マガジンのカバー画像

コラム

26
コラムをまとめました。
運営しているクリエイター

記事一覧

泣くこと、強くて弱いこと 2023年度上智大学学業優秀賞受賞にあたって

 私は上智大学で何度も泣いている。とてもきれいとは言い難い涙を何度も流してきている。

 初めて泣いたのは入試のときで、2011年の2月、大雪が降っていた。神学部の二次選考。圧迫面接でも何でもない、むしろ労わりと配慮さえ感じられる面接で、それでも私は泣いた。
 何かが怖かったわけではない。何かが嫌だったわけではない。ただ、感極まってしまった。自分がここにいること。長かった受験生活が終わろうとしてい

もっとみる

「いつか」にいまを潰されたくない。

 以前、「小説家になろう」のエッセイジャンルで「死で生を潰されたくない。(なろう内URL:https://ncode.syosetu.com/n5407em/ )」というエッセイを書いた。人間はいつかかならず死ぬし、その可能性はつねにいつも消えないが、たとえば「明日死ぬかもしれないんだよ?」という「正しい」お声がけはお気持ちだけ受け取ってあとはすべてシャットアウトする、という意を書いた、エッセイで

もっとみる

言ってもらったことを受け容れる義務はない。

 今年で二十六歳になるはずなのだが、まだ、若い若いと――というか「まだ若いからわからないかもしれないけど」とか「若いからそう言えるんだよね」とか、とても言われがちな私である。それでも、中高生や二十歳前後のころよりはずいぶんと言われなくはなってきたが、はー、まだ言われるんだなあ、とはふしぎな気持ちである。まずいくつくらいになれば年齢を理由に言われなくなるのだろうか? 三十代となり三十代であることが板

もっとみる

「十年先まで書いて早く証明したい」若い私はそうこいねがって、

「若いね」と言われ続けてきた。

 比較的知的に早熟であったのと、元来の気質と、もろもろの状況と、いろいろと思い当たる要因はあった。
 じっさいにほんとうに若かったこともあるのだろう。現在二十五歳なので、いまよりもっと若かったということは、たしかにそれは世間的一般的に充分若いと表現しうる年代であった。

 言われはじめたのは、中学生あたりからだった。小学校までは、その表現は、「若い」ではなく「子ど

もっとみる

「おすすめのチーズ教えましょうか?」 ~経済的理不尽のなかで創作を続けていくこと~

 ともかくチーズという食物が好きで、食事にはとくにこだわらないほうだとは思っているのだけど、チーズだけにはこだわってしまう。
 こだわるというか、良質でおいしいチーズをたくさん食べたい。まあ、こだわっているんだろうだと思う。
 コンビニやスーパーで安価で手に入るようなプロセスチーズも普段食べるぶんにはいいけど、やっぱりこう、成城石井とかカルディとか紀伊国屋という、すこし高級感のあるスーパーに並んで

もっとみる

スタンドバイミー論

……しぬんじゃ……???がんばりすぎるのだいじょうぶなんか???

むずかしいのよねー。そういう、自分だけが世界でいちばんむりしてますがんばってます! モードんときってさー、
まわりのこときかないばかりか、逆効果な場合もある。
いかに、あなたはほんとうにがんばってて、それはすばらしいことですごいことで、
かつ、あなたはがんばってもがんばらなくてもそこにいるだけで価値があるものなのだと、
そういうの

もっとみる

【ミニコラム】だれだって自分の人生が、

だれだって自分の人生が自分にとっていちばん秘めたるもので複雑なもので立体的で薄闇があって薄ぼんやりとしててどうしようもなくて朝があって夜があって昼は退屈でとても長くて眠くてそれでもつづいてるものだと、思ってるさ、
きっと。
きっと、みんなそうなの。そう独断的に信じる私も、だからきっと、そうなの、ね。

必然的にリア友に多いわけですけども、

この世には

われわれ、
みたいなツイッター先行、
というか文章先行、
みたいな
にんげんばかりでは
なく むしろ少数かも、しれなく

生活の
ねっとり濃厚な生活のあまりを、

ぽつん

と、あまらせるつかいかたをするひとが、ほんとうに、ほんとうにほんとうにほんとうに多くいるという事実は、

刮目すべき事実だ。

どんな子どもにも悪夢はある。それとおなじで、

あまりにも当たり前のこと言うけど、
こう、人間関係的な引きこもりにもいろいろあって
こちらからするとサンプル出して類推してあんたはこうこうこうだからこうよって言いたくはなるけど
やっぱりそこには本人にしかわからない個別的な事情があるんではなかろうか。

私の場合はやっぱり、
「自分が見えているものをないとされる」苦痛がすごかった。
しかもこれほんとにおそろしいのは、じっさい論理的に正しいのは「みん

もっとみる

できるできるととくに根拠なく言い続けまして、

そうやってむかしは自己嫌悪ばかりつのっていたわけだけど、

できないことは、できないんだな。
それをできる! というのは思考停止の場合もあるし、
思考停止だったらそれはむしろ傲慢で、自己陶酔と呼ぶべきものだったのだ。

まあ、塩梅が難しいのは、認める。
だから難しくとも、
そして原理的には不可能でも、

客観性をね、とりいれてゆくしかない。

汎用性と個性の関係性についてのちょっとした仮説

かえってあんま機能追加しないほうがいいのはほんとだよなあ
たとえばラインとかも、あんまりアカ分けとかグループ分けしてもなあ、汎用性高くなるけどそれだとべつにラインでなくてもーとなるし、

まあそんなこととか思ってるとふとはっと思うのです、
これが個性というものの具体的たとえのわかりやすい一例になるのではないか、と。
個性というのはやりにくさも含む。そのぶん、長所にぎゅいんと価値がくるのだ。

ツイ

もっとみる
「私がいなけりゃ、文芸部は成り立たない」

「私がいなけりゃ、文芸部は成り立たない」

 高校二年生の秋、文化祭準備の真っ最中。
 文芸部の部長をつとめていた私は、あれやこれやとうきうきしながら楽しく――ではなく、
 わりとかなり苛々しながら、教室準備と部誌の印刷作業を進めていた。

「私がいなけりゃ、文芸部は成り立たない」――そんな思いに駆られて、心を削りながら準備を進めていた。

 文化祭当日に配布するために、以下のような宣伝ペーパーを書いて、じっさい文化祭の二日間で数百枚配りに

もっとみる

偽善と偽悪の本質

じぶんがきもちよくなるために言うのかそれとも、相手のことをほんとうにどうしたらいいかおもって言うのか。

べつに態度そのものは関連性がないはずだけど、
だから結果として自己陶酔はしばしば偽善的態度と結びつきだし、
相手に悪影響までも及ぼしうるかもとおそれながら言及するときのそれは、結果としての偽悪には、なりやすいのかな、と。

すっかりそうなってしまいまして、なんていうのはほんとうのところどこまでもおたがいさま。

かわってももんくをいう。
かわらなくてももんくをいう。

個性のぶつかりあいですから、ね。そんなもん、なのですねー。