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赤と黒 〜僕らが決別した理由

 編集者の中にはベストセラー作家よりも有名なものがいる。いわゆるカリスマ編集者と言われている連中だ。彼らは本を売るために作家の原稿に手を入れ、時としてベストセラー作家に対してさえ書き直させる。そしてそういう連中の編集した本は話題となり、連中はベストセラー本の編集者として本の著者よりも持て囃された。だが、作家としては自分の原稿に手を入れられ、また直接ダメ出しされるのはかなり屈辱的なものだろう。しかし彼らのおかげで自分の本がベストセラーになっているのだからあまり文句は言えないものだ。

 夕方の編集部の客室で先ほどからベストセラー作家とカリスマ編集者が作家の持ってきた原稿を前にオフィス中に響き渡るほど大声を上げて激論を交わしていた。

「こんなんじゃダメですよ!こんな独りよがりの難解ぶったお話には読者はついてきませんよ!なんで俺の言った通り書かないんですか!こんな字詰めの文章で哲学風なこと書かれたって読者はウンザリして本投げちゃいますよ!だいたい最初に言ったでしょ!文章は改行しまくって下は出来る限り白くしろって!」

「お前俺をなめてんのか!これでも俺はわかりやすく書いたつもりなんだぞ!それでもダメだってのか!大体お前は俺をなんだと思ってるんだ!今まで俺はこのスタイルでやってきたんだ!それを頭ごなしに否定しやがって!ホントにこの出版社は一体どうなってるんだよ!うちでも単行本出してくださいよとか頭下げて頼んできたから書いてやったのにその言種はなんだ!俺は頭にきたぞ!契約なんか破棄してやる!」

「いや、契約破棄するなら勝手にすればいいですよ。ウチはあんたクラスの作家先生は大量に抱えてるんだよ。それにウチは小説ばかり出版してるわけじゃないんで。大体あんただって自分の本をもっと売りたいからウチと契約結んだんでしょ?俺はあんたの小説をどうしたらベストセラーに出来るか考えてやってるのに!」

 ああ言えばこう言う。その繰り返しで結局議論は平行線のままだった。そしてとうとうベストセラー作家が憤然してもう契約は終わりだとと叫んで原稿を手に立ち去ろうとした。しかしカリスマ編集者はその彼を呼び止めて言った。

「あの、申し訳ないけどその原稿には俺の朱書きが沢山書かれてるんだよね。あんたその原稿持ち帰って何するの?他の出版社に売り込むの?それとも捨てるの?何れにせよ。その原稿はあんただけのものじゃないんだよ。俺のものでもあるんだ!」

「じゃあどうすんだ!原稿破って赤字のとこだけお前に渡せばいいのかぁ⁉︎」

 二人はもうつかみ合い寸前までいっていた。とその時ドアが開いて誰かが入ってきたのである。二人は一斉にドアを睨み付けたがそこには困ったような顔をした編集長と、その後ろから二人を覗いている編集部員がいた。ベストセラー作家はカリスマ編集者を指差しながら編集長を怒鳴りつけた。

「アンタんとこの出版社はこんな礼儀知らずを飼っているのか!あんたんとこの社員がウチと仕事しましょうよ。優秀な編集者つけてやりますから。とか頼んできたからしょうがなく依頼受けたらとんでもねえ編集者つけてきやがって!何が改行しまくれだ!おまけにこの野郎俺の原稿までぶん取ろうとしやがって!この事ネットで思いっきりバラしてやるからな!その時まで首洗って待ってろ!」

 作家の恫喝を浴びた編集長はカリスマ編集者に向かって謝れと小言で注意をした。しかしそんな申し訳程度の注意などカリスマ編集者には全く聞きはしなかった。彼は自ら本を書いており、そのどれもが非常に売れた。特に最初に出したエッセイ本『カリスマ編集者が語る編集の極意』と自伝『イキがりを本に積めこんで』は大ベストセラーになったのだ。役職こそただの編集者だが、出版社に莫大な利益をもたらし、毒舌コメンテーターとしてテレビに出まくっていた彼は編集部内で絶大な権力を持っていた。だから編集長でさえ彼に対してあまり強いことは言えなかったのだ。

 結局編集長の取りなしも無駄に終わり二人は原稿の所有権がどちらにあるか互いに主張し合った。どう見ても俺のだろ!大体この原稿は俺の小説だ!とベストセラー作家が言えば、カリスマ編集者もあんたのゴミ見たいな小説なんかより俺の朱書きの方がよっぽど読めるだろ!だからこれは俺のだ!と言い返した。そうして互いに原稿は自分のものだと主張していたがいつのまにかただの罵り合いと化してしまった。

