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キッズオーケストラ

 我らがカリスマ指揮者大振拓人が大変な子供好きであることはよく知られている。大振はインタビュー等で事あるごとに子供たちへの愛を語っているからだ。子供こそ未来の希望。あの子たちの天真爛漫な笑みを絶やしてはならない。彼は時に涙を流して子供たちについて語っている。その大振の子供達への愛は彼の芸術に対する態度のように非常に献身的であり、また非常に厳しいものであった。

 先日彼の元に昔少年合唱団で一緒に仕事をし、それからプライベートで一緒に遊んでいた少年が久しぶりに訪ねて来たことがある。少年はお小遣いが欲しいとか、何か金目になるものが欲しいとかそんな子供らしい無邪気な望みを持っていたと思うが、だけど昔兄弟同然に仲良くしていた少年の久しぶりの来訪である。金やプレゼントはやらないにしても笑顔で少年を出迎えるとみんな思うではないか。しかし大振は少年を氷のような目で睨むとすぐさま玄関から叩き出してしまったのだ。少年は昔とあまりに違う大振の態度に僕だよと自分の名前を言って彼にドアを開けてもらうよう頼んだが、大振はドアの中からその少年に年齢を聞いたのである。少年は言われるがままに自分の年齢を言ったのだが、それを聞いて大振は貴様はもう子供じゃない!子供でないのに子供のふりをするとは何事か!と怒鳴りつけて少年を中に入れるのわ拒否したのである。大振にとって子供とは十五歳以下の以下の人間の事であった。しかし彼は昨今の子供達の発達ぶりを考えて子供の設定年齢を十二に変えることを検討し始めてもいた。大振の愛する子供の基準とはかくの如く厳しいものであった。設定年齢を一日でも超えたらもはや子供ではない。彼はその価値基準を未成年の少年少女だけでなく自分でも厳しく守った。どんな心を動かされようが子供でないものは子供でないと泣く泣く突っぱねた。その泣いて馬謖を切る的なあまりに厳しい仕打ちは、彼の指揮そのままであった。

 かのように何故にかくも大振拓人が子供好きであるのかを考察するとそれはやはり彼の育った家庭環境に全て起因するのではないかと我々は考える。大振は先日の熱情大陸で自らの悲惨な少年時代を涙を流しながら、四畳半の畳がボロボロになったマンションで他の同級生たちのようにヤマハの格安ピアノすら与えてもらえず、仕方なくベヒシュタインのピアノを弾いていた事。欲しかったNintendo Switchを買い与えられずポケモンが出来ない悔しさに泣きぬれた事。そして息子を利用して成り上がろうとする両親によってボロアパートの三階にある監獄塔と呼ばれる場所に閉じ込められてそこで幽鬼のような老人に朝から晩までピアノを弾かされ、ミスのたんびに薔薇の茎で作られた鞭で叩かれたことを語った。このカリスマ指揮者のあまりに悲しい少年時代の話は当然話題になり、カリスマ指揮者をいぢめぬいた彼の両親に対して一斉に非難の声が向けられた。

 ネットで両親への非難の声が拡散され、週刊誌にも取り上げられ始めた頃、両親側の関係者と名乗るものがTwitterで大振がテレビや色んな所で言いふらしている彼の少年時代のエピソードは全部出鱈目だと反論した。その関係者は自ら大振拓人の弟だと名乗り、まず大振が子供時代に四畳半のボロアパートに住んでいたと発言していた事を大振の子供時代の写真を上げてまるっきりの出鱈目と言い切り、両親は昔から三階建ての持ち家に住んでいたと証言した。それからNintendo Switchについても彼はそれは多分Nintendo DSの事だと思うけど、兄貴はポケモンどころかゲーム自体を全くやらない人間で、それどころかゲーム自体を軽蔑して、ポケモンをやっている自分からNintendo DSを力づくで取り上げ「そんなものやったら貴様の脳みそが死滅する」と言って三階からDSを投げ落とされた事があると暴露した。大振の弟と名乗る男によると大振が貧乏から成り上がりたい両親によって三階の監獄塔と呼ばれる場所に監禁されて、幽鬼のような老人にピアノを叩き込まれたというのも嘘であり、両親は商社の幹部の恵まれた人間であり、決して貧乏人ではない事。リベラルな両親はむしろ子供たちの意志を尊重し自由気ままにさせていた事、大振がピアノを習い出したのは完全に彼の意志であり、しかもわがまま放題の大振は両親に向かって、モーツァルトの如き天才の俺には貴様らの財産を無限の投資をすべきだと言って、某有名な女性ピアニストに習わせたり、ドイツに留学させろとか、とにかく事あるごとに多額の金を持ち出させていた事を暴露して、大振がとんでもない嘘つきであると告発した。告発の最後に彼は自分たち家族が大振の嘘に苦しめられていることを明かし、そして大振に謝罪を迫った。

