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天かす生姜醤油全部入りうどんを草枕にして物語を綴る

 うどん屋でうどんを食べながら考えた。音を立ててうどんを啜ると煙たがれる。ならばと麺を噛んでも上手くない。そして食べてる最中ずっと親父に頑をつけられる。とかくうどん屋は窮屈だ。高いうどん屋に行っても居心地が悪く、安いうどん屋に行っても食べ辛く、どこのうどん屋に行っても満足できない時、そこにうどんの詩が生まれ、うどんの絵が描かれる。

「おい!いつまで何グチグチ言いながら食ってんだよ!他の客が待ってるだろうが!早く食って出ていけ!」

 どうやら外に客が並んでいるらしい。余の他にもうどんを食べているものがいるが、店主の怒鳴り声を聞いて慌ててうどんをズルズルすすり始めた。余はそれはすまぬと言われた通り出て行こうとしたが、店主に何故か呼び止められた。

「テメエ食い逃げするつもりか!さっさと金払え!」

 拙きうどんに金を払うのは納得いかぬが食べてしまったら払わねばならぬ。余は言われた通り金を払って店を出た。

 この一件で絵を描く気も一気に削がれた。カンカン照りの太陽の下、余は宿泊している宿へと戻ろうと決めて、宿の方へ踵を返した。宿に着くと玄関の前にいた主人が「随分お早いお帰りで」と余に声をかけてきた。余は何も言わずただ苦笑を浮かべて宿の中へと上がる。主人はその余に向かって風呂が沸いているから好きに入ってよいと教えてくれた。

 ならば風呂でも入ってうどん屋の事は忘れようと余は思い、部屋から着物の類を持って浴場へ向かった。脱衣所をチラリと見たらザルはすべて空だ。どうやら風呂には先客はおらぬらしい。それでは存分に入らせてもらおうと、余は勢いよく着物を脱ぎ拭き物のみ持って風呂への戸を開けた。そうして余は風呂に浸かったのだが、こうしてしばらくぶりに風呂に浸かるのは本当に気持ちがよい。まるで現世の事など遠くに見える。古の絵師は人情に疲れ果て非人情の世界を描いた。山水画の泰山、山の麓に転がる岩、その岩を縫って五回まわしで流れる小川。これぞ非人情の世界だ。その非人情の世界は古代中国の詩人陶淵明が夢見た桃源郷である。

 そうして余はしばらく非人情の世界に漂っていたが、ふと浴場の戸が開き、人が入ってきた。目を凝らしてみるとそれは女のようである。余は息を呑んで女を見たが、女がこちらを向いたので、気づかれまいと慌てて背中を向けた。

 しかし驚くべき事である。非人情の世界に突如割り込んできたこの女だが、しかしどこか浮世離れしている。まるでそれは泰山に浮かぶ天女を思わせる。泰山の天上から女は無数の白き帯を垂らしている。余はその姿に山水画を思い浮かべたが、その時チャポンと水の鳴る音がした。余は思わず音の鳴る方へ振り返ったが、そこで女と目が合った。女は余に気づくとふふふといぢ悪めいた笑みを浮かべた。

 余は慌てて風呂から飛び出て自分の部屋に逃げ込んだ。そこで余は先程見た女の裸体について思う。その艶めかしさはまるでうどんのようであった。しかし余はいかぬと自分を制して再び非人情の世界に向かおうとした。しかしその非人情の世界にもふふふの笑いと共に先程の女の裸体が浮かんでくる。余はこれではいかぬと再び画具を持って外へ出た。

 その夜である。外から帰って来てからの二度目の風呂の後、余は部屋へと戻りいざ寝ようと、旅館のものが敷いた布団に入ろうとしたのだが、その時枕がない事に気づいた。余はうっかりものめと呆れたが、しかし夜分ゆえ主人を呼び出す気になれず、枕がわりに空のバッグを布団の下に入れて寝ることにした。