 この大騒ぎは編集部内では収まらずとうとう出版社の重役連中まで来るような騒ぎとなった。本来なら名声ある作家に対して無礼を働いた編集者に対して処分を下さなければならない事態だが、彼らにしても自分たちの会社に多大なる貢献をしている社員に対して強くは出られなかった。幹部連中は妥協案を考えてとりあえず原稿を全てスキャンしてから作家に返すことを提案した。その時彼らはベストセラー作家に対して頭を下げ「ウチとしても先生との絆を切りたくはない。今回は行き違いで残念な結果に終わりましたが、またいつか先生とお仕事がしたい」と懸命になだめた。それを聞いたベストセラー作家は気が収まったのか僕としてもあなた方ともう一度仕事がしたいですと答え、そしてカリスマ編集者を指差しながら「コイツとは二度やりたくないけどね!」と締めた。

 結局ベストセラー作家の原稿は全てスキャンされることになりデータを出版社の手元に置くことになった。勿論原稿の公表を一切禁じるという約束でである。それとこれが一番大事なことだがベストセラー作家とカリスマ編集者は双方ともこの件に関して一切口外する事を禁じるという取り決めを交わした。それから編集部員が総出でスキャン作業を行ったが、ベストセラー作家は原稿が盗まれないかチェックしまくっいた。

 しかしこの取り決めはあっというまに破られてしまった。破ったのはカリスマ編集者である。彼はTwitterに作家を名指しこそしていないものの露骨な仄めかしで彼への悪口とともにことの詳細を思いっきり書いてしまったのである。このツイートは思いっきりバズってしまいすぐにベストセラー作家に知れてしまった。ベストセラーはカリスマ編集者の裏切りに大激怒して、そっちがその気ならこっちだって思いっきりバラしてやるぞとばかりにカリスマ編集者の実名を挙げて、マーケティングのことしか頭にないこのバカによって分の小説がボロボロにされたと激しく罵ったのである。

 カリスマ編集者はベストセラー作家が自分を名指しで罵っているのを読むと、早速反論した。彼は自分のフォロワーに向けて、これは明らかなコンプライアンス違反ですよ。あの時僕と先生は約束したんです。この事は絶対に外部には口外しないって。僕は先生の誠意を信じていたのに。と自分が言い出しっぺであるにも関わらず、完全に被害者気取りのツイートをかましフォロワーの同情を買おうとしたのである。さらに彼はフォロワーと自分の子飼いの作家にベストセラー作家を叩かせるように仕向けた。こうすればネットに慣れていない作家はビビってツイッターから逃げるはずだと考えたのである。だが、このベストセラー作家はしぶとかった。フォロワーが大量のクソリプを送ってきても、彼はめげなかった。逆にカリスマ編集者のフォロワーをボコボコにしてしまったのである。

 二人のツイッターで争いはいつの間にか周りを巻き込んで大炎上してしまった。カリスマ編集者を崇拝するフォロワーと、普段から彼にお世話になっている作家・ライターたちはベストセラー作家に向かって突撃し、逆にベストセラー作家側にも元々カリスマ編集者が大嫌いだった作家連中や一般の本好きがカリスマ編集者がこれまでに犯した悪行を虚実織り交ぜて書くなどして、この騒ぎはもはや本人たちにさえ止められない状態になってしまった。

 これは明らかに二人にとってまずいことであった。カリスマ編集者は相手を徹底的に叩きのめして俺かっこいいをやりたかったわけだが、もうそんな事言っていられなくなった。一方作家の方もカリスマ編集者からくる連日のクソリプに心も体も疲れ果て小説の執筆さえままならないような状態になってしまった。

 カリスマ編集者はどうにかしてこの揉め事の落とし所を見つけなければと考えた。いくらベストセラー本を立て続けに出しても、また自分でベストセラー本を書いてもこんな騒ぎになったら自分の会社での立場も危うくなる。どうすればいいのか。いっそ作家にメールでも送って停戦を呼びかけるか。しかしそんなことしたら作家のやつは自分のメールを晒して勝手に勝利宣言をするだろう。そしたら自分は一生負け犬呼ばわりされ今まで築いてきたものがすべて崩壊するかもしれない。そんな事には耐えられない。カリスマ編集者は毎日更新していたツイッターを放置して一晩中解決策を考えた。やがて夜が明け、彼は眠気覚ましにコーヒーを飲もうとしたのだが、その時突然アイデアが閃いたのだ。彼はそのアイデアに確かな感触を感じた。これなら確実にこの騒ぎを確実に終わらせる事が出来るし、しかもそれ以上に自分にさらに名声をもたらす事になる。あとはどうやって問題をクリアするかだ。カリスマ編集者はこう思い立つと早速編集長のLINEにメッセージを送った。