「ハッキリ言って俺たち家族は今現在までずっと兄貴に苦しめられ続けているんですよ。オヤジとオフクロは兄貴に一番お金をかけてるんですよ。そりゃ兄貴は確かに天才だしその才能を伸ばすためだったらいくらでも金かけていいですよ。でもですね。兄貴は言われるがままにお金を出してくれたオヤジたちに感謝するどころか、何故か大嘘までついて一方的にオヤジとオフクロを中傷してるんですよ。昔から兄貴のことは訳のわからない人間だって思ってましたけどもう限界ですよ。家には大振さんのおかげで家が建てられたくせしてどうして大振さんをいぢめるのとか落書きまで書かれるし、もううんざりですよ。僕は兄貴が素直にオヤジやオフクロに対して今まで嘘をついて迷惑をかけて来た事をを謝って、そして世間に対して、自分が今まで指揮者としてのキャラ作りのためだけに、ずっと大嘘をつき続けていた事を正直に白状して真摯に謝罪してくれる事を願っています」

 大振は弟と名乗る男の告発にすぐに反応した。彼は素直にこの告発者が実の弟である事を認めたが、弟の告発文の内容を一切認めず、逆に弟が両親に洗脳されていると喚いた。哀れな弟よ、と同じように幽鬼の老人にピアノを押し付けられて、そのしごきから逃れようと二人で屋上に脱走して一緒にポケモンを遊んだのにと、今までポケモンをやらせてもらえなかったと話していたのはなんだったのか的な事を語り、それからあんなに素直だったアイツが両親に洗脳されてからすっかり変わってしまい、挙句の果てにもう兄弟ではないと絶好されたと涙交じりに語り、とまぁ彼はこんな事を泣き喚いたりして無理矢理騒ぎを鎮静化させてしまったのだった。というわけでとにかく彼が子供好きなのは、いろんな意味で彼が満たされない少年時代を送ったからだ、と私は考えている。もう話が混乱して自分でも何を言っているのか分からなくなったが今はとにかくそうと言い続けるしかない。


 そんな大振にキッズオーケストラなる名前の子供だけの楽団の運営から指揮をして欲しいという仕事の依頼がきた。当然子供好きの大振はその話をプロモーターから聞いて乗り気になり前のめりになってもっと話を聞かせてくれとせがんだ。しかしプロモーターは浮かない顔で彼に言うのだった。

「いやぁ〜、大振さん。今回のキッズオーケストラというのがこれがなかなか困ったもんでして。そのオーケストラは山の手の悪ガキ連中を集めた札つきの悪ガキオーケストラなんですよ。悪い上に金持ちで甘やかされて育っているから手がつけられないって話です。いくら大振さんでもちゃんとまとめ切れるか。しかも相手は子供だから親御さんの目もあるし、なかなか難しい仕事だと思うんですよ。ましてや今はSNSで何か問題あったらすぐに世間に晒されるし、どうしたもんかと……」

「何がどうしたもんかだ」と言うと大振は突然ソファーから立ち上がった。そして目の前に控えるように座っているプロモーターに向かってこう力強く言った。

「悪ガキを集めたオーケストラだって?上等じゃないか。その悪ガキの中に未来の天才がいると思うとゾクゾクして震えがくるよ。いいかい?子供は未来の可能性そのものなんだよ。才能ある子供は世間のルールに馴染めずにはみ出そうとするものさ。きっとその子供たちは今の日本のクラシック教育に不満なのだ。クラシックはここ三十年全く発展していない。いつも同じことの繰り返しだ。そんなものを教えられても好奇心溢れる子供は反発するに決まっているじゃないか。お前の話を聞いて僕はますますキッズオーケストラの指揮をやりたくなった。子供たちとさほど年の離れていない僕なら友達感覚で彼らにクラシックの魅力を教える事ができるはずだ。逆に子供たちが僕に指揮してよぉ〜ってねだってくるかも知れないぞ!」

