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人目を気にしなくて良い理由について

他人から見た自分と自分から見た自分は違う。

以下本文。


◾️人目が気になる本当の理由

しばしばこんな悩みをみかける。
「周りの目が気になるから意見を言えない」「変な風に思われたら嫌われそうだからつい良い顔をしてしまう」。

自分もこれについては思い当たる節があるので、今回はこのよくある一般的な悩みBEST10に入りそうなやつを掘り下げていこうと思う(勝手に)。

そこで結論から先に書くが、人目が気になるのは自分に価値があるだろうと思うからだ。いやいや、自分に価値があるのは当たり前だろう…そんな人もいるかもしれないが。

その上で敢えて言いたいことがある。すべての人の命の重さや価値にどれほどの違いがあるのかと。
せいぜいあっても収入やら人間性やら職業上の権力やら、その程度ではないだろうか。しかし、それも言うなれば文化的で先進的な社会があるという背景の下に成り立つもので、実際それを抜かしたら人間なんてそこまで大差ない生き物だ。

それをどうしてか人にはそれぞれ重みや質の違う価値があるなんて思ってしまうのは、そういう文化的な云々の背景の問題と単純な人の命をごっちゃにしているからだ。
例外中の例外はあるだろうが、大体の人は約60km/hの鉄の塊が全速力でぶつかってきたら命は無いだろう。極端な話。

それでも必要以上に人目が気になるのは、ただ他人が良く見えすぎているに他ならない
あまりにも複雑に捉えて他人が良く見えすぎて、その人と相対的に自分を比較した時「あの人にはあんなに価値があるのに、どうして私はこんなにも価値が無いんだろう」とか思ったりする。

そして、その価値がある状態(定義が曖昧)が(社会全体的な規模では)当たり前だと思ってしまう。それで自分には備わっていない「当たり前の価値」が無いと感じてめちゃくちゃ焦る。自分は普通じゃないと言って。

だが冷静になって考えて欲しい。
そんな風に考えてしまうのは、その人と同じ分量の当たり前の価値が自分にあると思いたいからではないかと。大体、最初からその人と同じになれないと思うなら潔く諦めるのが筋ではないかと。
どこかで「自分は当たり前の水準に達せる価値がある」と信じていて(信じたくて)、自分にものすごく期待しているから頑張って手を伸ばしてしまうのではないかと。

◾️人間一人単位の相対的な価値は如何ほどか

だが、残念ながら人間一人に大した力なんてない。

根性論なんて本気にしてやっていたら鬱病になるだろうし、疲れているのにフルマラソンなんてやったら体を壊すだろう。それは誰しもが人として生きる以上仕方なく生まれ持っている「限界」でしかない。

歳を取ったら体力が落ちて異性から見向きもされなくなる。
努力次第でそれをカバーできる人もいるだろうが、そんなのは結局見た目だけの問題で、時が経てば人の体は衰えていく。これは人に限った話ではなくて、生きるというのはそういう「限界」と一緒に長い時間を過ごしていくということである。

人と自分が違って見えるのは、他人の上辺だけが見えているからだ。
その人の背景にある歩んできた人生とか、そこにあった苦労とかが見えないからそういうことになる。もしかしたらその人は自分が知らないだけで血が滲む思いをしてきたのかもしれない。

だが、過ごしてきた時間は、誰しも1日24時間という短い時間の繰り返しと積み重ねに過ぎない。相手の年齢が高ければ、ただ自分よりその繰り返しと積み重ねが多かっただけだ。

一人一人の価値の違いなんて所詮そんなものだ。
今、会社を辞めたところで一部の歯車が動かなくなったとしても、それはまた誰かの手によって動かされていく。
誰かの埋め合わせは誰かがやれるほどで、一人一人の価値なんて実はそう大差なかったりする。

◾️自信は後からついてくる

だからと言っては難だが。
自分と他人を天秤にかけて無理に謙虚でいる必要はないと思う。無論、「他人の存在で自分を律していることに居心地の良さを感じている人」を除いての話にはなるが

自信が無いから人目が気になるなんて言う人もいるものだが。
正直言ってあれは詭弁だと思っている。もちろん個人単位で。
そもそも「自信を持てば何もかもが上手くいく!」なんてどこの胡散臭いビジネス書のタイトルみたいな字面かと()。

自信なんてどこにもありはしない。願ったからといってサンタさんが届けてくれるわけではない。
自信は、ただ自分が現状を変えたいと思って行動している時に、意図しないところからこっそりと追いかけてきてくれるオマケみたいな存在だ。

少なくとも人目が気になるのは、「現状の自分(不満足)を誰かが嫌わないか気になって仕方がない」とかいうどうしようもない考え方が根底にあるからだ

そんな状態で「自信が持てなくて…」と言われたらどう思うだろうか?個人的な感想にはなるが「そんなの当たり前だろう」としか言いようがない。

人目が気になる人は現状の自分(不満足)を見て他人と比べて「なんてダメなんだ…こんなんじゃ嫌われるかも…」と言っているだけだ。

ではどうしたら自信を持てて人目が気にならないようになるか。
簡単な話だ。自分のダメなところを直す努力をすればいいだろう。他人と同じ「1日24時間」の時間が与えられているのだから。

