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《長編小説》小幡さんの初恋 第三話:小幡さんと鈴木 その2

  鈴木は小幡さんから承諾を得るとすぐに入力作業を再開した。鈴木のタイピングは決して早いとは言えないが丁寧だった。彼は何度も画面を見て、自分が入力した情報と、今机に広げている社員の交通費の書類と金額があっているか照合していた。そして全ての入力が終わると鈴木は小幡さんに向かって言った。

「やっと終わったよ。いやあ済まないね。待たせてしまって」

「待つなんてとんでもないです。ホントに助かりました。このまま漏れを見過ごしてたらそのまま入金処理されてみんなに交通費振り込まれてないって詰められるとこでした。サッ早く帰り支度しないと早くお家に帰ってゆっくり休んでください」

「いやいや、仕事仲間として当然の事をしたまでだよ」

「全く楢崎さんとんでもないことしてくれて!来週来たらキツく叱ってやりますよ。でも……ホントに鈴木さんがいてよかった!」

 そう言うと小幡さんは一安心したのか胸を撫で下ろして、いつもの、鈴木にとっては馴染みの笑顔を見せた。そして彼女は鈴木に聞いた。

「あの、さっき私と社長が話してたの聞いてました?」

「いや、社長とあなたが話していたのすら気づかなかったよ。なんの話してたの?」

「聞いてなかったのならお話ししますね。あの、鈴木さんは契約期間後二ヶ月ですよね?だから私と社長は鈴木さんに契約の更新をしてもらいたいなぁって思ってるんです。鈴木さん、契約更新は考えてますか?別に今回答していただがなくていいんですけど……」

「契約更新かぁ。それはありがたいな。是非させてもらうつもりだよ」

「あぁよかったぁ。鈴木さんが契約更新しないって言ったらどうしようかと思いました。じゃあこの事は社長に伝えておきますね。それと、これはさっき聞いていなかったのなら……あ、いえ大丈夫です!あっもう19時半になっちゃってる!タイムカードは私が押して起きますので鈴木さんはもうお家に帰ってください!私事務所の戸締まりしていきますからここで失礼しますね。鈴木さん来週もよろしくお願いします!」

「こちらこそよろしくよろしく頼むよ。だけど大変だね。いつも戸締まりしてるの?」

「そうですよ。社長は奥さんがうるさいからってすぐに帰っちゃうし、専務は独身だけど何故か会社終わるとすぐに離れにある自分の部屋に引きこもっちゃうしで誰も戸締まりしないんです。本当私がいなきゃ空き巣に狙われ放題ですよ!」

「ハハ、そりゃあなたがよっぽど頼られてる証拠だ。じゃあ失礼するよ」

 鈴木がこう声をかけると小幡さんは馴染みの笑顔を浮かべて手を振った。鈴木はそのまま事務所の入り口まできたが、その時彼は自分のロッカーに昼に楢崎さんからもらった鉢花を入れていたことを思い出した。彼はすぐに事務所に戻ったが、事務所には蛍光灯がついているばかりで誰もいなかった。恐らく小幡さんは上の階の戸締まりをしているのだろう。鈴木はロッカーから花を取り出すと小幡さんに気づかれないようにそっと事務所を出た。

 事務所を出ると鈴木はそのまま会社の目の前を横切っている道路を渡って自宅に帰ろうとしたのだが、その時ジャケットのポケットに入れてあるスマホが鳴ったので足を止めた。彼は何事かとスマホを開けて中身を見ると憂鬱な気分になった。そこにあったのが別れた妻との間にいる一人息子からのメールだったからである。息子からのメールには来週の日曜日にそっちにいくと書いてあり、その下には息子とその母である鈴木の元妻の近況が長たらしく書いてあった。鈴木はそのまま立ち止まってメールを何度も読み返した。それからスマホを再びポケットの中にしまい終わるとなかなか過去とは縁が切れぬものだなと思い深い溜め息をついた。