 プロモーターはいつもの態度ではあるがこの大振の自信に満ちた態度に大丈夫だと確信した。さすがはフォルテシモで全て乗り切った男。彼にとっちゃガキなんかただの鰹節だ。プロモーターはその場で大振に契約書を差し出し、大振は差し出された契約書に大きく自分の名前を書いた。

 さてこうして大振はキッズオーケストラの指揮を行うことになったのだが、当然その間彼のフォルテシモオーケストラの団員は仕事がなくなるのである。大振は掛け持ちで仕事をやらない人間なので事実上一ヶ月近く何もできなくなる。コンサートマスターの石目羅礼男はそのことについて大振に相談を持ちかけた。すると大振は少し考えてから石目に向かってお前指揮経験はあるのかと尋ねた。石目は指揮は本格的に学んではいないが、音大時代に何度か指揮をやっていると正直に話した。するとそれを聞いた大振は満面の笑みを浮かべ石目にこう言った。

「じゃあお前が俺の代わりに指揮をやればいい。しばらくフォルテシモオーケストラはお前のものだ」

 この言葉に石目は驚愕したが、それは我々もまた同じである。あの大振がたとえ団員といえ自分のオーケストラの指揮を他人に任せるとは。これはキッズオーケストラの指揮の仕事を大振がどれほど喜んだかのいい証拠だろう。大振は今少年に戻ったかのようにキッズオーケストラとの出会の日を待ち焦がれていた。早くキッズオーケストラの団員に会いたくて思わず彼らが場所を借りて練習しているという某私立中学の体育館を覗きに行ったことさえある。彼はキッズオーケストラの団員と会う日が近づくにつれ一日中キッズキッズと呟いていた。キッズオーケストラで頭がいっぱいになっていた彼はある日いつものオーケストラとの練習の際に、「みんなぁ〜!大振お兄さんの登場だよ!」と気持ちの悪すぎるほど満面の笑みを浮かべて登場し、団員たちを一斉に引かせてしまった。

 大振は依頼元であるキッズオーケストラの運営と今後のスケジュールについて話し合った。大振はまず運営に子供たちの年齢を聞いたのだが、運営が全員十二歳以下と答えると嬉しさのあまり飛びな跳ねた。おお!なんて事だ!全員正真正銘の子供ではないか!運営の人間はカリスマ指揮者の大振がキッズオーケストラの指揮を引き受けてくれた事に感謝しきりだったが、心配そうな顔で本当に引き受けてくれるのかと念を押してきた。彼らはなんなら一度お忍びでオーケストラの稽古場に見学に来てそれから改めて考えてみてはどうかとも言ってきた。しかし大振はスクッと立ち上がり腕を広げてやると言ったらやる!俺がやらなくて誰が子供たちを未来に導いてゆくのかと運営に向かって堂々とやると言い切ったのだ。

 かくして大振とキッズオーケストラの公演日が決まり、それから間もなくして大振の代理で石目羅礼男が指揮を務めるフォルテシモオーケストラも最近注目されているクラシックフェスティバルの出演を決めた。キッズコンサートのチケットはカリスマ指揮者が子供たちのオーケストラを指揮するという微笑ましい話題性もあってチケットは即完売したが、フォルテシモオーケストラのフェスティバル出演に際してはちょっとした騒動が起こった。フェスティバルの運営は客を呼び込もうと出演もしない大振拓人の名をやたらあげて宣伝しまくった。曰く『カリスマ指揮者大振拓人のフォルテシモオーケストラついにフェスに参戦』こんな宣伝文句を見たら誰だって大振がフェスに出ると勘違いするではないか。実際にこの宣伝パンフレットを見た女子が見事に勘違いしてチケットを購入する事態が大量に発生した。あの特等席が一ヶ月の給料分の大振のコンサートが千円代で見れるなんてとファンは勘違いしてチケットを購入したが後でオーケストラだけの出演で指揮者がただの貧相なジジイである事がわかると返金騒ぎが至る所で起こった。しかしキッズに浮かれる大振にはそんな事にはまるで無関心でひたすらキッズオーケストラの初稽古の日を待ち侘びていた。