◾️自分と他人の境界

これはおまけ的な話題だと思って読んでほしい。

別に明確な根拠もないが、ただ自分がそうやって悩んでいる人を見てきてなんとなく思っている話だ。ある意味所感的な話になるので、参考にしたい人は読んでほしいなと思って書く。

人には無意識、意識的に関わらず、広さは違えど他人と自分の距離感を示す心の領域がある。

健康的な人であればそのテリトリーというのは目に見えているほど明確だから、相手がこれ以上踏み込んだら嫌だろうなと思える範囲が分かるのだが。

人目を気にしたり、人の事が気になる人はそれが全く見えていない。見ていないのではなくて、認識ができないのだ

自分と他人の距離感がわからない(境界線が曖昧)ということは、すなわち「自分と他人との違いがわからない」状態でもある。どこまでが自分で、どこまでが他人のものかわからない。

自分が「嫌だ」と思ったり「嬉しい」と思ったことが、他人に当てはめてみた時にそれが自分の感想なのか相手の感想なのかわからないのだ。それは端的に相手を見れていないからでもあるが、それほどまでに他人と自分というものが混ざってしまってわからないという状況がある。

これはとても危険な状態だ。ある人はそれで気を病むだろうし、相手がどう思うかわからないから必要以上に気にしすぎて頭が混乱する。
特に、近年になってよく話題に上がるようになった「HSP(Highly Sensitive Person)ハイリー・センシティブ・パーソン」なんかはこれが該当するだろう。

これに関してだけは、どこまでが自分でどこまでが相手のものか直接目で見て訓練していくしかない。どんな理由があるにしろ、安心感や鈍感力というものは経験でしか補えるものではない。
もし気づかないうちにそうなっているならば、意識的に考え方や見方を変えていくほかない。

◾️自分を知り自分の人生を歩め

その上で、まずは他人ではなく自分というものを知る必要がある。

他人が必要以上に気になってしまうのは、本当の自分をよく解ろうとしていないことの裏返しでもあるからだ。
自分という存在に集中することは決して悪いことではない。他人ばかり気にしてもそこにあるのは他人という存在だけであり、他人を知ることで自分を知れるわけでもないのだ。

人目を気にしすぎて人に合わせてばかりの人が、いざ意見を求められてドギマギするなんてよくある話だ。
それはあるべき自分の本音を押し隠したり、自分のあり方を他人と比較して否定して生きてきたことのツケのようなもので。

それでも、他人が求めているのは「その人自身」であり、決して「他人にとって都合の良い人間」ではない
そもそも、ただ都合が良いだけであるならそれは「AI」か「ロボット」が担う仕事のはずで、意思がある人間がそんな機械的なことをする必要なんてないと思う。

他人の目を気にして人生の舵を切っても、それは自分の手ではなくて他人の見えない手で動かしている人生にしかならない。
ある時に「違う場所へ行きたい」と思ったとして、どこかで自分の手で船を動かそうとしても思うように制御できなくて戸惑うのかもしれない。

あるいは、無理に動かそうとしてしまって船が思うように動かなくなって、どこかにぶつかって動けなくなるかもしれない。
結局は自分の手で動かさねば怪我をするのは己自身で、船を動かす責任はずっと自分の手に委ねられている。

自分の手で動かすことができたなら、思い立って面白いと思える場所に舵を切っていけるのかもしれないし、それはそれで新しい友人を見つけたり、かけがえのない宝物を発見できたりするのかもしれない。

◾️ まとめ

と、また長々と書いてしまったが。
人目を気にするのは、それだけ人生の無駄だということを書いておきたかった。

それで損をするのはその人自身なのかもしれないが、個人的には自由であって自己責任も増える分、視野が広くなると見えてこなかったものも見えてくるのだと伝えたい。
無論そこには辛いものもあるし、気づきたくなかった自分の嫌な面も見なければならないが。それでも、人目を気にしないで生きていくのは気にしているよりも遥かに気楽だと思っている

自信なんて無理に持つものじゃない。
寝て覚めて自信がついたなんて夢物語で、多くの人は不満足な自分を見直して改善するうちに「ちょっとダメな自分でもいいかも」と思えてきて、気付いたら自信がついているものだ。

大事なのは、自分を知り自分を見つめること。
そのためにネットでMbtiとかを始めとした性格診断や自己分析をするのは大いに意味があると思っている。あ、よく分からないが都合の良いことしか言わない占いとかじゃなくてね。
無料でそういうのが受けられる時代なんだから、そういうのを活用しない方が勿体なんて言ったらまたどうかと思われるが(?)。別にケチだっていいじゃないか、とね。

完璧な人間なんていないのだから、ある人が良く見えて仕方ないなんてあってもそれは結局のところ自分がその人の光が当たっている部分しか見えてなかったに過ぎない、なんてこともよくある話だ。

光が当たれば影ができるのと同じく、光が当たっていなければ影は見えてこないし、まずは陽の光が差し込んでくるところに自分の身を置いてみるということが大事なのではないかと。

悲観的になるほど人はダメであっても、それが良いと言ってくれる人が世の中を渡っていけば最低でもこの1.258億人の社会に1人や2人はいるだろうから、そういうのに賭けてみるのも悪くないと思う。

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