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《長編小説》小幡さんの初恋 第一話:プロローグ

 パートの楢崎さんは自分の終業時間が来たのでPCを閉じると片付けを始め、それが終わると事務の小幡さんとその隣の鈴木の所にやってきた。彼女はまず白髪頭の鈴木に向かって「また来週ね」と年に似合わぬ可愛い声で言ってウィンクをし、そしてひっつめ髪の小幡さんと明日は孫がくるから大変などと軽く会話を交わした後、彼女は事務室にいる他の社員たちに向かって「皆さん、お先に失礼します!」と軽くお辞儀をしてから事務所から出ていった。

 楢崎さんが帰ってしばらくすると、先程からずっとPCとずっとにらめっこしていた鈴木は、隣の小幡さんがいつものように柱時計を見てから亀のようにのっそりと立ち上がりキャビネットへ向かうのを見た。鈴木もPCの時計で時間を確認した。柱時計の針は17時02分を指しており、PCの時計はきっかり17:00と表示されている。そろそろ外回りをしていた営業の連中が帰ってくる頃だった。

 鈴木は小幡さんが事務室の入り口付近に営業が営業日報と交通費等の経費の精算書を入れるトレイやタイムレコーダーを退出にセッテイングをしているのを見て、この会社の人間が彼女をよく亀だと言っていることに納得してしまった。メガネでひっつめ髪の大柄な小幡さんがそのブルーの体の線が全く出ない制服から長い首を伸ばしてのっそりと歩き音も立てずにものを一つずつ置いているのはまるで亀だ。しかし小幡さんが亀のように鈍くさいわけではない。なれた手付きで次々と事を行う姿は亀とは正反対だ。しかしその姿格好があまりに亀にそっくりなので皆小幡さんを見て、えらく動きの早い亀もいたもんだなと珍獣扱いで見てしまうのである。そんな小幡さんを見て、鈴木は時たま任せっきりしてはいけないと思い自分も手伝おうかと言うことがある。だけどそんな時いつも小幡さんは笑顔を浮かべてこう断る。

「大丈夫です!大丈夫です!大丈夫です!ご自分のお仕事続けていて下さい!」


 営業が帰って来ると今まで静かだった事務所が急に騒がしくなった。今日は営業の岡庭が大きな契約を勝ち取ったらしく、彼が戻って来ると社長や専務まで出てきて一斉に拍手を浴びせた。社長はにこやかにその契約を取った営業の岡庭の肩を叩いてじゃあ近いうちにこいつの祝勝会やらなきゃな!と皆に向かって言ったのだが、専務が、「あんちゃん、もうじき新入社員の丸山くんの歓迎会があるだろ?その時ついでにやればいいんじゃないか?」と口を挟んできた。だがこの小太りでいつもにこやかに笑っている幸せ満点男は弟の言うことに納得いかず反論した。

「お前、岡庭が久しぶりに大口の契約取ってくれたんだぞ!それなのに新人歓迎会のついでだって?お前、岡庭の努力をなんだと思ってるんだ!」

「あんちゃん、ウチは去年も一昨年も赤字だったじゃないか。いくら大口の契約取ったからってその度に飲み会なんかやってたら永久に赤字から脱出出来ないんだよ!」

 と今度は兄とは対象的なガリガリの無愛想の典型的な陰キャ男が反論した。すると社長が顔を真赤にして弟を怒鳴りつけた。

「馬鹿野郎!そんなビンボ臭え事言ってるからいつまでも赤字から脱出出来ねえんだよ!だからお前は経営者としてダメなんだよ!いいか?経営者として大事なのは数字よりもまず社員のモチベーションを上げることじゃねえか!そうして社員のモチベーションをドンドン上げて、契約をドンドン取ってもらって、そうしたら赤字なんて自然に解消するんだよ!」

「馬鹿はあんちゃんのほうだろ!一昨年、去年、今年の四半期とますます営業成績は下がってこのまま行ったら会社はやばいことになる!もしかしたら破産してこのビルどころか俺達の育った家まで抵当に取られるんだぞ!」

「大げさな事をいうな!社員が誤解するだろ!どう見ても会社は傾いてねえじゃねえか」

 社員たちはまた始まったかと思った。この兄の社長と弟の専務は事あるごとにいつもバトるのだ。営業の連中は一日中駆けずり回ってヘトヘトなのに兄弟の揉め事に付き合いたくなかった。当の岡庭は歓迎会なんてどうでもいいから喧嘩はやめてくださいと言いかけたが、二人のあまりの剣幕に気圧されて黙ってしまった。

 すっかり興奮して互いの言い分を喚き散らしている二人だったが、突然専務の方が小幡さんの方を向いてこう言った。

「じゃあ、会社の内情を僕らより知ってる経理の小幡さんに聞いてみようじゃないか!ウチの会社の経営状態がどうなってるか彼女に聞けばはっきりするだろ!」

 突然話を割り振られた小幡さんは深い溜め息をつくと沈痛な顔で重い口を開いた。

「あの、皆さん。……会社のことは勿論大事ですけど、それ以上に大事なことがあるんじゃないですか?私、入り口の消毒アルコールニヶ月前に入れたんですけど全然減ってないじゃないですか。壁にも手洗い、うがい、消毒って太字で大きく書いて貼っているのに皆さん全然守ってないじゃないですか!今だって誰もアルコール消毒していないですよね?あのですね、皆さんはコロナの事分かってますか?本当に奇跡的にウチの会社からはコロナにかかった人はいないですけど、もし誰かがかかったらそれこそ会社自体が終わりますよ!社長も専務も言い合いは後にして、今はアルコール消毒して下さい!」

 この小幡さんの説教を聞くと社長と専務は即口論を打ち切り慌てて社員達にアルコール消毒液の前に並ぶように命じた。皆罰の悪そうな顔で並んでいる。鈴木も最後尾に並んだ。彼もアルコール消毒を忘れていたのだ。

 アルコール消毒を済ませた社員たちはそれぞれ自分の席に座った。鈴木も自席に戻ると隣の小幡さんに申し訳ないと一礼して謝った。社長は全員が座ったのを確認するとすぐに終礼をはじめた。社長は終礼で大口の契約を取った岡庭を褒めちぎり、お前らも岡庭に続けと激を飛ばした。それから自分もすっかり忘れていたコロナの事に触れ、まるで自分だけが感染症対策をしていたような口ぶりで、お前らコロナの恐怖を忘れてないか?油断していたら命まで取られるんだぞ。業務で忙いからって感染症対策は絶対におざなりにするな!俺はな、業績よりもお前らの健康のほうが遥かに大事だ!外回りのみんな!内勤のみんな!コロナにかからないために絶対に手洗いうがいアルコール消毒しろ!と熱く訴えた。そうして社長はひとしきり語り終えると、専務に向かって言いたいことはあるかと聞いたのだが、専務は別にないと言ったのでそのまま今日はお開きとなった。

 社員たちは帰宅の号令を聞いて一斉に帰ろうとしたが、いつもの小幡さんの「外回りの方は営業日報、内勤の方は業務日報の提出を忘れないで下さい!」と呼び声を聞いて半分ぐらいの社員が提出のために自分の机に戻った。なんと今いる15名の社員中の8名が提出を忘れていたのだ。これは毎日繰り返される事態だが、その後小幡さんはこう言わなくてはいけない事になる。

「皆さ~ん、毎日のことですけど、絶対に日報を提出して下さ~い!でないと皆さんの業務の確認が出来なくて、お給料がだせなくなってしまいます。何度も言ってますが、提出は絶対ですよぉ~!」



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