 そしてとうとうキッズオーケストラとの初稽古の日がやってきた。その日の朝自宅で目覚めた大振拓人はキッズに会うのだから自分も子供らしい格好をした方がいいのではないかと考えた。彼はキッズオーケストラのメンバーが悪さばかりしているのは、大人が子供と同じ目線に立たず一方的に大人の価値観を押し付けるのが原因だと考え、自分は子供の目線に立ち、いや自分も子供になりきってキッズと同じ価値観を共有しよう。そのためには服装から改めねばと考えたのだ。大振は衣装部屋を探し回りキッズ好みの衣装を見つけた。それは彼が昨年子供向けのイベントで着た衣装であった。確かピノキオなんかをモデルにした衣装だったと思う。大振は衣装を着て歌のおにいさんみたいで悪くないなと思った。しかしもっと子供の気持ちになりきらねばと大振は思いアートメイクの赤いインクで自分の鼻と両頬を丸く塗った。

「おおいいではないか!ますます歌のお兄さんっぽくなってきたぞ。これでキッズのハートも確実に鷲掴みできる!」

 と大振は鏡に映った歌のお兄さん的な自分のメイクをひとしきり自画自賛するとまずは事務所のビルに向かった。本日はキッズオーケストラの初稽古と同時に石目羅礼男が代理を務めるフォルテシモオーケストラーの初稽古もあった。大振は事務所にやって来るとすでに彼の前に並んでいたフォルテシモオーケストラのメンバーの前に現れて挨拶をし、それから語り始めた。オーケストラのメンバーは大振が出てきた時彼がピエロみたいな格好をしていたので笑いかけたが、彼が口を開いた途端表情が凍りついた。大振はオーケストラのメンバーに向かって自分はこれから約一ヶ月間オーケストラを離れるが決して気を緩める事がないように、何かあったら石目君に相談するように、毎日一時間毎に全員に状態確認のメールを送るから必ず返事をするように、しなければ減給処分すると訓示を垂れた。彼の訓示を最後まで聞いてオーケストラのメンバーは一斉に息を吐いた。中には泣き出すものもいたが、それは大振と一ヶ月近くも別れる辛さか、はたまたこの支配から卒業、ではなくしばし解放される喜びのあまりしたことなのか、それは我々には想像がつかない。大振は事務所から出る前に石目を別室に呼び、後は貴様に全てを託した。だが俺がいなくなったからって決してオーケストラを甘やかすな。俺はいつでもお前らを見ているんだからなととマッドピエロそのまんまの顔で脅しつけた。それを聞いた気の弱いこの代理の指揮者は心臓麻痺寸前の状態になったが、大振は石目が心臓麻痺になることさえ許してくれそうになかった。

 大振はとりあえずフォルテシモオーケストラのメンバーに必要な事を伝え終わると車に乗りまっすぐキッズオーケストラの稽古場へと向かったが、彼の表情はこれ以上ないぐらいの笑顔だった。やっと子供たちに会える。ああ!この日をどんなに待ち侘びていたか。大振は車の中で悶えた。運転手は後部座席で悶えまくるピエロみたいな大振を見てあまりの気持ち悪さに吐きそうになった。

 一方キッズオーケストラの関係者も続々と稽古場に入っていた。運営は会長始め幹部連中が朝から勢揃いし、カリスマ指揮者大振拓人をどのように迎えるか最後のミーティングを行っていた。彼らは大振が気難しい人間である事を知っていたから粗相があってはならぬと稽古場を周り問題がないかを入念にチェックした。間もなくして団員の子供たちが親と共に入ってきた。子供たちはまるで本番のように正装し、百万以上するであろう各々の担当楽器を抱えていた。幹部連中は子供たち一人一人に向かって今日は大事な日だからよろしくと深くお辞儀をし、そして子供たちが全員が揃うと会長がみんなの前に出て「今日は大事な日だから絶対に悪さはするな。そんな事をしたらオーケストラの存続さえ危うくなる」と切羽詰まった顔で言った。他の幹部連中や親たちは会長が子供たちに話しているのを聞きながら、流石にこの悪ガキたちも大人しくしているだろうと安心したが、残念ながらそれは虚しい妄想でしかなかった。

