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小説『ネアンデルタールの朝』⑫(第二部第3章-2)

2、
――朝早くごめん。もし良かったら、いまから行っていい?
山口凌空(りく)からラインが届いた。
時刻はまだ朝の7時前。夜通し起き続けていた民喜はこれから寝ようとしていたところだった。
一体何だ?
山口から、しかもこんなに朝早くに、家に行きたいという連絡が来たことに激しく動揺する。
けれどもメッセージを既読にしてしまった以上、何らかの返信をしなければならない。
5分ほどどう返事をしようか迷った後、
――何かあった? 来てもらうのは大丈夫だよ。もう起きてたから。
と返信をする。正確には「もう起きてたから」ではなく「まだ起きてたから」だったが。今日は土曜日で、大学の授業はなかった。
――ありがとう!
すぐに返信が届く。
――いま武蔵境なので、あと20分くらいで着きます。
昨年一度だけ、友人たちと民喜のアパートで飲み会をしたことがあった。その会には山口も参加していたので住所は知っているはずだった。
不安な心持で、民喜はとりあえず部屋の片づけを始めた。
「なして、こんな朝っぱらから」
ブツブツ呟きつつ、敷きっぱなしの布団をたたんで部屋の隅に寄せる。窓を開け放し、扇風機を回す。机の上のビールの空き缶を集め、台所の流しに持ってゆく。数日放置していたカップラーメンの残りを三角コーナーに捨てようと取り上げると、表面にカビが生えていた。

そうして落ち着かなく片付けをしている内に、
ピーンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。寝ていない民喜の頭にチャイムの音はいやにかん高く響いた。
身構えつつ、ゆっくりとドアを開ける。ドアの向こうに、山口凌空が185センチの長身を少し前に屈めるようにして立っていた。彼の背中越しに眩い太陽の光線が差し込んでくる。
「マジごめんな、突然、こんな朝早く」
「いや、大丈夫だけど……」
申し訳なさそうな表情をして山口は頭を下げた。いつもきっちりとセットされている彼の前髪が今朝は乱れていた。台所の流しに並ぶビールの空き缶を見られないよう体で隠しつつ、山口を部屋の中に案内する。
「風邪はもう大丈夫?」
リュックを降ろしながら山口は言った。山口の言葉にドキッとしたが、何でもない風で、
「うん、もうすっかり」
と答える。
「そっか、よかった」
「ごめん、この前は……」
「いや、大丈夫」
山口にはクッションの上に座ってもらい、民喜はたたんだ敷布団の上に座った。山口は細かな英字がプリントされた黒いTシャツを着て細身のジーンズを履いていた。手には丸めたポスターのようなものを握っている。
互いの足の先が触れ合いそうな距離で山口と対峙すると、民喜はいよいよ緊張してきた。山口の体から香水と汗とが入り混じったような独特な匂いが漂ってきた。
山口は少しの間の後、
「戦争法案が強行採決されたよ」
と言った。
民喜はどう返事をしたらよいのか分からず、
「そっか」
と頷いた。
山口はふと気が付いたように握りしめていたポスターに目を遣り、床に置いた。巻かれていた紙がスルスルと開きA3くらいの大きさのプラカードになる。デモで使っていたものなのだろう、赤色の紙に黒色と白色のゴシック体で大きく「PEACE NOT WAR」と印字されていた。

山口の話によると、安保法案が参議院で採決されたのは午前2時過ぎ。国会を取り囲む人々は当然、強引な採決に抗議の声を上げ続けた。山口も朝の6時頃まで国会前にいたということだった。
今朝までのことを一気に語り終えた彼は、ひどく疲れた表情で黙り込んだ。目の下には小さなクマができている。
民喜も疲れて頭がぼんやりしていたが、それは単に意味もなく起き続けていたことによる疲労だった。夜通しデモに参加していた山口と比べて、自分は一体何をしているのだろう……?
とまた激しい自己嫌悪が民喜を襲った。
ゆっくりと首を振る扇風機の音を聴きながら、
「ごめん」
謝罪の言葉が口をついて出て来た。
「何で?」
「いや……。何となく、いろいろ」
山口は怪訝そうな表情で民喜を眺めた後、
「でも……これで終わりじゃない。終わりにしちゃいけない」
床の上のプラカードを見つめ、自分に言い聞かせるように呟いた。
まったく会話が噛み合っていないな、と思いつつ山口の顔を見つめる。驚くべきことに、彼の赤く充血した目に微かに涙が浮かんでいた。
民喜は何か言葉をかけねばと思い、
「朝ごはんまだ? 何か食べる?」
と尋ねた。
「いや……」
山口は小さく首を振り、
「それより……ビールある?」
と言った。
「あ、あるよ」
民喜は急いで立ち上がり、冷蔵庫から500ミリリットルの缶ビールを取り出して渡した。
「サンキュー」
山口はプシュッと音を立てて缶の蓋を開け、
「あ、民喜は?」
「じゃあ、ちょっとだけ……」
「今日は、予定はない?」
「うん、大丈夫」
湯飲み茶碗を取り出してきて、ビールを注いでもらう。
「お疲れ」
「お疲れ」
なぜか二人で乾杯をする。朝にビールを飲むなんて、はじめての経験だった。一口飲むと一瞬頭がクラッとした。山口はゴクゴクと勢いよくビールを飲み、
「あーっ、うまい!」
ホッとしたような表情になって笑った。今まで見たことのない、人懐っこい表情だった。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が山口の右半身を包み込んでいる。山口は窓の方を向いて眩しそうな顔をした後、
「ごめんな、いつも民喜には甘えちゃって」
民喜の方に向き直って言った。
彼の言葉の意味がよく分からず、
「え? 何が?」
と尋ねると、
「今日も甘えて無理言っちゃって、ごめんな」
少し照れくさそうな表情で山口はビールを飲んだ。
甘えている? 山口が、俺に……?
「民喜と話していると、安心する」
「え?」
「ほら、最近さ、人の言ったことをすぐ否定したり批判しようとする風潮があるじゃん。でも民喜は否定するんじゃなくて、一度ちゃんと受け止めてくれるから」
山口の言うことがよく飲み込めないまま、
「うーん、あまり自覚はないんだけど……」
民喜は無理に笑顔を作って湯飲み茶碗のビールを口に含んだ。
山口が俺に甘えているなんて、考えたこともなかった。てっきり山口は俺のことを軽蔑してるものだと思っていたのだけれど……。


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