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レフ・ミハイロビッチ・トルスエフスキーの生涯

 十九世紀ロシアにレフ・ミハイロビッチ・トルスエフスキーという作家がいた。彼はドストエフスキーとトルストイというロシア文学の巨人たちと同時代に文学活動をし、そして二人の巨大な名声に隠れて誰にも注目されず、結局小役人としてひっそりとこの世を去った人物である。彼は1825年、つまりドストエフスキーとトルストイの間の年に生まれたが、それが彼の不幸だったと後の文芸史家は語る。十九世紀後半のロシア文学はドストエフスキーとトルストイの全盛期であり、他の作家などあってなきが如しの状態であった。わずかに目立つのはツルゲーネフやゴンチャロフといった先輩作家たち、それにネクラーソフやレスコフなどの同世代作家たちだけだった。そんな時代にレフ・ミハイロビッチ・トルスエフスキーのような平凡な作家が注目される筈がないのだ。今平凡と書いたがそれは小説のスケールが平凡という事であって彼の文学が平凡だという事ではない。彼の小説は味わい深く読めば読むほど味が出るタイプの小説である。ペテルブルクっ子の日常が描かれたその小説は後のチェーホフを思わせる所があった。

 さて、前置きはこの辺で終わらせて本題に入ろうと思うが、実は私はトルスエフスキーに関する資料はほとんどない。わかっているのは上にも記したように彼が1825年生まれであり小役人として定年まで勤め上げたという事実と、ドストエフスキーが日記を連載していた雑誌の『市民』に小説をいくつか掲載されていたという事実だけである。これでは到底伝記など書けそうにない。しかし私はあえて貧弱な想像力で補って伝記を書いてみようと思う。作家はこれは違うと墓の下から私に抗議するかもしれない。しかしそれは小説以外何も残さなかった彼が悪いのである。

 レフ・ミハイロビッチ・トルスエフスキーは1825年当時のロシア帝国の首都ペテルブルクで生まれた。トルスエフスキーの小説から想像すると本当にブサイクな子供であった。彼は赤ん坊と子供が大嫌いで小説で何度も悪口を書いていた。成長したトルスエフスキーはペテルブルク大学に入りそこで法律を学んだ。彼の小説から本当に出来の悪い生徒であった事が想像できる。彼は『劣等生』という小説で大学時代の自分を自虐的に書いているように私には思われる。彼が処女作を発表したのは1850年、つまりドストエフスキーとトルストイの間の処女作発表した年のちょうど中間であるが、ペリンスキーやネクラーソフが彼の小説を読んで第二のゴーゴリと言って涙したという話は全く聞かない。彼の小説は不幸なことに誰にも注目されなかったのである。何故彼の小説が注目されなかったのか。それはやはりつまらなかったと言うしかない。彼は小説『平凡以下物語』でこう書いている。「どんなにつまらない人生でも生きていればそれなりにいいことがある。」そのとおりであった。冒頭に私はトルストエフスキーの小説が平凡ではないと書いたがそれは嘘である。私は全く面白くない彼の小説を持ち上げようとチェーホフまで引き合いに出して無理矢理持ち上げたのである。やっぱり改めて読んでもそのつまらなさは変わらないし、ハッキリ言って読む価値など全くない。それどころか時間の無駄遣いだと断言できる。しかしそれでも彼が注目に値するのはその名前だろう。このドストエフスキーとトルストイを合わせたような名前。しかし彼はその二人をプラスするどころかマイナス以下の小説しかかけなかったのである。だがそれでも彼はその平凡な人生を生き、平凡な小説を書き続けた。彼は政治的にも稀に見る凡庸さでクリミア戦争のときにやっぱり平和がいいなぁ~というようなお花畑満載の論文を発表したが、批判されるどころか全く黙殺された。これはやはり彼がトルストイのような大小説家ではなく殆ど無名の作家だったからだろう。

 彼は1900年。世紀が変わる前年になくなったが、それもやはりドストエフスキーとトルストイが死んだ年の間であった。

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