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【新連載】小説『ネアンデルタールの朝』①(第二部第1章-1)

第二部
泉。泉。泉こそは……

僕はひとり暗然と歩き廻って、自分の独白にきき入る。泉。泉。泉こそは…… (原民喜『鎮魂歌』より)

タイトル

2015年9月 東京

第1章

1、
民喜はすでに1時間近く、食堂のテーブルに座ってぼんやりと外を眺めていた。雑木林に囲まれたキャンパス内を学生たちが行き交っている。全面ガラス張りのこの食堂からは、外の様子がよく見渡せる。
テーブルの上のスマホを取り上げ、時間を確かめる。就職ガイダンスが始まるまで、あと40分ほど……。小さくため息をつく。
ガイダンスは再来年の3月卒業の学生を対象とするもので、外部の講師による講演、学内の就活支援行事の紹介、内定が決定した上級生からの報告会などが予定されていた。
数日前から民喜はこのガイダンスのことを考える度、憂鬱な気持ちになっていた。今後のために、とりあえず出ておいたほうがいいのは分かっているのだけれど……。
一人の学生が足早に本館の方向へ歩いてゆくのが見える。何度か話をしたことはあるけれど、名前は知らない学生だった。
一口分を残して5分ほど放置していたカレーを完食し、ゴクゴクとコップの中の水を飲み干す。できることならもう自分のアパートに戻って休みたかった。
食堂の中は履修登録を終えたのであろう学生たちで賑わっている。民喜自身は1時間ほど前に今学期の履修登録を終えたところだった。図書館のパソコンで履修科目登録をし、アドヴァイザーの教授と面談をし、教務課に登録用紙を提出する――一連の手続きを終えると、ドッと疲れを感じた。履修登録を完了しただけで、まるでいま自分の内にある力のすべてを使い果たしてしまったようだった。 
「久しぶりー」
「元気だった?」
女子学生たちの明るい声が聞こえてくる。夏休みが終わり、秋学期が始まろうとしていた。

東京へ戻る日の朝、母と咲喜が駅の改札口まで見送りに来てくれた。
「民喜、体には気をつけて。着いたら連絡ちょうだいね」
心なしか涙ぐんでいるように見える母に、
「うん、分かった」
と返事をする。
「おにいちゃん、元気でね」
笑顔で手を伸ばす妹とハイタッチをする。咲喜とは別れ際、いつもハイタッチをするのが恒例だった。
「咲喜も……」
咲喜も元気で、と言おうとして民喜は口ごもった。
(咲喜の方こそ、元気で……)
胸の内でそう呟いて、
「じゃ、色々、ありがとう」
無理に笑顔を作り、二人に手を振った。改札を過ぎてしばらくしたところで振り返り、母と妹にもう一度手を振る。咲喜はぴょんと飛び跳ねて手を振り返してくれた。

「東京駅、東京駅です。……」
駅員のアナウンスと共にホームに降り立った時、民喜は唐突に心細さを覚えた。大勢の人が足早に行き交う駅の構内……。福島ではこんなに大勢の人が慌ただしく行き交う光景を見ることは絶対にない。
中央線に乗り換え、電車の窓から新宿の景色を眺めていると、街の中を覆っている空気感に明らかな違いがあることを感じた。
ここは違う。福島とは違う――。
思わず福島に引き返したい衝動に駆られたが、こっちには明日香さんがいることを思い起こし、何とか堪えた。
そう、こっちには明日香さんがいる。またもうすぐ、明日香さんと会える。……