 編集長は朝起きて愛人との朝のチャットをしようとLINEを開いたのだが、いきなりカリスマ編集者からのLINEに出くわしたので急に不機嫌になった。どうせ作家を説得してくれって泣き言言ってるんだろうと思ったのだ。しかし、文章を読んだ途端彼はびっくりして思わずカリスマ編集者に電話をかけたのだ。

「お前、今LINE読んだぞ。お前あの揉め事を当の作家と共著で出すってマジで言ってんのか?」

「大マジっす。そのために今から俺あの人に電話で相談します。こんなに大騒ぎになってるんだから、もう何があったのか全部本にして出すしかないっすよ。それにこんなに炎上しているのは全部俺の責任だし、自分の責任は自分でとるんで、まぁ編集長は気長に俺の報告を待っていて下さい。絶対にあの人を説得して見せますから」

 そう言うなりカリスマ編集者は電話を切ってしまった。編集長は後から電話をかけたが話し中で通じなかった。彼は最悪の結果を想像して自分にも処分が下されるのではないかと不安になったがしかしもはやどうしようもなかった。

 編集長に電話で伝えたようにカリスマ編集者はそれからベストセラー作家に電話をかけ続けた。しかし作家は電話に出なかった。作家が電話に出さえすれば自分のトーク力ですぐに落とすのに。仕方がないのでカリスマ編集者はメールを書いて送る事にした。彼は電話で言うはずだった内容をいくらか丁寧に直してそのまま送った。彼が送った文章は以下の通りである。

『〇〇さん、あなたに先ほど電話したのですが、繋がらなかったのでメールでお伝えします。僕はあれからずっとあの件について考えていました。僕としてもあなたの小説家としての譲れない部分はわかるし、僕にだって編集者として今まで積み重ねてきた仕事に対するポリシーがあります。この間あなたと腹を割って話し合った時、僕は初めて価値観の違いというものを思い知らされました。それで結局僕らは決別する事になってしまいましたが、だからといって二人で一緒に取り組んだものを全て捨てていいのでしょうか。僕はあなたと一緒に小説に取り組んだ日々をどうしても忘れる事は出来ません。僕は今もあなたからいただいた原稿に朱書きを入れた日々を鮮明に思い浮かべます。あの原稿やメールに残された僕ら二人の熱意は決して消えません。僕は今もこうしてあなたの原稿と、そして僕への罵倒を含むあなたの情熱に満ちたメールを読み返してこのまま全てをなかった事にしていいはずがないと思うのです。お願いです。この原稿やメールに残されたあなたと僕のやりとりを本にすることを承諾していただけないでしょうか?僕はあなたと交わしたこのやりとりが非常に芸術的な価値があると考えています。あなたと僕のやりとりが単行本として全て公開されたらきっと大反響を呼び起こすでしょう。あなたはここまで読んで単行本にするって言ったってどうせ自分の都合のいいように編集するんだろ?って思うかもしれません。だけど安心してください。僕は絶対にそんな事はしません。僕があなたのような世間に名の知られた大作家相手にそんな改竄行為なんかしたら間違いなく出版社から追放されるでしょう。僕を信じて下さい。僕はあなたがこの提案に乗ってくれると信じています。』

 カリスマ編集者はメールを送信すると編集部に連絡してしばらくはテレワークにしたいと伝えると、それから部屋にこもってネットの各サイトを回りはじめた。ベストセラー作家の動向をチェックするためである。カリスマ編集者は一日ぶりにTwitterに復帰すると、急に平和主義者みたいな事を語り始めた。『いつまでもつまらない憎しみなんか抱えているから、戦争なんて起きるんだ』『戦争が起こった結果は絶対に公表すべきなんだ。外交記録、首脳間のやりとり、そういう現場の肉声を世に公表して人々にどうして戦争が起こったかを考えさすべきだ』『俺、ナイーブすぎるって笑われるかもしれないけど人間は理解し合えるって思ってるんだ。いや理解って言っても価値観を共有出来るとかじゃなくて、違う価値を持っている人を認めることが出来るってことだよ。俺は編集業をやってきていろんな人と仕事した。ある人は俺をマーケティングしか脳のないバカだと相手にもしなかった。だけど俺、今になって思うんだ。もっとその人を広い心で受け入れればよかったって』『戦争している国の首脳は今すぐ対話すべきだ。そしてその対話記録をすべて文書で公表すべきなんだ。それで理解し合うなんて出来ないかもしれないけど、少なくともお互いがどういう人間かはわかるだろ?』この平和主義ぶった一連のツイートはよく読めばわかるが全て自分と作家の揉め事について語っているものだった。彼は自分のこの戦争批判に名を借りたツイートでそれとなく自分がこんなにも作家と対話を望んでいるのにプライドの高い作家が頑なに拒んでいると印象操作して、作家を悪く印象操作して追い詰めようとした。さらにカリスマ編集者は彼と作家だけが知る例の計画をほのめかすようなことを書き、追い詰められた作家が彼の計画に乗るように仕向けた。

