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《長編小説》小幡さんの初恋 第九回:木曜日

 丸山くんの新人歓迎会を明日に迎えて小幡さんは通常の義務と歓迎会の準備の準備のためてんてこ舞いであった。席のセッティング、歓迎会が行われる、旅館こと社長の自宅へ来てもらう居酒屋とのメニューと、見積りの最終調整。そして昨日で締め切られた参加者の席の割り振り。傍目に見てもその大変さは伝わった。鈴木は業務の方を手伝うと小幡さんを助けようとし、いつも一人で頑張る小幡さんも流石に助けが欲しかったので、じゃあ少しだけお願いしますと鈴木に自分の仕事を分けたのであった。鈴木は昨日公園で一緒に食べた時に小幡さんが言ったあの言葉が引っかかってずっと彼女を心配していたが、当の小幡さんはそんな事をすっかり忘れたような身振りで元気に働いている。彼はそんな小幡さんを見てとりあえず一安心した。

 社員たちも明日の歓迎会を前にして浮き足立っているようだった。何せ三年ぶりの飲み会なのだ。谷崎商事ではこのコロナ禍の世情でずっと飲み会を自粛していた。というより赤字にこだわる専務がコロナ禍を理由に飲み会をやる事にずっと反対していたのだ。しかし久しぶりの新入社員が入ってきた。しかもそれが自分たちが子供の頃からよく知っている丸山くんであった。なので社長は専務に今年こそは飲み会やるぞと言い張り、無理矢理専務を承諾させたのだった。飲み会はいつもは中央の駅前にある居酒屋とか、北の地域にある居酒屋とか、あるいは東京の隣の区で飲み会をやっていたが、このコロナ禍で制限がかかり居酒屋では大人数での飲み会は出来なくなった。そこで社長はじゃあウチで歓迎会をやろうと言い出したのだ。専務は当然これに反対した。家なんかで飲み会なんかやったら汚れるし、大体こんな大人数でケータリングなんか使ったら代金だけでバカにならないほど金が飛ぶ。専務は兄の社長に抗議したが、社長はバカヤロウ!三年分の溜まった金があるじゃねえかと主張し、これまた強引に押し切ってしまったのだ。

 午後の三時頃に鈴木は用をたすためにトイレに向かったが、中で社員たちがあまりにも聞き捨てならないほど下品な話をしているのを聞いて入り口で立ち止まった。

「なぁ丸山って多分童貞だろ?今どきの十八にしちゃ珍しいよな」

「ああ、そうだな。なんかアイツ妙に真面目な奴だよな。アイツ女の子と会話したことあんのかな?」

「ねえんじゃねえの。だけどさそんな奴でも酒飲んだら気が大きくなって女の子と話すもんじゃねえの。普通さ、こういう飲み会って女の子とコミュニケーションとる絶好の機会じゃん。女の子と飲んでさ、気分よくなってさ、そのままラブホに直行じゃん。なのにさ、そのせっかくの飲み会なのに参加者ババアしかいねえんだぜ!可哀想だよな丸山」

「でも、小幡さんがいるじゃん。そりゃ小幡さんだってアラサーのババアだけど他のババアに比べたら全然若いだろ?彼女俺らと年そんなに変わんないし。だから丸山は小幡さんに童貞を下ろして貰えばいいんだよ。早く私にあなたの童貞を提出しなさい!ってさ」

「ハハハ、ウケるわそれ。だけどお前知ってる?小幡さんヴァージンだって。なんか噂によるとそういうことらしいぜ」

「えっ、マジかよ!アラサーなのに救えねえぞそりゃ!それじゃ丸山の童貞下ろせねえじゃん。専務は救いようのないフィギュアヲタの童貞だし、小幡さんは処女だし、この会社イカ臭えわぁ〜!」

 ここまで聞いて鈴木は我慢がならずトイレに入って社員たちを思いっきり怒鳴りつけた。

「黙らんかこのバカモンが!君たちそんなくだらん話をしとらんでさっさと仕事に戻らんか!」

 鈴木の一喝を浴びた社員たちはそのあまりの激昂ぶりに申し訳ありませんと恐れをなして慌てて現場に戻った。鈴木はそのまま悠然と便器のドアを開いて中に入るとふむと気合を入れてベルトを外しはじめた。

 しばらくしてやたらスッキリした顔の鈴木が戻ると小幡さんはなにがあったのか尋ねた。小幡さんにも鈴木の怒鳴り声が聞こえていたのだ。聞かれた鈴木は少し恥ずかしそうな顔をしながら、ちょっとトイレの中でアイツらがいつまでもぺちゃくちゃ喋っていたから怒鳴りつけてやったと答えた。小幡さんはそれを聞いていつも冷静な鈴木がここまで怒るとはよっぽどのことなんだろうと想像し、一体なにがあったのかと心配し、鈴木に向かって「何かあったらすぐ報告してくださいね」と声をかけたが、当然鈴木は話さなかった。