 床に入っていたら旅館のものらしき人が二度三度部屋の戸を叩いた。余は寝ながら何事ぞと問うた。すると若い女の声で返事が返ってきた。恐らく仲居の一人であろうその女は、枕を忘れておりましたので届けに参りましたと言う。余は眠たいので、今就寝中ゆえ取りに行けぬ、戸のそばにでも置いておけと言いつけた。しかし女はそれでは爺様に叱られまする。中に入ってお渡しすると答えて、余の承諾も取らず勝手に戸を開けて部屋に入ってきた。余はこの夜半に男の部屋に入ってきた女を目で追っていた。女は寝巻きを羽織っているようだ。かの女が布団の脇に来た時、そばの行燈に淡く照らされた女の顔を見て昼間の風呂の女だと確信した。

「枕でござりまする」と女は余に枕を見せると腰を折って、布団の下のバッグをのけてよいかと問い、余が頷くとそのまま枕を余の頭の下に入れてきた。その時、着物の間から例のうどんの麺の如き白き肌が浮き出て来たので、余は昼間の風呂の一件を思い出して慌てて顔を背けた。余の慌てっぷりを見てか、女は昼間の風呂の時のように、ふふふと微笑を浮かべた。余はその微笑に腹が立ち女を就寝ゆえ早う退出せいと追い出した。

 女が退出してからしばらくの間、余は女のことを考えてやはりあれは商売女ではないかと思った。だとしたら主人も食えぬ男。虫も食わぬ顔をして余に商売女を売りつけるとは。恐らく風呂場での女との鉢合わせも主人が仕組んだに違いない。余は一気に女に幻滅し山水画に彼女を重ねた事を恥と思った。

 翌日朝早く起きて旅館の外に出たら宿の主人と例の女が庭の縁台に並んで座っているのにぶつかった。余は昨日の事で主人と女を疑わしく思っていたが、しかし下手に揉めたらこの安宿から追い出されると危惧して、とりあえず女を避けて主人に挨拶した。すると主人は鸚鵡返しで余に挨拶を返し、そしてにこやかに女を指差して話しかけきた。

「昨夜はゆっくりお休みになられましたかな。昨日は紹介を忘れていましたが、今私の隣にいるのは親戚の娘の純です。これは県の女学校に通っているのですが、夏休みになったので一昨日からここにきているのですよ。それでこの子の両親から嫁入り修行をさせてくれと頼まれ早速昨日から宿を手伝ってもらっているのですが、なにぶんなれぬゆえご不便をおかけしていたら申し訳がない」

 女の意外な正体に余は驚いた。彼女の正体を知って余は先程まで女を商売女だと勘違いしていたのを恥じた。女学生ならばあそこまで男に警戒心がないのはむしろ純潔なゆえなのかと余は考えた。すると女はまたふふふと昨日のような笑みを漏らして余に深くお辞儀をした。

「昨日ぶりです画家の先生。私、甘粕純でございます。昨日は大変ご迷惑をおかけしてすみませんでした」

 また謎のふふふである。このふざけた笑みの謝罪を素直に受け入れる客などいるものか。しかしそうは思ってもどこか許せてしまう笑いである。彼女はいわゆるファムファタールというものなのか、ちと蠱惑的な笑みに魅入られてしまいそうである。

「それで今日のご予定は?」

 と主人が聞いてきた。余は今日は画題を探しに行くと答え、主人にどこかいい場所はないかと問うたが、そこにすかさず純が自分も一緒に行きたいとせがんできた。この無邪気極まる懇願に流石に余も主人も鼻白み、二人でついてくることは罷りならぬと注意した。

 余は早速主人に教えられた絶景を探しに近くの山を登ったが、そこは風光雅やかな所で、ここならば筆も乗るだろうと、余は早速崖のそばにイーゼルを立てて絵を描き始めた。

 しかし何枚下絵を描いてもこれぞというものは描けぬ。余は心眼で景色を捉えねばと目を凝らしたが、しかし何も見えぬ。ここもやはり違うのかと思い、イーゼルからキャンパス外して帰りの準備を始めようとした時、突然後ろから誰かに呼びかけられた。

