確かにあるものの様相について考えること

ここまで解離の問題について自己洞察を深めてきたけれど、医者は統合失調症と解離性障害と私を診断しているので、私には統合失調症もあるということになっています。統合失調症ということは、私の私に対する思考において、何らかの妄想的要素があると認められるということです。
私はその意味で、何かが自分の思考の制約になっている可能性はあると思います。解離的に複数の自己が生じているということを考えているけれども、ただ、それは本当にそうなのか、平野啓一郎さんが言うところの「分人主義」の範囲で捉えられることなのかと思ってしまうところがあります。

その「分人主義」における「複数の自分を生きる」ということと、自分の状態でどのような差異があるのかということであるが、自分でもそのことはよく分からない状態です。
確かに自分の同一性が複数あるように感じるけれど、それは平野啓一郎さんの分人主義の考え方とほとんど差異がないのかもしれないです。
もしかしたら自分の状態はそれほど目立ったものではないのかもしれないです。
いわゆる考えすぎなのかもしれないです。

でも、医者は解離性障害の専門医でその医者が診断書に解離性障害も記載するようになったということは、何らかの客観性があるということではないかと思います。もしくは間主観性。自分が医者との診察の際に、毎回A4で1〜4枚、時としてそれ以上のレポートを書いて行っているから、その内容から医者が診断を変えているのだと思います。
私の状態について、確かに私自身、統合失調症の影響は思考に出ていると思います。
統合失調症については、グレゴリー・ベイトソンという人の「ダブル・バインド」の仮説がとても面白いと思っています。

ここに書いていることでも既に面白いと思っています。
ここに書かれていない例だけれども、ある母が子どもに「こっちへ来て」と口にしているのにもかかわらず、態度は拒絶的であると子どもに対する虐待になってしまうということがあります。
そうしたことにならないように私たちは常に配慮しなければならないだろうと思います。

私は「ダブル・バインド」を受けることに対しても、してしまうことに対しても敏感でなければならないと思います。

そうしたことを踏まえたうえで、自分で自分のどういう風にしたら言葉を以前のように書けるようになるかということを考えてしまいます。
以前は自分の人格などを考えず、言葉にできていたと思うし、それは自分は単に論文を書く人であったから、自分が解離であったら(つまり複数の人格がある人だったら)書いている文章に同一性が存在していないことになるのかもしれないどうしよう、という不安から解離の問題に拘ってしまうことになったのではないかという分析をしているところもあります。
統合失調症の薬は飲んでいて、治療もしているので、大学院生時代の優秀な自分がいつか帰ってくるのかもしれないです。
その時は自分の力をきちんと活かして、社会のためになることをしていきたいと思います。

今週は、上野千鶴子さんの『家父長制と資本制』と、村上春樹さんの『街とその不確かな壁』を読みました。
そして、今読んでいる柄谷行人さんの『世界史の構造』のなかに次のような記述がありました。

つぎに重要なのは、カントが、世界史の「目的の国」ないし「世界共和国」にいたるということを「理念」として見たことだ。カントの言語体系では、理念は次のことを意味する。第一に、理念は仮象である。ただ、仮象にも二つの種類があり、一つは感性によるもので、ゆえに理性によって訂正できる。もう一つは、理性が生み出すような仮象であり、これは理性によって正せない。理性こそこのような仮象を必要とするからだ。彼はそれを超越論的仮象と呼んだ。たとえば、同一の自己があるというのは仮象である。しかし、それがないと、人は統合失調症になるだろう。同様に、歴史に目的があるというのは仮象である。が、これがないと、やはり統合失調症になる。結局、人は何らかの目的を見つけずにはいないのである。
柄谷行人 『世界史の構造』 岩波現代文庫、2015、Kindle版、太字強調はブログ作成者による

私の自分の状態は統合失調症の部分もあるのだと思います。だけど、解離についてもあるのではないかという気分もします。
自分のインナーセルフとアウターセルフの感じ、自分では感じるのだけれど、「分人主義」についてはそうした複数の自分を生きるということを病気ではない仕方で考えるということなのだと思います。
もし自分で解離について考えていることが妄想であったらどうしようという気持ちはあります。私しか理解できないことを人に説明していて、それは存在しない誰にも理解できない体系なのかもしれないです。
ただ、統合失調症の回復においてそうした妄想形成が回復の兆し(崩壊した象徴界をどうにか繋ぎ止めようとする働きであるという考え方)かもしれないと自分で思っていたので、自分でも妄想かもしれないという思いはあってもそれを体系として作り上げようとする働きを止めてはいけないと思っていました。
もちろんそうしたことを分かったうえでこうして書いているので、自分はズルいのかもしれないです。

分人についての平野さんの記述を少し引用します。

すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話である。
そこで、こう考えてみよう。たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。
「個人(individual)」という言葉の語源は、「分けられない」という意味だと冒頭で書いた。本書では、以上のような問題を考えるために、「分人(dividual)」という新しい単位を導入する。否定の接頭辞inを取ってしまい、人間を「分けられる」存在とみなすのである。
分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人、……それらは、必ずしも同じではない。
分人は、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。必ずしも直接会う人だけでなく、ネットでのみ交流する人も含まれるし、小説や音楽といった芸術、自然の風景など、人間以外の対象や環境も分人化を促す要因となり得る。
一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。
個人を整数の1とするなら、分人は分数だとひとまずイメージしてもらいたい。
私という人間は、対人関係ごとのいくつかの分人によって構成されている。そして、その人らしさ(個性)というものは、その複数の分人の構成比率によって決定される。
分人の構成比率が変われば、当然、個性も変わる。個性とは、決して唯一不変のものではない。そして、他者の存在なしには、決して生じないものである。
平野啓一郎 『私とは何か――「個人」から「分人」へ』 講談社現代新書、2012、6-8頁、太字強調は著者による

そして、自分の考えを直感だけど、書くと、分人主義は複数の人格があると医者が患者に特定しようとする流れとは異なる流れを打ち出そうとしていよう見えます。

大事な考え方で、「医学的眼差し(regard médical)」という考え方があります。
ある人のうえに医学の眼差しを注ぐことです。

医学的眼差しを注ぐことが悪だとは思っていません。ただ、私は実際にどういう仕方で書けばその人のことを尊重できるのだろうと思ってしまうのですが、確かに自分の中での「複数の自分」については病気なのか、それともそうではない、健全な「顔の使い分け」なのか分からないところがあります。

私は解離性障害と診断されているけれど、私については「解離ではない」ということを言っている医者もいました。
私はどこに位置するのか考えつつ、医学的眼差しをある人に注ぐこと/注がないことについて考えたいと思っています。

何かありましたら、また更新します。
昨日は寒かったですが、今日は暖かいです。

一日が終わりますが、明日から仕事なので、また社会のなかで自分の存在について考えたいと思います。

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