 さて、16時過ぎると、小幡さんと鈴木をはじめとする内勤は歓迎会の準備をするために旅館へ向かう準備を始めた。今日の日報の提出確認は社長自ら行うことになる。なにぶん社長の自宅での大掛かりな飲み会なのでいろいろと準備があるので当日に準備していたら間に合わないためだ。小幡さんと鈴木、それにその他4名と今回の歓迎会の主役の丸山くんを加えた7名は3階の物置部屋まで上がると透明の仕切り板を持てる分だけ持った。本来丸山くんは別に手伝わなくてもよかったのだが、本人が是非お手伝いしたいとお願いしてきたのである。小幡さんはその丸山くんを気遣って「大丈夫?」と声をかけたが、丸山はさわやかに「大丈夫です!」と返事をした。その丸山くんのさわやかさに元気をもらった鈴木たちが、さぁ行くぞとさらに板を持とうとしたので、小幡さんは笑顔で注意した。「お父さんたち、無理しないで!」

 小幡さんに注意されながらどうにか階段を降りた一行はビルを出て、隣の社長の家の敷地へと入った。鈴木は家を至近距離から眺めてまさに旅館だと思った。厳しい玄関が手前に聳え立っていて、その横からずっと左奥まで障子がならんでいる。その障子の中にあるのが今回歓迎会をやる大広間だろう。確かにホテル並みの広さはありそうだ。小幡さんがベルを鳴らすとすぐに社長の奥さんが出迎えにきた。奥さんは小幡さんに挨拶すると、すぐに大広間の戸開けるからそこで待ってて!と言って皆に大広間の前で待つように言った。

 しばらくして小幡さんと鈴木たち一行は大広間に案内されたが、鈴木はその広さと内装の重厚さに圧倒されてしまった。大広間を支える黒柱などかなりの年代ものでずいぶん昔からの建物である事が容易に察せられた。隣の丸山くんも驚いて凄いですねぇ。と鈴木に話しかけたが、目の前を見ると小幡さんたちがすで準備をはじめていたので、二人共慌てて小幡さんたちのもとに駆け寄った。

 小幡さんの指示で、鈴木たちはまずはじめに、仕切り板をアルコール消毒して、それからすでに置かれている膳に取り付ける作業を行ったが、鈴木は慣れない作業に異様に戸惑った。小幡さんが助けに来てこうやるんですよと教えてくれたが、それでもなかなか出来なかった。とうとう笑って小幡さんが全部やる羽目になったが、鈴木は申し訳なくて何度も謝った。その鈴木に対して小幡さんは「鈴木さんにも苦手な事あるんですね」と慰めの言葉をかけ、鈴木はそれに答えてこう答えた。「いや、昔はこういう事は全部部下に任せていたから、よくわからないんだ」

 それから鈴木たちは大広間の大々的な大掃除とアルコール除菌に取り掛かっていたが、その時膳をアルコールで拭いていた鈴木たちの前に着物姿の上品な老女が現れてこちらに挨拶してきた。

「皆様、ごきげんよう。いつも息子たちがお世話になっております」

 小幡さんが皆を代表して老女に挨拶した。

「おばあちゃん、こんにちは。明日ここ借りるからね!」

「まあ、良子ちゃん。また一段と大きくなって!」

「もう、おばあちゃん!それやめてって言ってるでしょ?」

「あらあらごめんなさいね。軽口が過ぎるって、息子たちからも散々言われてるけど止められないのよ。やっぱり生まれのせいかしらね」

 竹を割ったような歯切れのいい江戸弁である。それから老女は鈴木の方を向いて話しかけてきた。

「おや、あなたが鈴木さんですか?息子たちからお噂はずっと聞いていました。何度かお見かけしましたが、こうして間近で対面するのははじめてですねえ。はじめまして私、社長の太郎と専務の次郎の母の万寿子と申します。今後もお見知りおきを」

「私も挨拶が遅れて申し訳ありません。私、二年前から御社で働かせて頂いている鈴木守男と申します。こちらこそ何卒よろしくお願い致します」

 鈴木は恐縮して慌てて挨拶を返した。万寿子は鈴木に興味があるのか続けて話しかけて来た。

「あなた東京の方でしょう?言わずとも見ればわかりますよ。わざわざこんな草深き田舎までようこそ。さぞかしご苦労なさったのでしょう。あなたのような都会人がこんな所まで落ち武者のごとく落ち延びて。その心中お察し申し上げます。同じ境遇の身としてその悔しさ、わかりすぎるほどわかります」

「いや、別に落ち武者ではありませんが……」

「いいえ、隠さずともよいのです。この万寿子だけには正直に打ち明けて下さいまし」

 鈴木はこの万寿子にどう対応したらいいかわからず困り果てたが、彼は万寿子の着ている着物に見覚えが会ったので話題をそらすために着物について尋ねることにした。

「その着物、銀座の『つむぎ』でお召になったんですか?亡くなった母がよくそこで着物を作ってもらっていたのでなんとなく模様は覚えているんですよ。間違っていたらすみません」