 彼の目論見は見事当たった。この何回にも分けてつぶやかれたツイートは見事トレンドに入った。この一見ストレートな反戦ツイートを読んだカリスマ編集者のフォロワーは作家との揉め事を思い浮かべ、そろってカリスマ編集者をマーケティングしか脳のないバカと軽蔑していたらしい作家へ深い憤りをぶちまけた。フォロワーの一人は作家に突撃して『なんであなたは彼を拒絶するんですか?あなたのようなベストセラー作家にとって編集者なんてどうでもいい存在なんですか?』とコメントを書き、これも大いにバズった。ベストセラー作家はいつの間にか悪役となってしまい、彼が何をツイートしても批判のコメントで覆い尽くされた。作家は完全に追い詰められてしまった。八方塞がりの中彼に出来ることは一つしかなかった。

 カリスマ編集者は朝起きていつものようにPCのメールをチェックした。そして彼は狂喜した。なんとそこに作家のメールがあったのである。さすがの彼も緊張して恐る恐るメールを開いたのだが、そこには彼の望む答えが書かれてあった。

『〇〇です。先日のメールありがとうございます。お返事遅れて申し訳ありませんでした。メールを拝読しました。そして考えました。私は今もまだあの時あなたが言った事に納得はできませんし、未だに怒りを感じていますが、あなたのメールと一連のツイートを読んで、あなたがイメージとは違って正直な人だと認識を改めました。あなたがおっしゃっていた単行本の件、考えてみます。あなたがメールで書いたことに間違いはないでしょうか。本当にあの時私が再三書いた主張はすべて載せられるのでしょうか。他にも色々あなたに対して言いたいことが山程あります。当然あなたも私に対して言いたいことは数え切れないほどあるでしょう。だけどメールでこうしてやり取りするのも、電話で話し合うのも結局お互いの主張を一方的に述べてそれでおしまいということになってしまいかねません。一度二人でさしで話し合いましょう。だけどそれによって再びあなたと一緒に小説を書くことは絶対にありませんが、少なくとも本にして出せば、あなたと一緒に小説に取り組んだ日々の歳月の、私にとっては決して幸福でなかった日々ですが、記録は残す事はできると思います。そしてこの記録を出版することによって、読者に対して我々がなぜ袂を分かったのかを説明出来ると思います。もしあなたがまだ単行本化の意思があるのなら連絡ください。』

 カリスマ編集者はこのベストセラー作家の読み終えるなり、衝動的にガッツポーズを取って立ち上がった。これで目標に向けて大きく前進した。あとはどうにか作家を飲み込ませるだけだ。彼は早速シャワーを浴びて着替えた。そして数多いセックスフレンドの中から今日の気分にあった女に向けて君と今夜エッチしたいとLINEを送ると、さっとドアを開けて編集部へと向かった。


 そうしてようやく完成したのが、この記事のタイトルでもある大ベストセラー本『赤と黒 ~僕らが決別した理由』である。この本はベストセラー作家とカリスマ編集者が決別するまでの記録が生々しく記されていた。また、作家の文章を黒字に、編集者の文章を赤字にするなどの工夫がされており、実際にあった編集間でのやり取りが読者にもはっきりと分かるような工夫がされていた。二人がが短い共同作業の記録として出版したこの本は発売されるなり話題沸騰してバカ売れした。作家にとっては皮肉な事に自分の最大のベストセラー小説の倍は売れてしまったのだ。編集者にとっても自分が担当したどの本よりも売れ、彼のカリスマ編集者としての名声は爆上がりした。

