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【エッセイ】伊豆④─北条氏館と夫婦の像─『佐竹健のYouTube奮闘記(70)』

 土手沿いの道路から伸びている砂利道を歩いて、私は北条氏の館があった場所へと入った。

 右側が山で、左側は草の生えた平地が広がっていた。

 草の生えた、といっても、背丈のある草が伸び放題というわけでもない。この辺りから、誰かが管理していることがよくわかる。館山城と同じで、堀や土塁といったものは、ほとんど残っていない。

 右側の山には竹藪があった。

 竹藪には青竹に混じって、たけのこから若竹へと成長しているものがある。

(あ、メンマがある)

 心の中で、私はつぶやいた。

『鉄腕!DASH』だかYouTubeの動画だか忘れたが、昔メンマの作り方を紹介したものを見たことがある。そのときに若竹になりつつあるタケノコを使い、それを発酵させて作るみたいな話を聞いた覚えがある。

 この若竹と化しつつあるタケノコも、メンマにしたらきっとおいしいのだろう。ただ、メンマにしたらという前提なので、そのまま食べたらどういう味になるかについては読者で考えてもらいたい。


 砂利道は途中で途切れていた。どうやらここで行き止まりらしい。

 帰ろうかと思って、北条氏館跡をあとにしようとした際、解説板があったのを見かけた。

 解説板には、北条氏館について簡潔に書かれていて、隣には地元の高校生が書いた想像図がある。

 ここだけ切り取れば、どこにでもありそうな史跡の解説をした解説板である。だが、この解説板が他と違ったのは、上がアクリル板になっていて、そこに屋敷がこんな感じであったということを簡潔な図で示しているところだ。

 透明なアクリル板に屋敷の想像図を載せるというアイデアについて、私は天才的だなと思った。透明なアクリル板の特性を活かし、どのように屋敷が建っていたかとかをわかりやすく説明しているからだ。


 北条氏館を巡ったあと、次の目的地へと向かって歩いていた。

 次の目的地は、山木兼隆の屋敷跡か北条政子と源頼朝の像がある場所のいずれかにしようと思っていた。

 狩野川の土手から住宅街へと出ようとしたときに下を見た。

「何よこれ!!」

 服の胸の部分に、蚊とトンボの特性が合体したような虫が飛びついていた! 虫の大きさについては、トンボとカゲロウの間ぐらいの大きさだったろうか。東京やその近郊では見かけない虫だ。

「あっち行って!!」

 見かけない変な虫が服についてパニックになった私は、すぐさま胸についた虫を手で追い払った。先に声に驚いたのか、虫の方が先に去ってしまった。


 虫を何とか追い払ったあと、近くのスーパーで買い物をした。

 買い物を済ませたあと、行き先は北条政子と源頼朝の像がある場所に決めた。山木邸跡は駅から少し遠すぎる。あと、韮山城という戦国時代の初めに北条早雲が居城とした城もあったが、そこまで行ける体力が無かったので辞めた。

 私は初めて伊豆、いや静岡県に降り立ったときに見た山々を見ながら、北条政子と源頼朝の像がある場所を目指した。 


 3つ目の目的地である北条政子と源頼朝の像がある場所に着いた。

 北条政子と源頼朝の像がある場所は、田んぼの真ん中だった。当然見晴らしがいいので、青い山々がよく見える。

 その山々の向こう側を、仲睦まじく語らい合う北条政子と源頼朝の像は向いている。

 北条政子と源頼朝の像の左脇に石碑というかモニュメントのようなものがあった。それを見てみると、この二人の姿は、1177年の政子と頼朝の姿をイメージして作られたものらしい。どうりで若いわけだ。

 あと、近くにあった石碑には、今私が立っている場所一帯が、昔蛭ヶ小島と呼ばれていた場所らしいということを知った。

 蛭ヶ小島は島という感じが一切しなかった。どこの農村にもあるきれいな田んぼ。一言で言い表すならこんな感じである。

「それでは島ではないのでは!?」

 と言う人もいるので説明しておくが、この辺りは昔湿地帯であったらしい。現在のように立派な田園地帯となっているということは、新田開発でもして、悪水を除いたためであろうか。

 また、地名に「蛭(ヒル)」という字が入っている辺り、浅瀬にあって、蛭がたくさんいたのであろうか? 蛭とは、ちょうどこの時期の水の張った田んぼにいる黒いミミズみたいな環状動物である。ものによっては山にいる種もいる。生き物の血を吸うため、とても危険な生き物だ。とにかく、頼朝の暮らしていた場所というのは、かなりの悪条件の場所であったらしい。

 そんな劣悪な環境にあった場所でも、政子はわざわざ頼朝に会いに来ていたと考えると、本当に一途な人だったのだなと思う。

 特に彼女の一途さを表している話が、山木邸を抜け出して嵐の中頼朝のところへ会いに行った。そして国司などの公権力の力が及ばない伊豆山権現に逃げ、猛反対したというものだ。

 この逸話については後世の創作と言われている。だが、こうした創作というのもバカにしてはいけない。たとえその人物の逸話が創作であったとしても、人となりとか、時代時代のイメージを伝えているからである。


