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最終講義

 今、この某有名私立大学の講堂でフランス文学専任の桂川紀夫の最終講義が行われていた。桂川は同世代の学者のように単著を出さず、マスコミにも出なかったが、しかし彼は誰にでも気前よく単位をくれるので学生たちの評判は大変よく、単位目当てで人がわんさか講義に駆けつけた。その桂川も今季で定年のため退官する。

 ただいま行われている最終講義も彼の退官を惜しむ生徒たちで埋め尽くされていた。正直に言って学者としては何の実績もなく、教員としても袖の下とコネで教授となったことぐらいしか語ることのない桂川だったが、彼はこの熱烈なる教え子たちの歓迎ぶりに感情が昂って講義中何度も目頭を抑えた。自分は結局何もなしえなかったが、それでもこうして自分の講義に来てくれる教え子たちがいる。彼は喋りながら原稿から顔を上げて自身の講義に耳を傾けている学生たちを見た。今日は何故か殆どが女性であった。このうら若き乙女たちは彼の最後の講義を前のめりになって聴いていた。桂川はこの彼女たちのあまりの眩しさに目を細めた。ああ!何という奇跡だろうか。この乙女たちが自分を見送ってくれるなんて。こんな何の実績もない私の最終講義を聴いてくれるなんて。桂川はこの乙女たちと、過去に講義に来てくれた乙女たちを思い浮かべて切なくなった。ああ!乙女たち!二度間近で君たちを見る事が出来ないなんて。青春の果実をたわわに実らせた乙女たち。私は君たちを最後にしっかりと目に焼き付けて教壇を去るよ。講義が終わった後の乙女の香りだけが漂う講義室。置きっぱなしの飲みかけのペットボトルと空き缶。呆れ果てたじゃじゃ馬女たち。どんな教育を受けてきたんだと一人ずつ私の研究室に呼んで小一時間叱りつけてあげたくなった。ああ!うら若き乙女たちよ!

「先生、どうしたんですか?」

 突然声がけに桂川は我に返った。ふと見ると一人の学生が立って真っ直ぐに彼を見つめていた。この学生は麦路明子といい桂川が最も目にかけていた学生であった。桂川の講義の受講者の中で一番優秀で彼は麦路を研究者にしたいと考えた。そうすれば退官後も彼女に指導が出来ると考えて麦路を院に入らせようと口頭でもラインでもメールでも熱烈に口説いたが、麦路は思いっきり首を横に振り院は国立に入りたいと断った。彼女は元々国立を志望していたが、現実的な親が受かるわけがないと彼女の成績なら確実に受かるであろうこの大学を受験させたという。だから院だけは国立に入りたい。申し訳ないがこの大学にこれ以上いても自分は成長出来ないとの理由であった。麦路の言葉に桂川は深く悲しんだが、しかし彼女の行く道を祝福してやろうと握手を求めた。しかしこの乙女は何故かそれを避けて一歩どころか二歩も散歩も退いた。桂川は麦路の声を聞いて彼女を前に講義した日々を思い出して震え、彼女を穴が開くほど見つめた。

「申し訳ない。最終講義だというのに情けない。君たちとこれっきりだって思うと切なくなってしまって」

 この桂川の言葉に講堂のあちこちからうら若き乙女たちの笑い声が響いた。桂川は乙女たちの笑いに笑みで応えてから原稿に目を落として講義を再開した。この大学に入ってからひたすら取り組んできたフランス文学。この講義が終わったら自分もまた真にこの大学を卒業する。ああ!私を導いてくれた先生方。自分と共に学んだ同輩たち。彼らもまた研究者として立派な業績をあげているが私に手紙もくれず、回想録にすら私の名を挙げない。かつての教え子たち。ああ!誰も私の論文を引用も典拠もしてくれず、しかも私に連絡すらくれないがしかし彼彼女も私の教え子だ。そして今私の目の前にいるうら若き乙女たち。まるでプルーストが描きそうな可憐な少女だ。彼女たちに見守られて私は静かに教壇を去ってゆく。ああ!まるで天国に昇っていくみたいだ。

 桂川の講義は溢れ出る妄想に煽られて急に熱を帯びてきた。内容自体は全く面白味がなく、現役の研究者が聞いたら鼻で笑うような代物であったが、それでも受講生たちは一心に熱くフローベールからプルーストまでの文体の変遷を語る桂川の講義を聞いていた。そして講義が終わると桂川はもう耐えられずに号泣しながら退官の挨拶をした。

「私はこの講義を最後に退官しますが、しかしそれでも私の学者人生は続きます。学問には定年はないのですから!」

 こう述べて桂川は大学教員としての最後の講義を締めた。すると講堂にいたうら若き乙女たちが一斉に立ち上がって猛烈な拍手をした。拍手が鳴り響く中桂川はもう子供のように泣いた。ああ!決していいことばかりだったとは言えなかった学者人生。単著一つ出せず、単著出しまくっているのに大学に職を得られなかった同窓には何でお前程度が教授なんかになれるんだと妬まれ、だけどそれにも耐えてひたすら歩んできた。だけど今となってはそんな事はどうでもいい。何故なら私にはこの教え子たちがいるから。花咲く乙女が教壇からさる私を見送ってくれるから。桂川は教壇から顔を上げて乙女たちを見た。彼女たちは潤んだ目でまっすぐ彼を見ていた。そうして場が静まった時、先程の麦路明子が一人立ち上がった。彼女は白く細長い包み紙を手にしていた。

 それを見て桂川はハッとした。やはり麦路くんが学生を代表して感謝の言葉を述べるのか。他の乙女たちは麦路を見上げ今か今かといった表情で彼女が感謝の言葉を読み上げるのを待っていた。やがて麦路は桂川の方へと進み出た。そして包み紙から便箋を取り出して読み始めた。

「桂川先生、この度はつつがなく退官の日を迎えられたことをお喜び申し上げます。先生はこの大学で四十年にもわたりフランス文学を研究され、そして私たち学生に指導されてまいりました。私たち学生は多分その事を忘れないと思います。先生が話した内容よりも、先生が私たち女性の未来のために奔走してくれた事を深く感謝します。私はここで学生一同を代表して先生にメッセージを送りたいと思います」

 この麦路の言葉を聞いて桂川の心臓は波打った。メッセージだって?うら若き乙女たちが私に何を言うのだろう。ああ!乙女たちよ!さあ、早く言ってくれこの桂川紀夫にありったけの感謝の言葉を聞かせておくれ。私は確かにフランス文学者として三流にも程があった。だけど私は教育者としてはひとかどの人間だったんだ。こんなうら若き乙女たちに囲まれて!

「先生、いい加減に人の飲みかけのジュースを飲むのはやめた方がいいです。先生、毎回講義の後私たちが忘れていったジュース飲んでましたよね?若いエキスは最高だってわけのわからない事を言いながら、ジュースを置き忘れた私たちの名前を上げながら○○君の蜜はちょっと酸っぱいなとか言ってましたよね?私たちそれがあんまりにも頻繁だからわざと忘れて先生のジュースを飲む姿録画しました。もう大学の方には提出してあるので私たちのスマホを取り上げても無駄です。あと私たちが座った席を掃除だとか言ってぺろぺろ嘗め回すのも外ではやめた方がいいです。これも録画して大学に提出してますが、もうやっていることが犯罪者じゃないですか?今まで先生の事が哀れで告発するのをためらっていたのですが、もう退官するのでどうでもいいやって思ってそれで感謝の言葉として述べる事にしました。あとついでにですけどそのカツラ似合ってないからやめた方がいいです」

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