 子供たちは会長が喋っている側から悪さをし始めた。会長にうるせいなとヤジを飛ばし、自分たちの楽器のケースを立ててボーリング遊びを始め、挙げ句の果てに自分の楽器でチャンバラごっこまでやり出した。子供たちの親は「よしなさい!」と子供を叱ったが、それは子供たちの親世代にはお馴染みの某大物お笑いタレント・映画監督の漫才コンビ時代の相方のツッコミ程度の効果しかなかった。運営はこの有様にこれでもう終わりだと頭を抱えたが、そのダメ押しをするかのように突然激しい音を立てて稽古場の戸が開いた。戸の向こうには長髪をクシャらせた背の高い男が立っている。男は仁王立ちで稽古場を見渡して悪ガキたちを眺めた。その顔すらわからないほど遠くにいる男を見て運営や子供たちの親はあれがカリスマ指揮者大振拓人かと唾を飲み込んだ。ああ!もう終わりだ!こんな有様を見たらどんな指揮者だって指揮するのを拒否するはず。運営はせめて彼を引き留めて一応説得だけはしようと大振のもとに向かいかけたが、その時突然大振がやたらコミカルな走りで子供たちの元に駆け寄ったのだ。一同唖然としてこのカリスマ指揮者のコミカル走りを見ていたが、さらに彼らは大振がピノキオみたいな珍妙な格好で鼻とほっぺたに赤丸を書いているのを認めてひっくり返った。そして大振は子供たちの元に着くと間髪入れず大声でこう挨拶した。

「お待たせ〜っ!大振お兄さんだよぉ〜!みんなぁよろしくねぇ〜!」

 都心であるはずの稽古場に無音の沈黙が訪れた。誰もがピエロみたいな格好をして満面の笑顔で微笑む大振に何もいえなかった。しかし大振はこの沈黙をものともせずに再び子供たちに話しかけた。

「じゃあ早速オフェンバックの『天国と地獄』いくよぉ〜。みんなぁ〜、準備はいいかなぁ〜!」

 しかし子供たちは全く反応しない。

「いいかなぁ〜!」

「いいかなぁ〜!」

「いいかなぁ〜!」

「あの〜みんなどうしたんだい?今日は僕たちの初稽古だろ?そんなに固まってちゃ稽古なんてできないよ。ほらリラックスして!」

「うるせえんだよオヤジ。お前みたいなキモいカッコのオヤジの前で演奏なんかできる訳ねえだろ!」

 このキッズオーケストラのメンバーが大振に言い放った言葉に稽古場は騒然となった。子供が言うように確かにおかしな格好だがそれはカリスマ指揮者がわざわざ子供たちを楽しませようと考えて来てくれたこと。たしかにあり得ないぐらい変だが、いくら無知な子供とはいえ、裸の王様じゃあるまいし、こんな事を言ってはカリスマ指揮者のプライドはズタズタだ。もう完全にブチ切れて帰るかもしれない。大振は二十代の自分がおじさんだと言われてショックを受けて俯いていたが、やがて子供の前で涙は見せてはいけないと思い直し再び笑顔で話しかけた。

「ふふっ、君たちにとっては僕もおじさんに見えるんだね。だけど実は僕君たちのお父さんやお母さんよりずっと若いんだよ。だからお兄さんって呼んでくれないかなぁ〜!お願いだよぉ〜!」

「しつけえんだよジジイ!俺たちはお前の相手なんかしてる暇ねえんだよ!さっさと出ていけ!」

「今度はジジイかい?聞き分けのない子たちだねぇ〜」

 この大振の言葉を聞いて運営や子供たちの親が一斉に一斉に彼の元に謝罪にきた。しかし大振は僕は大丈夫。大体子供というのはこうゆうものじゃないですかとさわやかな笑顔で言って一同を下がらせた。

 大振はこのどうしようもない悪ガキたちの反発を見てかつての自分を思い浮かべた。全くなんて生意気な子たちだろう。でもそんな子たちだからこそ指揮のしがいがある。彼はでは子供たちの自由にさせてみてはどうだろうかと考え悪ガキたちに向かって「演奏したい曲はあるかい?リクエストがあれば指揮を振るから」と満面の笑顔で尋ねた。