 この本は勿論すんなりできたわけではない。ベストセラー作家とカリスマ編集者はあれから話し合い、その過程で何度も激論し、ときに殴り合い寸前にまでなり、そして再び決別する寸前にまでなり、ようやく発売になったのである。作家と編集者はそれぞれの言い分を前書きにするか後書きにするかで激しく激論した。作家と編集者はそれぞれ、どちらか一方の言い分が前書きに載ったら読者はその前書きに影響されて全文を読むだろう。そしたら読者が前書きを書いた人間のほうが正しいと思うに違いないと考え、俺が先に書くと言って譲らなかった。しかしこれは早計な考えで、読者が実際に前書きを読んでから本文を読んだとしても、後書きを読んですべてが引っくり返される事はままあることである。しかし双方とも我が強く俺が俺がの人間だったので二人共あくまで自分が前書きを書くことにこだわったのである。しかしこの問題を解決したのはやはりカリスマ編集者であった。彼は見開きの左右のページにそれぞれの言い分を一ページにまとめて載せることを提案したのである。作家はたったの一ページで俺の主張がまとめられると思っているのかと反発したが、編集者はこれが一番平等なやり方だ。見開きの左右に互いの主張を載せれば読者は二人の文章を同時に確認することができ左右に載せられた主張を読み比べることが出来るのだと言って作家を説得した。確かにそうだった。作家は自分の主張を一ページにまとめろというのには納得が行かなかったが、編集者に歪められずに自分の主張を通すにはこれしかないと思い、双方がきっちり同じ文字数で書くことを条件にして承諾した。さらに二人はタイトルでも揉めた。このタイトルは編集者の発案だが、作家はこの安っぽい感傷的なサブタイトルを嘲笑し、何が決別だ。実際とまるで違うじゃないかと罵った。それに加えて彼はメインタイトルが赤と黒であることに腹を立てて、なんで編集者のお前が先で俺が後なんだと文句を言い、黒と赤ににしろと文句を言った。しかしカリスマ編集者は冷静にタイトルは有名な小説から取ってるんだし、逆にしたらおかしいでしょと言い、さらに日本の本は基本的に縦書きだから本文の構成は自然にあなたの文章が右にくることになり、自分の文章は左にくる。タイトルは横書きにするので文字の構成としては本文通りだから全然このタイトルで問題ない言うと、作家はハッと気づいて確かにそうだと納得してしまった。そうして激論に激論を重ねてやっと双方の見開きの前書きだけを残して本の完成にまで漕ぎ着けた時、作家はここまで来たならもう会わなくてもいいだろうと言った。編集者も後は見開きの前書きを貰えばいわけだから、わざわざ時間を割いて会う必要もないと思った。それで彼らは別れる事にしたのだが、その時ベストセラー作家はこれ以上ないぐらい晴れやかな表情でこう言った。

「これが君と最初で最後の共同作業になるとはね。でも良い人生経験になったよ。二度と会うことはないだろうと思うが、君は非常に優秀な編集者だ。君のさらなる活躍に期待しているよ」

 ベストセラー本『赤と黒 ~僕らが決別した理由』の見開きにベストセラー作家とカリスマ編集者の前書きには作家と編集者の主張がそれぞれ赤と黒の印字で載せられているが、その主張は見事なまでに対照的だ。作家は編集者をマーケティングしか考えない愚か者で、自分は小説を守るために彼と袂を分かったのだと編集者を、この本で自分に釈明の機会を与えてくれた編集者に感謝の言葉を述べながらも、そのマーケティング優先な考えを激しく攻撃して自分の正当性を訴えた。一方編集者は本人を前にして一度も使っていなかった作家にたいして先生と敬称をつけて、僕は先生に最高の傑作を書いてもらうよう最大限の努力をした。だけど、その僕の誠意が残念ながら先生には伝わらなかったと妙に殊勝で感傷的な文体で書いて読者の同情を買おうとした。

 この本を読んだ読者の反応は様々であった。その編集間での作家と編集者の激しいやり取りに驚くもの。こんなに出版界の事業を晒していいのかと憤る物。編集者を金に取り憑かれた極悪人と罵るもの。作家に対して本を出してもらったのにその言い草はなんだと激しく怒る者。Twitterでは本が発売された当初は作家と編集者のそれぞれのファンの中傷合戦が繰り広げられた。しかしそのうちに二人に対してもう一度組んで今度こそ傑作を書いてほしいという意見が出てきた。その意見はTwitterに収まらずとうとう各メディアでも取り上げられた。こんな才能ある二人が小説を一作も完成させることも出来ずに別れるなんてありえない。カリスマ編集者は度々取材を受けて自分はいいんですけど先生がどう思うかと答えてさらなる金づるをと暗にベストセラー作家に向けて共同作業の誘いを投げた。一方ベストセラー作家はひたすら沈黙を守り、山のようなカリスマ編集者との再タッグを望むコメントにも答えない。しかしいずれ二人は再び会わねばならないだろう。もう賽は投げられたのだ。




 

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