 つむぎとは鈴木の亡き母がよく行っていた銀座の呉服店屋である。鈴木が店の名前を行った途端万寿子は目を剥いて興奮してまた喋りだした。

「そうなのですよ!その『つむぎ』とは私の実家なんですよ。銀座のお嬢とまで言われた私が何故かこんな草深き田舎まで連れ去られ、それまで聞いたことのない虫の声に世の侘しさを感じて、いっそ昔の白蓮みたいにどこぞの青年と駆け落ちでもしようかと思いながら虚しく時を過ごしていたのです。ところであなた白蓮をご存知?」

「柳原白蓮ですか。朝ドラの『花子とアン』を少し観ていたので名前ぐらいは知っています」

「朝ドラ?……まあいいです。話を続けましょう。だけど青年なんか全く現れはしない。おまけに私には短歌の才能なんかないから短歌雑誌の懸賞にも落ち続けで誰も私の名前なんか知らない。それでやけになって私この家から実家に逃げ帰ったんです。そしたらですよ。なんと主人が迎えに来るじゃないですか。私の両親に手をついて、全て自分が悪い、だからうちに一緒に帰ろうと。私その主人の態度があまりに健気で途端にほだされてしまいました。結局私は主人と寄りを戻して子供も二人作って、まあこの家は草深き田舎ですけど、お金はふんだんにあったのでそれなりの暮らしをしていたのですが、なんと突然主人が卒中で亡くなってしまったんですよ。それからはもう大変でしたのよ。会社のみんなが、一刻もはやくこちらで社長を立てないと会社が東の家に乗っ取られるとか言って、とりあえず息子が独り立ちするまでだからって説得されて会社経営なんかやったことのない私が社長になることになったんです。私は頑張りましたよ。この銀座のお嬢がこんな田舎の土百姓どもと、いえごめん遊ばせ、言葉が汚すぎましたわ。田舎で会社経営なんて出来るはずがないって思ってましたが、でも無事に息子に継がせることが出来て良かったですわ」

 鈴木はこのあまりにも長い話にあっけにとられて思わず聞き入ってしまった。人に歴史ありというがこのやたらよく喋る夫人にも波乱に満ちた歴史があったのだと感慨深く思った。彼は万寿子が一時期社長に就任していたという話を聞いて今川義元の母の寿桂尼のことを思い浮かべ彼女に言った。

「あの、大奥様の話を聞いて私は寿桂尼のことを思い出しました。大奥様は寿桂尼をご存知ですか?」

「寿桂尼?誰ですの」

「今川義元の母です。女大名とも言われてまして、もともと公家の家の生まれにもかかわらず、息子の義元兄弟が大名になるまで見事今川家を守り抜いた女傑ですよ。彼女は義元が桶狭間で信長に打たれてからも次期当主となった義元の子供の氏真を支えていて、彼女が生きている間は国を攻めるものは誰もいなかったそうです。大奥様はまるで寿桂尼のように会社を守ったのですな」

「はあ~、立派な方がいたもんですねえ。私なんかとそんな方を並べるなんてとんでもない!でも、そんな方が母親だったのにどうして義元はあんなに馬鹿殿だったのです?御歯黒して毎日蹴鞠なんかして。全く母の心、子知らずですわ」

 戦国時代の研究に詳しい鈴木は万寿子のあまりに通俗的な戦国史観を正したくなり、夫人に最新の研究による今川義元像を教えたくなった。

「その昔からのイメージの今川義元像は、現在の歴史研究では完全に否定されています。現在の義元は……」

「おばあちゃん!もう日が暮れるから鈴木さんにお話するのはもうやめて!鈴木さんもうすぐ18時ですよ。今日は18時過ぎても残業代払えませんょ!」

 声の方を振り向くと小幡さんが大広間の真ん中で仁王立ちで立っていた。明らかに怒っている。鈴木は万寿子に申し訳ないと謝り、すぐに退出しようとした。万寿子はそれに応えて「あらあら、あの娘はいつも融通が利かないんだから。鈴木さん、お引き止めして申し訳ありませんでした。でもあなたとのお話楽しかったですわ。義元のこと明日続きをお聞かせくださいね」と鈴木に言って別れを告げるとそのまま退出していった。

 鈴木は万寿子は退出すると慌てて小幡さんのもとに駆けつけて謝った。すると小幡さんは呆れたような表情をして鈴木に言った。

「鈴木さん、迷惑じゃなかったですか。おばあちゃんいつもああなんです。初めてあった人を捕まえて延々と自分語りするんです。悪い人じゃないんですけどねえ……」

 時計は18時5分前を差していた。もうすっかり日が暮れている。小幡さんと鈴木は駆け足で事務所へと向かった。





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