 さすがの悪ガキたちもこのいきなりの申し出には戸惑い仲間内でどうすると話し合っていたが、その中の悪ガキの中でも一番悪ガキそうな顔をしている少年が手を挙げた。

「おじさん、じゃあ今から俺らのオリジナル曲演奏していい?指揮とかは別にいらねえよけどね」

 大振はオリジナル曲と聞いてやはりこの悪ガキたちは天才の卵だと思い感激に咽んだ。ああ!先人から僕が受け継いだものを今こうして未来の子供たちに託す。そうやってクラシックは永遠に未来へと引き継がれていくのだ。大振は目頭が熱くなった。もう目から涙が溢れてしまいそうだった。

「おい、おっさん!いいのかダメなのかさっさと言えよ!俺は気が短いんだぞ!」

「たっくんやめなさい!あなた大振さんになんてこと言うの!謝りなさい!大振さんごめんなさいねぇ〜。お詫びに二人っきりのディナーに招待しますからぁ」 

「いえ、お母様そんなことはしていただかなくて結構です!」と大振は熟女への道を一直線に直走るふくよかにも程があるたっくんの母親のお誘いをキッパリと断ると、熱い目でたっくんを見つめて曲を聴かせてくれるように頼んだ。

「たっくん。僕は今すぐに君のオリジナル曲が聴きたい。ぜひ演奏してくれ!」

「わかったよ」とたっくんは照れたように笑うと早速ヴァイオリンを構えて弾き出した。

 たっくんがヴァイオリンを弾き始めた途端、稽古場にヤスリ紙を擦ったような騒音が流れ出した。皆ヴァイオリンのチューニングが狂っているのではないかと思ったが、しかしたっくんは全く動ずることなく一定のリズムで騒音を垂れ流した。それに合わせてかたっくんの隣のチェロを持っていた子がその腹をリズムを刻んで叩き出した。たっくんは騒音を垂れ流しながらそのリズムに合わせて喋り始めた。

「うぜえうぜえ、どいつもこいつもフォルテシモ。ママもシスターもみんなフォルテシモ。アホくせえバカくせえもじゃもじゃ頭のフォルテシモ。お前だよお前だよピエロみたいなお前だよ。お前が一番ダセエフォルテシモぉ〜」

 ああ!たっくんがやっていたのはラップだったのだ。たっくんのヴァイオリンの騒音はDJのスクラッチの真似だったのだ。そうわかって聴けばなかなか上手く真似しているように聴こえた。しかしたっくんどうやってこんな音を出しているのか。親御さんの中で多少ヒップホップを知っている人は口には出さないものの素直に凄いと思っただろう。他の悪ガキもたっくんとチェロの子に合わせて楽器や声を使って思い思いのやり方でラップを盛り上げる。

「ダセエダセエフォルテシモ。フォルテシモなんて言ってるのはババアとブスだけ、ババアとブスだけぇ〜!」

 大振は一瞬にして地獄に突き落とされたような気分になった。まさかたっくんのオリジナル曲が自分がゴミ溜めと軽蔑しきっているラップだとは思わなかったのだ。

「やめるんだ!君たちそんなゴミ溜めみたいな音楽をやってはダメだよ!いいかい、そんなゴミ溜め音楽で人の悪口なんか言ってると本当に犯罪者になってしまうよ。さぁ、そんなものやめて今すぐ清きクラシックの世界に戻るんだ!」

 これを聞いたたっくんは激しく激怒した。少年は激怒のあまり手に持っていたヴァイオリンを大振に向かって投げつけた。皆が大振とヴァイオリンの心配をして叫んだ。だが大振は姿勢を崩しながらもなんとかヴァイオリンを落とさずに抱えて守った。大振は本気で怒っていた。しかしヴァイオリンを投げつけられた事にではない。彼は少年が楽器を人に投げつけたことに心底腹が立ったのだ。楽器は鳴らすものであって投げつけるものじゃない。それをこの子に教えてやらなくては。大振は投げつけられたヴァイオリンをたっくんの前に突き出して思いっきり怒鳴りつけた!