 鈴木は会社のビルの門の脇に立ちそこから今さっきまでいたビルを眺めた。ビルは無駄に大きな駐車場の奥にあり壁に『谷崎商事』と白地に黒字で印刷された看板を飾って小さなビルはかなり古めかしく、地震でもあったら倒れてしまいそうに見えた。しかし、社長によればこのビルは頑丈な作りで東日本大震災でもびくともしなかったという。さらにビル後ろの塀の向こうには社員が旅館と呼んでいる、ビルの二倍の広さはある、社員が旅館と呼んでいる社長と専務とその家族が住んでいる大きな屋敷があった。それは彼が約二年前にたまたまこの会社の前を通った時と全く変わらない光景だった。

 二年前東京から全てを捨ててこの土地に引っ越してきた鈴木はこの土地の事を知ろうとよくを散策をしていた。その時たまたまこのビルの前を通り、そこに貼ってあった契約社員募集の張り紙を見たのである。彼は当時東京にあった不動産や車を全て売り払ったおかげで、食うには困らないだけの金はあったが、このあまりにも時代に取り残されたようなビルを見て、ここでどんな人間が働いているのか興味を持ち、また何かあった時の保険のための貯金でもするかとも考え、要するにあまりもの事を考えないで応募の電話をかけたのだ。

 鈴木はその時の事を今もはっきりと覚えている。電話に出たのは小幡さんだった。鈴木は小幡さんに応募の意思を伝えてすぐに社長と専務と小幡さんで面接を受けた。彼自身はその学歴と経歴が逆にネックになって落ちるだろうと考えていたので、小幡さんから合格の電話をもらった時は本当驚いた。驚きのあまり逆に就業に不安になったが、小幡さんはそれを察してか彼に非常に親切にしてくれた。小幡さんから契約の更新の事を聞かされた時、鈴木は後二年間はこの会社にいられる事に素直に喜んだ。確かにこの仕事は最初のうちこそ何かあった時の保険のためのものだったが、働いているうちに生活の貴重な一部のように思えてきた。

 長い物思いから覚めた鈴木は我に返って時計を見た。もう20時近くになっていた。そういえば小幡さんはどうしたのだろうか。鈴木はビルが全て消灯されているのを確認して小幡さんはもうとっくに戸締まりを済ませて帰っているのだと判断した。彼は自分も早く帰らねばと思って足を進めようとしたその時だった。ビルの入り口から例のブルーの制服を着た小幡さんが亀のように頭を突き出して現れたのである。

 この小幡さんの不意打ちのような登場に鈴木は驚いた。しかしもっと驚いたのは小幡さんだろう。小幡さんはとっくに帰ったはずの鈴木がまだいるのに驚いて思わず声を上げた。

「す、鈴木さん!なんでここにいるんですか?私とっくに帰ってると思ってましたよ!」

「いや、ここから会社のビル見てたらこの会社に入ってからの事が浮かんできてね、それでいろいろ思い出してたらいつのまにか時間が経ってしまってたのさ」

「あっ、そうなんですね」

「そうなんだよ。もう二年経ったんだなって思ったんだ。二年て月日は我々のような年寄りにはあっという間だ。だけど僕は未だにここに応募の電話した時の事を鮮明に覚えているよ。あの時あなたが採用担当です、と自己紹介してこちらの経歴とかいろいろ聞いたんだ。それから業務の説明をしてあなたは経理のご経験はありますか?と質問してきたんだな。だけど僕は経理なんて一度もやった事はない。というより事務作業なんて今まで一度した事がない。だから僕は正直にないと言ったんだ。そしたらあなたは……」

「あの、鈴木さん。お話は後日聞きますから今日は早く帰らないと……」

 小幡さんからそう言われて鈴木は慌て話しを打ち切った。彼は自分でもバカな事をした事に反省した。

「あっ、すまんすまん!もう帰る時間はとっくに過ぎているんだったな!さぁ帰るとするか」

「ええ、もう行きましょ?」

 二人は道路を渡るとそのまま同じ道を歩き出した。鈴木は小幡さんが自分と一緒に歩いているのを不思議に思い話しかけた。

「あれ?小幡さんも家はこっち方面なの?」

「ええ、そうですよ」と小幡さんは答えた。






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