に反応しているのかは正確にはわからない。本書によれば形状的な条件しか関わっていないようだ。
これをユクスキュルはイソギンチャクという同じ客体から異なった作用を生み出す現象と捉え、これをヤドカリの気分(=「異なる探索トーン」)によるものだとしている。
機械は作用の選択もできる
これはやや抽象的な問題になっている。結局、状況証拠的にそういった内部的差異を検知していると捉えざるを得ず、そのためにこれはヤドカリの主体と考える、という論に発展できる。しかし、我々はすでにコンピュータというシステムを知ってしまっている。およそ自分と呼べる範囲のコンディションを、必要と思われる部分だけ検査して、それに応じて反応を変えることは物質的機械にも可能なのだ。
例えば、電話を掛けているスマートフォンの、画面のある部分をタップしたとき通話が切断されることがあるが、まったく同じ部分をメッセージアプリを開いているときに触れることで、入力されていたメッセージが送信される。これは故障によって画面が真っ暗になっていても、指の接触を検知するセンサーが生きていればスマートフォンとしては全く支障なく行えるはずだ。我々使用者にどう認識されているかは全く関係ない。スマートフォンは我々のために通話を切断しメッセージを送信するのではなく、通話状態にあるから特定の部分への接触という知覚を切断という作用に結びつけるのであり、メッセージの送信待機状態であるからまた同じ知覚を送信という作用に帰すのだ。重要なのは、スマートフォンは自分が今どのような状態なのかを検知しているということだ。
ある状態が先にありそれに続いて検知を行うという想定になるが、もちろんこれは物質的というか、コード的には逆で、フローチャート式にプログラムをこなしているだけだ。だからむしろ、ヤドカリの中でこういう処理が行われていないとは言い切れず、旧来的な「生物/非生物」の境界の歪みを指摘せざるを得ない。
何を主体と呼ぶべきか
以上のような、生物の行動は機械に置換可能である問題について、考えられる解決策は、例えばコンピュータに「主体」を与えることである。物理的(そして直感的に)必ずしも必然ではない行動を作用として起こすこと、それができるならばすなわち主体ありと言うことである。無論コンピュータは物理的学的に当然の動きしかしないが、それは生物に搭載されているコンピュータ的な機能が我々の知識と理解力が及んでいないために複雑で、ときに情緒のようなものを幻覚させるだけであって、結局物理学的に当然のことばかり起こっていると考えるべきである。その情報処理過程の複雑が、ある部分よりも深くなるとき、徐々に主体と呼ばれ始めるのではないだろうか。普通、ドラえもんに主体を認めないわけにはいかない。
人間の行動は意識的で目的的なのか
さてこう言われると、「しかし我々は意識と目的をもって行動していることのほうが多いし、それは環境要因ではなく意志によって選択した行動だ」と言いたくなる。
確かに、我々の行動選択は、我々がその全体的な機序を抱懐するにはあまりにも多様で膨大だ。何も人間だけではない。犬などの行動選択だって、人間ほどの多様性がないように見えるだけで、先ほどまで出した例には及ばないほど複雑なはずだ。むしろ、我々は人間であるから、(意識という幻覚があってしまうだけに)他の人間や人間一般への行動選択の機序にかなり解像度の低い様々な解釈を与えて満足しているだけであって、犬程度我々と離れている動物には解釈の幅が狭められるからこそ、無意識な解像度の低下がその複雑性を覆い隠しているのだろう。
その解釈が、例えば感情だったり、経験だったりする。そしてそれらはあまりにも情報としてかみ砕けていない。
コンピュータに主体を与えるならば、我々の一挙一動は根本的には物理的に当然なのだ。ただ意識だけが己をだまし続けていて、我々は共同幻想を見る。
「六章 目的と設計」について
本来はこれを紹介したいがために書き始めた記事が、いつの間にか冗長なものになってしまった。
ユクスキュルはこう指摘する。ダニの環世界には「待ち伏せる」という作用も、ましてや獲物の動物の全体像などは全くないはずなのに、我々は自分たちの環世界の要素を見出そうとする(というか、それ以外は見えない)。
このあとは、体色の派手さによって天敵であるコウモリの放つ高周波に対して振る舞いが二分されるガや、ガラスを挟んだすぐ向こうにオスがいるのに、スピーカーから流される別のオスの鳴き声に誘引されて、スピーカーの周りに集まってしまうメスのキリギリス、また助けを求めて鳴く黒いひよこに向かってくちばしを振り下ろしてしまう親の鶏などの例を、ユクスキュルは挙げている。
キリギリスがオスの鳴き声に誘引されるのは言うまでもなく、繁殖のためだが、「繁殖」という目的を持っていれば、スピーカーには集まるまい。少なくとも彼女たちにとって、目の前に姿だけ見えるオスよりも、オスの鳴き声のほうが優先される知覚情報だったのだ。それは近寄るという作用を引き起こす。
この目的的行動とは全くかけ離れた知覚と作用の関係をして、ユクスキュルはこれを「設計」と呼んでいる。なぜまえがきなどで生物に主体を見出すようなことを言いながら、しかしここでは設計されているなどと言うのか、ユクスキュルにとっての「主体」とは何なのかを考えさせられる。
ともかく、動物は設計されている。ユクスキュルは六章の冒頭で、先に引用したように「われわれ人間」を動物とはちがってともすれば目的意識のある存在として対比的に出現させているが、ここには強く疑問を呈したい。
そもそも他の章では人間のこともひとつの動物種として扱っていることが多いのに、なぜか第六章では突然人間意識の肥大を感じさせる記述になってしまっている。
しかし、我々は、本記事でも上述した通り、我々の意識のありようゆえに、我々に特別濃厚な幻覚を処置している可能性がある。なぜなら、我々も物質だからだ。第一、他人の理解できない行動や、倫理的でないと当事者を含めて誰もがわかっている行動をしてしまう人間が現れるのも、結局それが「解像度の低い解釈」によって導き出された法則というか、傾向でしかなく、あるいはそれを基にしたいびつな法則だからだ。
キリギリスの例をもう一度思い起こしてほしい。別に性行為ができるわけでも子孫が残せるないのに、各人の性的対象者に属されると思われる美しい声に惹かれてしまう。それがフィクションであってもだ。人間がフィクションを楽しめてしまうのは、快楽に属する機能環をうまく刺激するようにできているからであり、同時に不快に属する機能環を刺激しないようにできているからなのだ。だから、内実は関係ない。フィクションにのめりこんでいる最中、環世界はそこに存在しているということになる。
こう考えると、生物の目的は自己増殖などという言説も怪しくなってしまう。高等な意識をもってしてもなおそうではない機能環が働いてしまうのであり、そう意識されてしまう。「自己増殖」という目的は、実は目的ではなくて、我々という物質・物体の振る舞いの、現段階での今後の予想でしかない。どこに主体などあるのか。
我々はこれを心にとどめて、決して自分の一挙一動が意識あるいは目的に基づいて誘発された行動ではないことを知らなければならない。それは意識上の幻覚的な意味での、あるいは解釈的な意味での目的に添ってしまっただけだから。
あるいは、意識という機能は一つの器官を、物理的には散在的にになっていて、少なくとも我々はその器官の働きを内部検知機能として使用している。それでもやはり、今我々が意識できるところの「意識」が、出がらしの幻覚なのか、直接行動決定に関与しているのかは、本当のところはわからない。
ただし、意識は我々にとって環境足り得るのならば、前者の可能性を否定できない。
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