「バカヤロウ!ご両親が高いお金を出して買ってくれたこのヴァイオリンをなんで人に投げつけるんだ!僕がすんでのところで抱えなかったらこのヴァイオリンはバラバラになってしまったんだぞ!このヴァイオリンが壊れたら君は明日からどうするつもりだったんだ!」

「別にぃ〜、だってうちにヴァイオリン沢山あるし、これと同じヴァイオリンだってまた買ってもらうしぃ」

「君は両親の君にかける思いをなんだと思っているんだ!両親は君に立派なヴァイオリニストになってもらいたく汗水垂らして働いてやっとこのヴァイオリンを勝ったんだぞ!確かに謝って楽器を壊すことはよくある僕だってうちのベビシュタインのピアノをいつまでもピアノが上達しない自分への苛立ちのために三度も壊した事がある。僕はその時の両親の顔を今でも覚えているよ。四畳半の貧乏住まいのくせに息子のために無理してお金を貯めてやっと買ったベビシュタインのピアノをその息子に三度も壊されたあの絶望に満ちた顔を。それ以来僕はどんなに怒っても絶対にピアノは壊さないと誓った。僕はそれ以降自分の怒りを部屋に並べていた五万ぽっちの安い皿を割ることで押さえたんだ!」

「だからなんなんだよ!おっさんがベビシュタインの高級ピアノ三度も壊したからってなんなんだよ!俺にはなんも関係ないじゃねえかよ!」

「関係あるに決まっているじゃないか!僕は君に自分が犯した過ちをしてほしくないんだよ!君は本当に才能があるんだぞ!さっきのあのゴミ溜め音楽で騒音を撒き散らしている時だって実に器用に弓を引いていたじゃないか!あれをどうしてクラシックの名曲でやらないんだ!君なら絶対にできるはずだろ!」

 この大振のよく聞いたら色々おかしいところがありすぎる熱い説教を聞いて運営と子供たちの両親は深く感動した。たっくんのママなど完全に号泣していた。たっくんも大振の説教に自分の行いを反省したのか俯いて黙り込む。大振は我に返りたっくんを怒鳴りつけてしまったことを反省し俯いているたっくんの下にかがみ込んでその肩をつかみ涙を流して謝った。

「ごめんよたっくん。僕だってこんなに怒鳴るつもりじゃなかったんだ。ただ君に純粋にクラシックを演奏してもらいたかっただけなんだ!」

 大振はそう叫んでたっくんを抱きしめた。たっくんも手を上げて大振の頭を抱え……ずに彼の髪の毛を掴んで思いっきり抜いた。大振は激痛のあまり頭に手を当て何ごとかとたっくんを見た。

 たっくんは手に持っていた大振の髪の毛をマジマジと眺め、そして目を飛び散らせてこう叫んだ。

「チン毛ぇ〜!」

「なんだいたっくん?チンゲンサイがどうしたんだい?」

「チン毛チン毛チン毛!おいお前らこいつの髪の毛チン毛みたいだぞ!おい見てみろよ!」

「やべえ、まじチン毛じゃん!でもすっげえ長えチン毛だなぁ!こんなチン毛見たことねえや!」

 感動の舞台はたちまちのうちにチン毛の舞台となった。運営も子供たちの親も大振のもじゃもじゃ頭を見て妙に納得したかのように頷いている。大振は思わぬ事態に何がなんだがわからずただ頭を抑えるしかなかった。

「チン毛、チン毛、チン毛、チン毛……」

 子供たちが一斉に彼の周りに集まってチン毛と囃し立てた。大振はその声に覆われるように縮こまりうずくまってしまった。彼の耳にチン毛の声が鳴り響く。脳味噌にチン毛が生えてくる幻覚さえ見える。大振りはもう限界だった。彼はいきなり立ち上がり指揮棒を振り乱して絶叫した。

「フォルテシモぉ〜!」

 そして彼はフォルテシモの絶叫を繰り返しながら稽古場から飛び出してしまったのであった。

 指揮者のいなくなった稽古場で両親は運営に対して一斉に謝罪していた。大振がこのまま帰ってこなかったらコンサートが中止になることも考えなければならない。その場合損害賠償はいくらになるのか。運営も頭を抱えこうなったら子供たちを連れて大振さんに謝ろうと提案した。

 その両親と運営の心配をよそに当の悪ガキたちはさっき大振が逃げ出した時の姿をゲラゲラ笑いながら喋りまくっていた。

「おい髪の毛がチン毛に似てるって言っただけなのになんであんなに顔真っ赤にして逃げるんだよ。アイツおっさんのくせしてみっともねえよ。フォルテシモとか喚いてよぉ。でお前さぁ、あのおっさんの髪の毛みたいなチン毛生えてきたらどうする?」