 振り返って見ると純がいつの間にかそばにいるではないか。余は驚き後ずさった。しかし後ずさった先に地面はなく、余はそのまま崖を滑り落ちてしまったのである。

 幸いにして命は無事であり、また医師の診察によると幸いにも骨など折れていなかったが、足が打撲しているので療養が必要になった。宿の主人は不心得者の純の詫びをしなければと土下座をして謝り、余に宿賃は入らぬ故この宿で療養せぬかと言ってきた。余は主人の詫びを受け入れ、勧めの通りこの宿で療養する事にした。

 純はその主人の隣で青ざめた顔で震え何度も余に詫びていた。このいつもふふふと笑う蠱惑的なファムファタールが、このように己が引き起こした惨事に打ちひしがれているのを見るのはなかなかに辛い事である。余は打撲なぞすぐに治るから案ずるなと女を慰めた。

 それから余は足の打撲が癒えるまで宿に世話になる事になったが、いかんせん骨など折れていぬが打撲である。歩くたびに足が痛むので何かと不便である。主人は誰ぞ仲居をつけようかと余に言ったが、それを聞いていた純が我が詫びをせむと主人は懇願を始めた。その懇願のあまりの熱意に主人も余も根負けして結局受け入れる事になった。

 純は毎朝余のところに来て何か言いつける事はないかと余に問うたが、ただの打撲ゆえ特に世話など必要ない。だがそれを正直に言うとどこか突っぱねるような気がして感じが悪い。ならば世間話でもせむと、余は純に女学校の生活はどうかと聞いた。しかし純は全くつまらぬという。規則づくめで何も楽しくない。毎朝教会で祈りをさせられるのはうんざりだと愚痴を垂れた。余はこれを聞いてこのお転婆娘めと笑った。純はそれを聞いて膨れっ面になり、気楽な放浪画家に学生の気持ちなどわからぬと言い返してきた。余はその純のファムファタールとは程遠い無邪気っぷりにまた笑った。しばらくして純は余に向かってこう尋ねてきた。

「先生はいつもどんなものを描いているのです?」

 うむ、と余は純に頷いて主に山など描いていると答えた。すると純は富士か、あるいはここと同じ九州にある阿蘇山とか桜島とかかと聞いてきた。しかし余はそのような誰もが知る山は描かんと答えた。純はそれを聞いてならば何の山を描くのか、誰も知らぬ秘境を探しにここまで来たのかで問うてきた。うむと余は純の問いにどう答えれば良いか考えた。秘境というのは確かに間違っていない。しかし余の描きたいものは現実の秘境とはまた違うものだ。いわば絵にしか描けぬ非人情の世界だ。だがそれをどうやって説明すれば良いか。

 その時余は風呂場で純と出くわした場面を思い出した。余はあの時裸体の純が泰山の上に住まう天女の如く見えたのだ。余はその場面を思い浮かべて、余はずっと非人情に憧れて山をずっと描き続けている。非人情とは陶淵明が一生夢見た桃源郷である。上には天女が住い、天から無数の帯を垂らしている。地上には天のかすの積もった泰山が聳え立ち、その麓には黄玉の瑞々しく光る岩がいくつもある。その岩の間を黒褐色の川が五回まわしで流れている。これが余の描きたい非人情の桃源郷であると語った。しかしやはりか純は何もわからぬようであった。純は勉強嫌いゆえ我にはわからぬと顔を渋くさせたが、しかし突然例のふふふの笑いをはじめ、余に向かってその桃源郷が早く見つかればいいですわと言った。

 確かにずっと部屋にいるのは窮屈で仕方がないが、それが故に却って今まで見えなかったものが見えてくることもある。澄み切った空から奥の景色が透けて見えるように。余はこれを不思議に思った。全国各地の山を巡っても全く見えなかった桃源郷の姿がこの九州の田舎の安宿で朧げにも見えるとは。余は再び絵を描かんと思ったが、しかしまだその気は熟せぬと思い直しもう少し熟考せねばと瞑想に入った。

