嘘・解釈・見極め
よく立ち寄る図書館に行った。二時間あまりをそこで過ごしていたら、閉館のアナウンスが流れ始めて席を立った。
かばんに本やノート、筆記具をつめ、立ち上がる。閉館時間が迫っているにも関わらず、わたしはなぜか中央の出入り口に直行せず、ぐるりと遠回りした。
雑誌とそのバックナンバーが並ぶコーナーを抜ける。人文学系の専門書のコーナー。哲学や心理学といったジャンルの本が並ぶ。特に何かを借りようと思っていたわけではなかった。何かヒントになるような言葉を拾いたくて、十分程度の立ち読みをして帰ろうと思ったのだ。
目に留まるタイトルは、いま自分の抱えている何か、解決したい何かにつながる。そう信じて背表紙を追う。とはいえ、あまり深くは考えずに。
一冊の本をめくった。信田さよ子の本だった。わたしの身長からちょうどよい高さの棚に並んでいて、これまたちょうどよい単語が並んでいた。
『暴力とアディクション』
しっかりと読むにはしんどい内容だけれど、帰り際の立ち読みならいまの自分にちょうどいい。
雑誌か何かの連載をまとめた本のようだった。テーマのひとつずつは短く、素人にもわかりやすい構成にみえた。
多くの患者をみてきた筆者の臨床の記録のようだった。タイトルにもあるように、主に暴力被害にあった人と依存症の関係について、筆者の思索が述べられていた。
患者の中には、病院や支援機関などで相談をしても「それは嘘だ」「そんなことがあるはずがない」と、勇気を出して語ったことを否定されてきた人も多く存在していたという。深刻な被害であればあるほどその傾向がみられ、患者は「やはり誰も助けてくれない」「理解してくれる人はいない」「誰も信じられない」と落胆する。
筆者は、カウンセリングを行う際、患者の言葉を分析しようとか解釈を加えようとせず、ただ信じるところから始めるのだという。それは、先のようなかなしい経験をしてきた患者に出会ってきたからというわけでなく、心理職についた当初からの信念だったという。
患者が「自分の話したことをまるごと信じてもらえる」という実感を持つことは、何よりの安心感につながるはずだ。「こんなことを言ったらどう思われるか…」という不安は、患者の口を閉じさせ、カウンセリングは進まないどころか、他人への不信感を募らせ、生きにくさに拍車をかけるかもしれない。
本には、もし何らかの理由で患者に嘘をつかれていたとしても、だまされたのだなと思うくらいでたいした問題ではない、というようなことが書かれていた。(立ち読みゆえにうろ覚えで、ニュアンスに相違があるかもしれない)
カウンセラーという職業はそういうものなのか、と思った。もちろん、世の中のカウンセラーや支援職の人たちがみなそのように考え、実践しているわけではないとしても。わたしも、筆者の述べていることや信じていることがどんな場合でも絶対に正しい、と伝えたいわけではない。
わたしが信頼して話を続けられている相手は、おそらく「わたしの話を信じてくれている」とこちらも信じられている相手だろう。わたしも不安になることはあるし、「これは仕事上の社交辞令的発言なのではないか」「これは一時的にわたしを安心させているだけの言葉で、本当は何を考えているのかわからない」と感じてしまうこともある。けれど、それでも、つきあいをやめず、口を閉ざさず、どうにか言葉をつないでいる。
自分でも発することが恐ろしいほどの内容を語ることは、相手がどのように捉えるかなど考える余裕を持てない切迫感がある一方、一世一代の勝負事に値する「賭け」であったりもする。「支援者に裏切られた患者は、つねに支援者を見極めている」というような文章があった。わたしが、そのように目を光らせ言葉を選んでいるとは言わない(言えない)が、その気持ちはわかる気がする。
きょう、この本のタイトルが目に留まったのも、きっと次のカウンセリングまでもう少しだから。話すのはこわい、でも話して離したい。見極めようとしていることは、相手を値踏みしているわけじゃない。備えられた最低限の護身術が、正常に作動しているだけのこと。
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