「え〜っいやだよぁ!あんな長えのパンツに入れてたらいろんなとこにチャックに引っかかって痛えじゃねえかよ」

「おいお前らくだらないこと喋ってないで今すぐ大振さんに謝りに行くぞ。早く出発の準備をしろ。いいか?大振りさんにあったら土下座して心から謝るんだぞ!」

 悪ガキたちは顔を上げて両親と運営の幹部連中がものすごい怖い顔で自分たちを睨みつけているのを見た。

「ちっ、しゃあねえなぁ。あのもじゃもじゃのフォルテシモおっさんはうちの学校の担任かよ。男のくせにもうあなたたちに指揮なんかしたくありませんとかどっかの部屋で泣いてんのかよ!ダッセェな!はいはい謝りゃいいんでしょ」

 こんなしょうもないことを口々に言って悪ガキたちは立ち上がり各々移動の準備を始めた。それを見た会長は運営を代表して大振の事務所に電話したのだが、事務所には誰もいないようで電話はどこかへ転送になった。それからもうしばらく待ちやっと電話に繋がったので早速大振の事を聞こうとしたのだが、電話の向こうからやかましさにも程がある騒音と絶叫と悲鳴が鳴り響いたので呆然としてスマホを持ったまま手を下ろした。

「なんだ貴様ら!キッズオーケストラの練習中にちゃんと練習しているかチェックしに来たら練習もせずに水飲んでいるとは!貴様ら本当にやる気があるのか!まさか陰で俺の髪をチン毛なんて言っていないだろうな!貴様ら俺の前でそんなこと言ってみろ!陰でもそんなこと言ったら一晩中フォルテシモを連呼させてやるぞ!その間睡眠はおろかトイレも禁止だ!貴様らはガキじゃないんだから容赦はしないぞ!さっさと立ってすぐに練習を再開しろ!出ないと貴様らの命はないぞ!」

 スマホから聞こえてきたのは明らかに大振の声だった。スマホから流れる大振の恫喝を聞いて稽古場の人間は一斉に凍りついた。たっくんなど恐怖のあまりお漏らしをしてしまった。その時電話の向こうから必死に助けを求めるかのように誰か叫んだ。会長は慌てて電話に出た。

「ああ!どこの誰だか知りませんが今取り込み中なんです!電話は後にして下さい!別のオーケストラの稽古をしていたマエストロが何故かこっちに現れてうちのオーケストラの連中を片っ端から殴っているんです!」

「コラ石目!何能天気に電話しているか!これも貴様の監視が足らないからこうなったんではないか!あれほど監視を怠るなと口が酸っぱくなるほど言っておいたのに!」

「誤解ですよマエストロ!マエストロはたまたま休憩中のところに来られたのですよ!警備員の人に聞けばわかりますよ!」

「うるさい!俺が怠けていると判断したらそれは怠けているってことなんだ!あともう少しでキッズオーケストラのところに帰るが、それまでお前らを徹底的に鍛え直してやる!」

 電話はそこで切れた。完全な沈黙に包まれた稽古場で虚しく不通音が鳴る。しばらくして会長はみんなに向かって言った。

「か、帰ってくるみたいだからここでしばらく待ってようか」

 みんな一斉に頷いた。


 やがて両手を真っ赤に染めた大振拓人が眩しい笑顔とともに帰ってきた。大振は稽古場に帰ってくるとまず運営と子供たちの両親に申し訳ありませんでしたと深く頭を下げて謝罪し、子供たちにも突然飛び出してごめんねぇと満面の笑顔で謝った。子供たちは満面の笑みの大振を見て震え上がり一斉に僕たちこそごめんなさいと泣きながら謝った。大振は震えまくる子供たちを血まみれの両手で強く抱きしめ、もう飛び出したりはしないよ泣きながら言った。

 それからキッズオーケストラの面々は初稽古の時の悪ガキぶりが嘘のように大振に従順となり、大振拓人の下僕のようになった。コンサートは大盛況でキッズオーケストラの内情をよく知る人はオーケストラの大振に対する忠誠ぶりを信じられないといった顔で見ていた。悪ガキ揃いのキッズオーケストラをここまで見事に指揮した大振拓人は子供に愛された人格者と持て囃されたが、当のキッズオーケストラのメンバーは誰一人としてインタビューに応じなかった。



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