 純は毎日食事を持って来てくれたが、余に力をつけさせようとおもったのか、一日一回はうどんを出してきた。余はうどん好きだからこれはありがたかった。しかもこの宿のうどんは先日行ったうどん屋のそれよりも遥かに美味であったから余は喜んで食べた。食べると何故か例の非人情の世界が浮かんできた。

 何故にうどんに非人情を感ずるのかとうどんを食べながら余は考えたが、答えは出なかった。偉大なる賢人はふとした思いつきから大を成したとよく言われる。余がうどんに非人情の世界を垣間見たのもその思いつきの一つであろうか。しかしやはりうどんでは非人情は見えぬ。余は部屋中で未だ全貌の見えぬ非人情の世界を夢想した。

 そこに純がいつものようにうどんを持って現れた。純によると今回は趣向を変えているという。

「今日は趣向を変えてみましたの。いつも同じうどんではつまらないなと思って。この山盛りの天かすは天ぷらの残りです。次に大さじ一杯分の生姜。最後に醤油です。天かすはおつまみがわりに食べてもいいし、生姜はちょろっとうどんに落として食べてもいいし、醤油も隠し味程度に二、三滴うどんにかけて食べてください」

 余は純の好意に感謝し、純はそれに応えてじゃあうどんはここに置いておきますね、と丸テーブルの上ににうどんを乗せた盆を置こうとしたのだが、その時うどんの入ったどんぶりが盆から滑ってテーブルに落ち、そのどんぶりの上に天かすと生姜と醤油がどさっと落ちてしまったのである。純は慌ててうどんを出し直してきますと言って丸テーブルのどんぶりを持って行こうとしたが、余はその天かすと生姜と醤油が被さったうどんにもっとはっきり見たくなってそれには及ばすと制した。

 もしかしたらこの天かすの山は泰山ではあるまいか、この生姜は黄玉の岩ではないか、この醤油は黄玉の岩を五回まわしで流れる黒褐色の川ではないか。そして余は純を見て思う。このうどんの麺は天女の帯ではないか。

 余はうどんを凝視してもしかしたらこれが非人情の世界でないかと思った。しかし見るだけでは非人情の世界は感じられぬ。余は恐る恐る盆にあった箸を取り上げてうどんを食べようとした。しかしここで純が世を制した。

「いけません。このような豚の餌にすらならないようなものを食べるなんてことをしたらイエス様に叱られます」

 純は途端に聖女に目覚めて余を諌めてきた。だが余は今桃源郷に旅出そうとしているのだ。止めてくれるな娘さん。余は純に向かってふふふと笑って天かす生姜醤油全部入りうどんを啜り上げた。すると何であろう。一口食べた途端に天女たちが突然現れて余を囲い出したではないか。これは余が天女の帯であるうどんを食べたせいだ。うどんには泰山のかけらである天かすぎついている。そして黄玉の岩のかけらである生姜も。川の水である醤油も。余は食べながらこれが非人情の世界であることを完全に理解した。桃源郷とはこの天かす生姜醤油全部入りうどんの中に存在していたのだ。余は天かす生姜醤油全部入りうどんを食べ終わると純にすぐに絵具を持ってきておくれと頼んだ。純は事態が飲み込めず目を剥いて余を見ている。余は純にもう一度言った。

「純さん、私はこのうどんの中に非人情の世界を見つけたのです。古の詩人陶淵明が夢見た桃源郷はこのうどんの中に存在していたのです。この感覚を覚えているうちに早く絵を描かねばならない。だから今すぐに絵具を揃えてください」

 純はまぁと感嘆の声をあげて目を潤ませた。きっと純は自分の作ったうどんが余の桃源郷そのものであった事に吃驚したであろう。

「今すぐ準備しますわ!先生しばしお待ちを!」

 余と純は見つめ合い互いに笑みを溢した。


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