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カルロ・ギンズブルグ『チーズとうじ虫』 : 庶民的オリジナリティの驚異

書評:カルロ・ギンズブルグ『チーズとうじ虫』(みすず書房)

本書で、著者ギンズブルグが訴えるのは、文化とは多層的なものであって、「上層が文化を作り、下層のそれは、上層文化のお下がりである劣化コピーに過ぎない」というような理解や感覚は、後代に残された情報量格差による誤認でしかない、というものだ。
そして、その実例として、本書の主人公メノッキオが紹介される。

メノッキオは、16世紀イタリアの田舎町に住む粉挽屋である。つまり一庶民だ。
その彼が「異端」の信仰を持っていると疑われ、本格的な異端審問にかけられ、二度の有罪判決の後、刑死することになる。
当時すでに、ルターらによる宗教改革が始まっていたとは言え、その時点でのルターらは、教会を破門になった「異端」の徒であり、異端ではない「プロテスタントのキリスト教徒」などというものは、まだ存在していなかった。したがって、プロテスタントが勢力を持った(諸侯と結んだ)特定地域以外は、もちろん、今で言うカトリック教会の勢力圏であり、その教えに従うのは当然のことであった。
そして、本編の主人公メノッキオもまた、そんなカトリック信者の「その他おおぜい」の一人でしかなかったわけだが、その彼が「異端」の説を説いて回ったかどで、ある意味で、分不相応にも見える、本格的な異端審問を受けることになったのである。

しかし、たかだか田舎の一庶民が、と言うなかれ。当時のカトリック教会は、ルター派や再洗礼派をはじめとしたプロテスタント勢力の拡大に戦々恐々としていたので、この粉挽屋がどこで異端の説にかぶれたのか、その背後にどれだけの仲間がいるのかを調べて、それら異端の徒を撲滅しなければならなかった。

しかし、メノッキオが人目も憚らず、村人たちに説いて回った異端の説は、少々奇妙なものだった。
たしかにそれは、正統な教えから逸脱したものであり、ルター派や再洗礼派などの邪説と重なるところが多々あるその一方で、それらからも外れてしまう、奇妙な「オリジナリティ」を持っていたのである。
その典型的な一例が、本書のタイトルにもなっている「牛乳が凝固してチーズになるように、世界はカオスが凝固して成ったものであり、チーズからうじ虫が生まれるようにして、天使が生まれ、神もそんな天使の中の一人であった」という、あきらかに非正統的な「宇宙創世観」なのである。

メノッキオが、特定の異端派の影響を受けたのであれば、その異端の教説を語るはずだが、彼の語る「宇宙観」や「神観」は、そんな型通りのものではなく、異端の神学にも通じた審問官たちでさえ聞いたことのないような独自の説が、メノッキオの語るそれには混入しており、独特の説を形成していた。そのため、異端審問官も判断に困って、無理やりに従来の異端の型に当て嵌めて、モノッキオのそれを理解しようと四苦八苦させられたりもしたのである。

結局、メノッキオのオリジナルの部分というのは、彼が十指にたらぬ書物から得た知識や異端派の信者から聞かされた話を、彼なりに咀嚼した結果、彼の頭の中から生まれてきた「宇宙論」であり「神学」であったようだ。
例えば、禁書でも何でもなかった、世界旅行記に描かれた、キリスト教圏外のいろんな人たちの多様な文化や多様な信仰を知ることによって、メノッキオはキリスト教に接する機会のなかったそうした外国の民が、知りようのなかったキリスト教の信者でなかったがために、最後の審判において神に救われないというのはあまりに「不合理」だと考え、神は国々の民にそれぞれに合った教えを与えたのであり、信仰のかたちは違えど、皆、同じ神に救われるのだといった、反時代的なほどに「合理的な神解釈」を自分の頭で編み出し、そこから、キリスト教でしか救われないなどと説いているキリスト教の司祭たちは、きっと自分たちの商売として、そう言っているに過ぎないのだなどと、非常に「現代的な解釈」を捻り出して、それを人に得々と語りだしたのである。それで、彼は(カトリック)教会を誹謗する、許されざる異端の徒だと睨まれたのだ。

ちなみに、メノッキオのオリジナルな教説は、上に書いたような点だけではない。神とはどのようなものか、三位一体の教説は正しいのか、イエスは神か、マリアは処女懐胎したのか等々、キリスト教の中心的な教説について、彼なりに納得のいくオリジナルの見解を持っており、それらがしばしば他の異端派の説とも重なったのである。

しかし、われわれ現代人の目から見れば、ルター派や再洗礼派のような、後にプロテスタントとして、キリスト教の中に正当な地位を得る教派の教説よりも、むしろメノッキオの説の方が、その発想が自由である分、いかにも「現代的」なのである。
そこで問題となるのは、メノッキオのこうした自由さが、いったいどこから来たものなのかということになるのだが、ギンズブルグは、これをメノッキオの庶民性、農民的リアリズムに見る。
生活者として現実的世界と直に向き合う者の生活実感主義的なリアリズムや自然観が、伝統的かつ観念的な正統教義との齟齬を少なからず生まずにはいられなかったのではないか。つまり、正統教義に素朴なリアリティを感じられなかったからこそ、その部分を書物から得た知識などを参考にしながら、彼なりに納得のいく世界観を構築したというのが、彼の「独自の説」だったのである。

庶民ながら、非凡な思考力と想像力を持ったメノッキオの頭の中には、不完全な形で教えられたカトリックの正統教説や、異端の説、さらに書物によって与えられた世界の広さと多様性の概念などの「知的情報」だけではなく、庶民的な唯物論的リアリズムや開かれようとしていた時代の空気といった「時代的・空間的な解読格子」が、相互触発的に交錯していたのである。

たしかにメノッキオのような庶民は滅多にはいなかったはずだが、庶民の中にもこういう人がいたという事実を、歴史はしばしば見落とし、庶民というものを浅瀬の理解において単純化してしまいがちだ。
もちろん、ある程度の図式化は必要だろうが、硬直した単純化は、歴史という「生もの」を死物化してしまう怖れのあることを、私たちも繰り返し銘記すべきだということを、メノッキオは教えてくれる。

それにしても、彼に比べれば、私たちの世界観というのは、いかにも紋切型を出ず、オリジナリティに欠ける。
これはきっと、それなりに良く出来た世界観に関する「情報」を、私たちが容易かつ浴びるほど大量に得ることが出来るから、選り取り見取りで、自分の頭を使う必要がないからであろう。
しかし、頭を使わない「趣味的な選択」だけでは、流行りに流されるのも当然であり、だからこそ私たちの世界観はオリジナリティに欠け、面白味にも欠けるのではないだろうか。

だから私たちは、多少なりとも「メノッキオの爪の垢」を煎じて飲んでも良いのではないかと思う。昔の人だから、しかも庶民だから、幼稚で荒唐無稽な世界観しか持っていないのだろうなどと考えるのは、やはり歴史的な偏見でしかないのではないかと思う。
私たちが学ぶべきは、著名な歴史学者ギンズブルグではなく、むしろ無名の粉挽屋であるメノッキオの方なのかも知れない。

初出:2019年11月8日「Amazonレビュー」

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