 北条政子という人物の逸話について見ていこうと思う。

 結論から先に言えば、悪女ではない。行動力と強い意志を併せ持っている女性だった。

 まずは、行動力から語ろう。

 先ほど挙げた山木邸を抜け出して頼朝に会いに行ったという話も、彼女の行動力と意志の強さを示しているわけだが、それ以外にも話がいくつかあるからだ。

 その一つが、頼朝の浮気相手の家を破壊したということだ。

 きっかけは、頼朝が亀の前という女性と不倫をしていたことだった。

 頼朝は亀の前との関係を密かに楽しんでいたわけだが、この話がどういう経緯で流出したのかわからないが、時政の後妻牧の方の耳に入った。

 牧の方はこのことを政子に話した。

 怒りに燃えた政子は、牧の方の弟である牧宗親に命じ、邸宅を破壊したというものだ。

 後にこのことを知った頼朝は、政子と牧の方ではなく、実行犯である呼びつけて髻を斬りつけている。

 間接攻撃が続く中で堪忍袋の緒が切れたのだろうか、父の時政は「伊豆へ帰る!!」と言って一族で帰るという大事件となってしまった。

 普通は陰で不満をこぼしたり、相手に直接このことを言ったりして完結するところだ。だが、政子は不倫相手の家を襲撃するというアクションを起こしている。怒りゆえのことであろうと思われるが、それでも強い行動力が無ければ、他人の家、しかも不倫相手の家を襲撃しようと思い立って、実行することは無い。

 意志の強さは、頼朝相手でも怯まずにものを言えることだ。

 吉野で義経と別れた静御前が捕らえられた。

 そんな静御前に頼朝は、鶴岡八幡宮の神楽殿で舞を披露することを命じた。

 渋々応じた静御前は、鶴岡八幡宮の神楽殿で舞を舞った。だが、そのときに歌った今様が、吉野で別れた義経を慕うものだったのだ。

「神前で罪人を慕う歌を歌うとはけしからん!」

 頼朝は怒鳴った。

 怒る頼朝に政子は、

「若いころ、あなたのことが好きになった私は、平家の目を恐れた父に反対され、押し込めました。なぜ、好きになった人が源氏の嫡男であるというだけで、どうして理不尽な思いをしなければいけないのか? と考え、悶々としていました。耐えられなくなった私は、こっそり部屋を抜け出し、山を越え、雨の中貴方に会いに行きました。挙兵のときに貴方の生死がわからなくなったときは、伊豆山で一人貴方の無事を祈っていました。静御前は、若き日の私と同じ、一人の恋する乙女です。だから、彼女の大事な人を想う気持ちを無下にしないでください!!」

 と静御前をかばう発言をした。

 政子の訴えを聞いた頼朝は、

(そうであったな。悪かった)

 と思ったのか、褒美をとらせている。

 今の頼朝に大きな貸しがあるから、こうしたことが言えたのもある。だが、鎌倉の権力者相手にここまで強く言えるのは、政子の心に頼朝の圧に屈しないほどの強い意志があったからということも大きいだろう。また、義経と離ればなれになってしまった静御前の気持ちを尊重している辺り、優しさも持っていたと感じられる。


 行動力と強い意思を併せ持っていた人物であったせいか、政子は近世に入ってから「悪女」と呼ばれるようになる。特に江戸から近代にかけては、「女性は家に──」の風潮が強い傾向にあったため、彼女の長所といえる部分が悪いように言い換えられてしまった。これについては、亀の前邸破壊や頼朝の死後征夷大将軍を継いだ頼家や実朝の後見をしていたという経歴が、後世の彼女の評に暗い影を落としてしまったのだろう。

 時代の価値観によって、語られる逸話やその見方は変わっていくので、色々言われるのは仕方がない。それでも、北条政子という人物が行動力と強いハートを持ち合わせていたことは、今の世にもしっかり語り継がれている。

 歴史上の人物の評価やイメージというものは、その時代の価値観により創られるものなのだろう。そして鎌倉幕府の歴史書に悪いように書かれていない辺り、やはり政子は鎌倉幕府の良心であったのではなかろうか。もちろん、ここに北条氏の作為が絡んでいる可能性も0ではないが。


 私は頼朝と政子の銅像のある場所を軽く見物したあと、韮山駅の改札を通り、次なる目的地へ向かう準備をした。 

 今は平治の乱の辺りを書いているから、伊豆に流罪となった頼朝の話を書くのは、ずっと先のことになるだろう。それでも、頼朝が伊豆にいたときに暮らしていた場所がこんな感じの場所なんだ、ということがわかっただけでも大きな収穫となった。

 北東に山木邸が、東に頼朝が暮らしていた蛭ヶ小島が、南西には狩野川が流れていて、その目の前にある守山の麓に北条邸がある。細かいことかもしれないが、歴史小説を書くうえでは、こうした細かい情報の蓄積があることで、より深みが出る。特にその土地を実際に歩いて見て感じたものは、とても大きな財産となるので、風景描写も良いものになることは間違いない。

 そんな期待を胸の中でしつつ、誰もいない駅のベンチに腰かけ、三島駅行きの電車を待った。

(続く)


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