勢いよく椅子を引きずる音を立てて、隣のテーブルに座っていた女性が立ち上がった。おそらくアメリカからの留学生なのだろう。顔に見覚えはあるけれど名前は知らない子だった。
留学生の女の子と入れ替わるようにして、食堂の入り口の方から山口凌空(りく)がやってくるのが見えた。誰かと話をしながらこちらに近づいてくる。山口は身長が185センチあるので、遠くからでもすぐに分かった。
民喜は慌てて目を伏せ、机の上のスマホを手に取った。意味もなく画面をスクロールさせて、山口たちに気づいていないふりをする。山口の顔を見たとたん、胸の内にザワザワとしたものが生じ始めた。
しばらくすると目の前に人の気配がし、
「民喜」
焼肉ビビンバが載ったプレートを手に、山口が自分を見下ろしていた。
「おう」
顔を上げてあたかもいま山口たちに気づいたかのような表情をしてみせる。山口は赤色のぴったりとしたTシャツを着て、色落ちしたジーンズをはいていた。下から見上げると、山口の背丈はますます大きく見える。
山口の隣にいる学生は民喜と同学年で、顔は知ってはいたが、やはり名前までは知らなかった。背はあまり高くはないけれども、がっしりとした体格をしている。ワイシャツを着て黒いズボンを履き、いかにも真面目そうな雰囲気。プレートには牛丼とみそ汁が載っていた。
「ご無沙汰」
「履修登録は終わった?」
「うん」
「俺らも、いま終わったとこ」
山口たちはテーブルの向かいに座った。民喜はスマホをテーブルの上に戻し、心の中でため息をついた。
「あー、腹減った。俺ら、いまから昼飯」
二人は何もしゃべらず、黙々と昼ご飯を食べ始めた。よっぽど腹が減っていたのだろうか。
山口はいつものように前髪を整髪料できっちりと固めていた。背が高く顔も整っていて、こういう人が女子からモテるのだろうな、と彼を見る度に思う。
ビビンバを三分の二ほど食べたところで、山口はふと思い出したように顔を上げ、
「帰省、どうだった」
と言った。
「うん、まあ」
曖昧な返事をする。自分がこの夏に経験したことについて、どう説明したらいいかよく分からなかった。
会話はそこで途絶えてしまった。会話の続きを考えている間に山口はビビンバを完食した。
「山……」
山口に話しかけようとした瞬間、山口の友人も何かを言おうとした。言葉が重なり、二人とも口をつぐむ。彼が民喜に対して「どうぞどうぞ」というジェスチャーをしたので、
「あ、ごめん。あの……山口たちは、4時からの、どうするの?」
「4時からのって?」
山口は民喜の顔を見つめた。民喜は何故か恥じるような気持になり、小声で、
「就職ガイダンス」
と言った。
「あー」
山口は一瞬何かを考えるような目をした後、
「俺は行かないよ。めんどいじゃん」
大声でそう言って、笑った。
「もっちゃんは、どうする?」
隣の友人のあだ名は「もっちゃん」であるということが分かった。「もっちゃん」と呼ばれる友人は一瞬の間の後、
「俺は一応行く。一応」
と答えた。
「もっちゃん、真面目だなー」
山口はおどけたような調子で言った。「もっちゃん」はそれには答えず、テーブルの上の紙ナプキンを取って口をぬぐった。
「俺は夕方からデモに行く予定」
山口は正面を向いて言った。
「いまが正念場だからな。このままじゃ、マジで強行採決されちまう。今こそ、俺ら国民の意志を示して抵抗しないと」
山口の言葉を聞いて、民喜は再び胸の内がザワザワとし始めるのを感じた。さっき彼を見かけて胸騒ぎを覚えた理由は、これだったのだ。山口に会ったらきっとデモの話になるだろうから、顔を合わせたくなかったのだ。
「もっちゃんも民喜も、時間があったら、宜しく」
民喜は曖昧な笑顔を作って軽くうなずいた。「もっちゃん」は太い眉毛の間にしわを寄せてしばらく黙っていたが、
「分かった。ガイダンスは6時までだから、ちょっと遅れると思うけど……行くわ」
何かを決意したような口調でそう言うと、それまでの硬い表情を崩して笑顔になった。笑うと思いの外、幼さを残す表情になった。
「そっか、サンキュー」
嬉しそうな顔で山口は頷いた。
山口の口から「デモ」という言葉を聞いてから、民喜はだんだんと頭の中がぼんやりとしてくるのを感じていた。二人の会話が何だか遠くの方でなされているような気がする。確かに自分も安保法案は嫌だし、採決されてほしくないとは思うけれど……。
「民喜はどうする?」
山口の声に民喜はフッと我に返り、
「えーと、どっち? ガイダンス? デモ?」
と尋ね返すと、
「デモ。決まってんじゃん」
山口は少しムッとしたような口調で答えた。
民喜はうろたえて、
「実は、一昨日から風邪を引いて、あまり体調良くなくて……。これから家に帰って休む。ごめん」
咄嗟に嘘をついてしまった。
「ごめん。来週は行くから」
「いや、別にあやまる必要はないよ。了解。デモは各自が行けるときに行けば、大丈夫だから」
山口は穏やかな口調に戻って言った。
早くこの場を離れたい、と思う。「もっちゃん」が牛丼を食べ終わるタイミングを見計らって、
「じゃ、お先」
民喜はスマホをズボンのポケットに入れて立ち上がった。
「うぃっす」
山口が手を挙げる。
「お大事にー」
と「もっちゃん」が抑揚のない声で言った。民喜はカバンとプレートを手に、無理をして微笑みを浮かべて頷いた。
数メートルほど歩いたところで、背後から二人の笑い声が聞こえた。一瞬、自分のことを笑っているのではないかと思って血の気が引いたが、そんなことはないだろうと思い直した。

……

*お読みいただきありがとうございます。これから毎週月曜~金曜に更新をしてゆく予定です。ぜひ読んでいただければ嬉しいです。

第一部「あの青い空の波の音が聞えるあたりに」(全27回)はこちら(↓)からどうぞ。

物語紹介と登場人物紹介はこちらの投稿(↓)をご参照ください。


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